女性護身術

女性護身術(じょせいごしんじゅつ、: Feminist Self Defense[1])とは、主に欧米の女性達によって開発された女性子供向けの護身術である。

強姦ドメスティックバイオレンス性的虐待などの暴力に対抗することを目的としている。

歴史[編集]

1970年代からのフェミニズムを初めとした女性運動の高まりにより、女性に対する暴力の問題が注目されるようになり、女性への暴力強姦性暴力を受けた女性の被害が調査・研究された。

その結果、女性の多くが夫や恋人によって殺害されていることや[注 1][注 2]、強姦の加害者はほとんどの場合で顔見知りであること[注 3][2]、強姦は暴力が伴わない場合が多いこと[注 4]、 強姦の多くが衝動的ではなく計画的におこなわれていること[注 5]などの事実が判明した。

そうした女性への暴力に対抗するため、初の性暴力被害者女性のシェルターと電話相談が、1970年代にヨーロッパ北アメリカに設けられた。しかし、フェミニスト達は暴力を受けた女性達をシェルターで受け入れるだけでは不十分だと考え、女性が犠牲者にならないようにするため、ボクシング柔道の技を基本に持つ、女性護身術が生まれた[3]

具体的には、1972年には米国空手をもとにしたモデル・マギングがマット・トーマスによって作られ[4][注 6]、同年にカナダのペイジ一家によって空手と柔道をもとにしたウェンドーが作られた。1989年にはキッドパワーがアイリーン・ヴァンデルザンデによって作られている[注 7]。女性護身術は米国の様々なマスメディアで取り上げられるようになり欧米を中心に普及していった[5][6][7][8][9]

これらの女性護身術は、初期の段階では空手合気道といった日本武道を元にして作られたが、後には独自の技術を発展させていった。

日本での普及[編集]

日本においては、なぎなた合気道といった伝統的な武道が、女性が習う護身術として古くから親しまれているが、性暴力への対処を目的とした護身術は存在しなかった。そうした状況の中、2002年インパクト[10]ウェンドー[11][12]が、2004年Self Defense from inside-out[13]が、アメリカおよびカナダから日本に導入され、2007年には国産初の女性護身術であるパラベラムが作られている[14]。また、2012年にはキッドパワーの日本人インストラクターがパラベラムにより養成されている[14]

特徴[編集]

現在でも多くの人が、屋外で見知らぬから人物から強姦されることが「本当の強姦」で、それ以外は見当しないという誤解[15][16]を持っているため、男性が作った武道護身術では「暗い夜道で怪しい男に突然襲われた場合」といった見ず知らずの他人からの暴力を受けた場合を想定している。しかし、前述のように、強姦や女性への暴力の多くが、夫、恋人、友人や知人といった親しい顔見知りから行われていることを踏まえて、女性護身術では顔見知りからの暴力に対抗するための方法を重視している[17]。また、暴力におけるジェンダーの影響を念頭に置き、一般的な護身術では考慮されていない、セクシュアルハラスメントドメスティックバイオレンスデート・レイプ夫婦間レイプなどの性的暴力に対応することを重視している。

こうした想定の違いから、一般的な護身術とは異なり、女性護身術では、加害者よりも体を強くして撃退するのではなく、心理学の応用や基礎体力の向上によって対抗することを重視[18][19]している。なぜならば、多くの場合において、護身術を必要としている人々は、体格や年齢、金銭的・時間的な余裕が無いなどの様々な理由により、加害者より肉体的に強くなる事が難しい場合が多いため、被害者が加害者を肉体的な強さで上回ろうとする試みは非現実的である。そもそも、前述の通り強姦などの女性への暴力の多くが、夫、恋人、友人・知人、家族・親族といった親しい顔見知りによって行われていること、そうした顔見知りによる強姦性的暴力の多くは、加害者が女性を殴打したり武器で脅すのではなく、社会的な上下関係、経済的な環境、薬物やアルコールの使用などによって強姦に及ぶ事が解っているため[20][21]、加害者よりも肉体的に強くなっただけでは効果的に身を守ることが難しい。

具体的には、女性は親しい顔見知りから強姦された場合には、加害者を憎む気持ちよりも庇う気持ちを持ったり、それ以降の加害者との関係性を考慮して、通報を躊躇うことが指摘されている[注 8][注 9]。このように通報すら躊躇う事情を考慮する必要がある[注 10]

心理的な強さ[編集]

女性護身術で言われる、精神的・心理的な強さとは、肉体的な痛みや苦しみに耐える根性や忍耐力といったものではなく、自尊心意思表明などを高め、パーソナルスペース(身体的・心理的な自分にとって許せる範囲と、そうでない範囲[22])を確立し強化することにある。境界線には個人差があり、育った環境、文化的要素、人種的背景、性格、その時の気分などが影響を及ぼす。

これらを強化することによって、他人の必要や要求を満たす前に、まず自分自身の安全や自由を尊重する態度を身につけることで、他者との対等で健全な人間関係を築くことを示している。具体的には、子供が虐待の加害者に対して言いなりにならずに加害者に立ち向かうことや、女性と加害者が夫婦や恋人関係にあったとしても2人が別々の尊重されるべき人格を持つ人間であることを主張する、といった態度や行動を指す。このような「心理的な強さ」によって、暴力を予防することが女性護身術では重視されている。

また男性であれば自立した個人としては当たり前とも言えるこうした行動を、女性が取った場合には時に社会から(男性からだけでなく女性からも)「我が儘な女だ」、「冷たい女だ」といった反発がある[23]。そうした反発に抵抗するための心理的な強さも示している。

そもそも、女性への肉体的な暴力は、女性を見下した価値観[24]が含まれていたり、女性に対して搾取的・権威的であったりするような不健全な人間関係が存在している場合[25]において発生しやすい[26]

ドメスティックバイオレンスにおいても男性加害者は、自分の妻や彼女は「自分の物」であり女性とは「男性の欲求を満たすことに専念する」存在で、女性自身の欲求は一切持っていない存在だと考えている[27]。このような加害者の標的にされないためには、女性の「心理的な強さ」及び健康が重要になる。

女性向け護身術との違い[編集]

世間で言われている「女性向け護身術」と、本項で解説している「女性護身術」は、どちらも女性が自己防衛するために作られているものだが、その内容は大きく異なる。「女性向け護身術」においては、女性は体力面では男性に劣るため、武道や格闘技の簡単な技を教えるに留まる[28]

一方、女性護身術では、格闘の技術だけを指導するのではなく、性暴力の実態や危険な男性の見分け方から、言葉や態度によって暴力に対抗する方法、女性をエンパワーメントして精神的な強さを身につける指導が行われている。そのため、女性護身術のインストラクターには、格闘についてだけではなく、性暴力の実態に関する知識、女性学およびジェンダーに関する知識をはじめ、性暴力被害を受けた場合に必要な医療法律に関する知識も必要となる[29]

評価[編集]

女性護身術の効果について、バートルによるレビューによると、護身術などによる「強い抵抗」には性犯罪を減らす効果がある事が確かめられている[30]。ディー=ベッカーは「危険信号に気付く訓練」として高く評価しており[31]、そのほかにも、欧米を中心として、様々な研究や調査、専門家によって受講者の自己防衛力を向上させる効果が確認されている[32][33][34][35][36][37][38][39][40]。犯罪心理学においては護身術が性犯罪を減らす効果が確かめられている[30]

一方で女性護身術の有効性について批判する専門家も存在しており、サンフォード・ストロングは「"女性のための護身術"のたぐいは、実際に効果のないものがほとんどであるうえ、ちょっと練習すれば使えるかのような印象を与えることもあり、かえって危険であると言わざるを得ません」としている[41]。サンフォードは、女性護身術が男性に対して指導されていない事実を踏まえ「男性にとって役に立たない方法は女性にも役に立たない」として、女性護身術に特有の格闘技術を批判している[42]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 殺人の女性被害者の32%が夫または恋人によって殺害されるが、男性の殺人被害者の場合は3%が妻または恋人に殺害されたに過ぎない。C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.301
  2. ^ 夫や恋人などによるパートナー暴力が、15〜44歳の女性の最も一般的な負傷原因で、強盗、交通事故、癌による死亡者数を越える。M.ハーウェイ,J.M.オニール『パートナー暴力』(北大路書房) 2011年 p.16
  3. ^ 面識の無い他人からの強姦は24.4%に過ぎなかった。C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 pp.393,394
  4. ^ 強姦では凶器はあまり使われず、怪我をするのは被害者の約4分の1で、その中で重症を負うのは5%。C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.394
  5. ^ 強姦の71%または3分の2以上が明らかに計画していた。C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.396
  6. ^ その後、モデル・マギングはマット・トーマス達男性インストラクターと女性インストラクターの内部対立により分裂し女性インストラクター達によって複数の団体が設立される。Mother Jones "Below the Belt" 1990 2015年9月30日閲覧
  7. ^ 他にも北アメリカおよび西ヨーロッパを中心に、様々な女性護身術団体があるが、ここでは日本で紹介されているものだけを挙げた。
  8. ^ ある調査によると見知らぬ他人から強姦された被害者の半数が通報するのに対して加害者が顔見知りの場合は誰も通報していなかった。田口真二,平伸二,池田稔,桐生正幸 『性犯罪の行動科学:発生と再発の抑止に向けた学際的アプローチ』北大路書房 2010年 pp.93-94
  9. ^ 「もし秘密を明かすことで養育を放棄されたり周囲から非難されるのなら、子どもは沈黙を守るだろう」荒堀憲二,石山一舟,須藤八千代,内藤和美,北山秋雄『子どもの性的虐待』大修館書店 1994年 p.19
  10. ^ 「上司であったり、会社の中で自分の立場を左右できる人からの暴力である場合、抵抗することは現実的に非常に難しい」橋本明子『セルフ・ディフェンス』三五館 2004年 p.23

出典[編集]

  1. ^ The Feminist Self-Defense Movement: A Case Study Patricia Searles,Ronald J. Berger Gender and Society Vol. 1, No. 1 (Mar., 1987), pp. 61-84
  2. ^ スーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』JICC出版 1990年 p.28
  3. ^ パラベラム協会 - 女性護身術について 2018年4月13日閲覧
  4. ^ Real knockouts: the physical feminism of women's self-defense 1997 p.60 2015年9月30日閲覧
  5. ^ LIFE Magazine "Fighting Back" 1993 2015年9月30日閲覧
  6. ^ Glamour Magazine "Conquering Street Fear: A Self-Defense Course Worked For Me" 1991 2015年9月30日閲覧
  7. ^ Walking Magazine "Walking Without Fear" 1993 2015年9月30日閲覧
  8. ^ Sassy Magazine "I Am Woman Hear Me Roar" 1992 2015年9月30日閲覧
  9. ^ Fitness Magazine "How Self-Defense Training Changed My Life" 1995 2015年9月30日閲覧
  10. ^ インパクト東京(NPO法人ライフライツ)の歩み 2015年10月7日閲覧
  11. ^ Wen-Do Japanについて (アーカイブ) 2015年10月7日閲覧
  12. ^ リアライズYOKOHAMAとは2015年10月7日閲覧
  13. ^ 南山大学 社会倫理研究所 (アーカイブ) 2015年10月7日閲覧
  14. ^ a b パラベラム - 団体沿革 2023年8月18日閲覧
  15. ^ スーザン・エストリッチ『リアル・レイプ』JICC出版 1990年 p.30
  16. ^ 田口真二・平伸二・池田稔・桐生正幸 『性犯罪の行動科学:発生と再発の抑止に向けた学際的アプローチ』北大路書房 2010年 p.16
  17. ^ 橋本明子『セルフ・ディフェンス』三五館 2004年 p.23
  18. ^ 橋本明子『セルフ・ディフェンス』三五館 2004年 pp.26-27
  19. ^ 森山奈央美,三宅りお『強い女性は美しい 今日から使える護身術』新水社 2011年 p.14
  20. ^ C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.394
  21. ^ 田口真二,平伸二,池田稔,桐生正幸 『性犯罪の行動科学:発生と再発の抑止に向けた学際的アプローチ』北大路書房 2010年 pp.50,68,71,148
  22. ^ 森山奈生美、三宅りお『強い女は美しい 今日から使える護身術』新水社 2011年 p.20
  23. ^ ギャヴィン・ディー=ベッカー『暴力から逃れるための15章』新潮社 1999年 p.65
  24. ^ ランディ・バンクロフト 『DV・虐待加害者の実体を知る』明石書店 2010年 p.151
  25. ^ 荒堀憲二,石山一舟,須藤八千代,内藤和美,北山秋雄『子どもの性的虐待』大修館書店 1994年 pp.42-44
  26. ^ C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.407
  27. ^ ランディ・バンクロフト 『DV・虐待加害者の実体を知る』明石書店 2010年 p.379
  28. ^ サンフォード・ストロング『凶悪犯から身を守る本』毎日新聞社 p21 2005年
  29. ^ 橋本明子『セルフ・ディフェンス』三五館 2004年 pp.31-34,74
  30. ^ a b C.R.バートル,A.M.バートル『犯罪心理学 行動科学のアプローチ』北大路書房 2010年 p.404
  31. ^ ギャヴィン・ディー=ベッカー『暴力から逃れるための15章』新潮社 p73 1999年
  32. ^ Journal of Personality and Social Psychology Vol.58, No.3, p472-486 2015年9月30日閲覧
  33. ^ Children and Youth Services Review Vol.44 p152–162 2015年9月30日閲覧
  34. ^ Society for Research in Child Development 2014 2015年9月30日閲覧
  35. ^ Promoting Safety Skills in Children: A Quasi-experimental Evaluation of the Kidpower Everyday Safety Skills Program 2015年9月30日閲覧
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  37. ^ JVA Consulting, LLC 2009 Archived 2014年5月21日, at the Wayback Machine. 2015年9月30日閲覧
  38. ^ Projet Pouvoirs aux tout-petits! Évaluation de l'implantation et des effets 2015年9月30日閲覧
  39. ^ Report to the Community 2003-2005 p36 2015年9月30日閲覧
  40. ^ LaFrance Associates Stand Alone Executive Summary 2004 2015年9月30日閲覧
  41. ^ サンフォード・ストロング『凶悪犯から身を守る本』毎日新聞社 p23 2005年
  42. ^ サンフォード・ストロング『凶悪犯から身を守る本』毎日新聞社 p24 2005年

関連項目[編集]