寺島達夫

寺島 達
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
生年月日 1936年12月2日
没年月日 (1997-09-12) 1997年9月12日(60歳没)
身長
体重
179 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1955年
初出場 1955年10月12日
最終出場 1956年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
てらしま たつお
寺島 達夫
本名 寺島 達(てらしま とおる)
生年月日 (1936-12-02) 1936年12月2日
没年月日 (1997-09-12) 1997年9月12日(60歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都世田谷区
死没地 日本の旗 日本
身長 179 cm
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
配偶者 葵京子
主な作品
『性と人間』
『河内の風より あばれ太鼓』
『犯罪のメロディー』
裸一貫
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寺島 達夫(てらしま たつお、1936年12月2日 - 1997年9月12日)は、日本俳優。元プロ野球東映フライヤーズ投手でもあり、本名及びプロ野球選手時代の登録名は、寺島 達(てらしま とおる)。

東京都世田谷区出身。海城高等学校卒業[1]

来歴・人物[編集]

海城高等学校ではエースとして活躍。2年生の時に1954年秋季関東大会都予選準決勝に進むが、明治高に敗れる。翌1955年春季関東大会都予選でも準々決勝に進むが早大学院に敗退。同年夏の甲子園都予選は4回戦で東工大付に敗れた。

1955年、東映フライヤーズに入団[1]。同年10月12日には毎日オリオンズを相手に初登板初先発を果たす。公式戦で1イニング3ホームランを喰らうなど成績は振るわず[1]。その後は登板機会に恵まれず、1957年限りで退団[1]

1958年、俳優に転向し新東宝に入社[1]吉田輝雄菅原文太高宮敬二ら若手長身スターと共に「ハンサム・タワーズ」として売り出された。1959年、映画『東支那海の女傑』でデビュー。1960年、『性と人間』に主演。3年で12本に主演[1]1961年、新東宝の倒産に伴いテレビに進出[1]。同年TBSの『ナショナルゴールデン劇場 / 青年の樹』に主演して人気を博し[1]1962年松竹に迎えられ入社[1]

1963年、『河内の風より あばれ太鼓』『島育ち』『あらくれ荒野』『港に消えたあいつ』に主演。1964年、『犯罪のメロディー』『裸一貫』『戦場の野郎ども』に主演。主演映画が12本と次々に作られ[1]、大いに期待されたが決定打に欠け[1]、同年、松竹を退社しフリーになる[1]

1969年[1][2][3][4]、日活がヤクザとお色気の題名から内容まで徹底的に東映作品のマネをした映画製作を始め[1][2][3][4][5][6]、これが意外にウケて[3][4][5]、東映の興行収入に影響が出てきたことから[1][3][4]、日活の対抗策として東映に引き抜かれた[1]。当時二児の父だった寺島は「セックス映画(東映ポルノ)は子供の教育上よくないので出たくない。でもヤクザ映画は別。スポーツを見るような爽快さがあるので、ボクは抵抗を感じない。このようなチャンスはそうないと思う。これでダメなら、俳優をやめる」と決意を述べた[1]。1969年に『極悪坊主念仏 人斬り旅』『日本女侠伝 侠客芸者』『組織暴力 兄弟盃』 『関東テキヤ一家』『昭和残侠伝 人斬り唐獅子』『渡世人列伝』と6本のヤクザ映画に出演したが[1]、以降は出演も途絶えたことから東映からの評価はあまり高くなかったものと見られる[1]。その後は、役に恵まれず、テレビドラマで助演に回る。

1997年大腸癌で入院し、9月12日心不全で死去した。60歳没。

妻は松竹で一緒だった女優・葵京子

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1955 東映 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 11 2.2 2 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0.00 1.13
1956 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 13 3.0 3 2 1 0 0 0 0 0 2 2 6.00 1.33
通算:2年 2 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 24 5.2 5 2 2 0 0 1 0 0 2 2 3.00 1.24

背番号[編集]

  • 49 (1955年)
  • 39 (1956年 - 1957年)

関連情報[編集]

主な出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “寺島達夫"やくざ"の仲間入り俳優生命かけて古巣東映へ"日活攻勢"の防御役”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年7月3日) 
  2. ^ a b “オレにもツキが… 雌伏1年半、岡崎二朗(日活)が初主役”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月2日) 
  3. ^ a b c d 「"貧すれば…"か、日活ヤクザ、ピンクに転向」『週刊朝日』1969年7月4日号、朝日新聞社、113頁。 
  4. ^ a b c d 「日活"マネマネ路線"に屈した本家東映」『週刊読売』1969年7月25日号、読売新聞社、31頁。 
  5. ^ a b 「清川虹子が助っ人東映やくざ路線」『週刊文春』1969年8月11日号、文藝春秋、20頁。 
  6. ^ 初山有恒「自壊の中の日本映画・その3『エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげに』」『朝日ジャーナル』1969年3月30日号、朝日新聞社、23-26頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]