少数与党政権
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少数与党政権 (しょうすうよとうせいけん、en:Minority government)とは、議会で過半数をとれていない政党が与党として運営する政権のこと[1]。少数与党とも呼ぶ。
与党が議会の過半数を取れていないため、法案や予算の成立には議席の比較的多い野党の同意が不可欠となり、政権運営が不安定になりやすい[1]。逆に野党が議会の過半数を握っているため、野党側の提案する法案が通りやすくなるという特徴もある[2]。議院内閣制の場合は、内閣不信任決議案が可決されるリスクが格段に高まることになる[1][2]。
少数与党を脱却する方法としては、選挙で議会の過半数を取る、他の政党と連立を組むという方法がある。ただし後者においては複数の政党で連立を組んでも過半数に届かない場合もある。その場合は「過半数に達するまで連立を拡大し続ける」という戦略が取られることもあるが、そのぶん多くの政党の意見を取り入れていく必要があり、イデオロギーや政策面で違いが大きい政党同士で連立すると却って政権が不安定になるリスクもある。
日本
[編集]イギリス
[編集]ドイツ
[編集]- 第8次アデナウアー内閣(キリスト教民主同盟)(1962年11月19日〜24日間)[6][注釈 2]
- 第3次エアハルト内閣(キリスト教民主同盟)(1966年10月28日〜34日間)[6][注釈 3]
- 第4次シュミット内閣(社会民主党)(1982年9月17日〜14日間)[6][注釈 4]
- ショルツ内閣
フランス
[編集]第四共和政
[編集]- ブルム内閣(社会党)(1946年12月12日〜36日間)[11]
- モレ内閣(社会党)(1956年1月31日〜497日間)[11]
- ブルジェ=モーヌリ内閣(急進社会党)(1957年6月11日〜148日間)[11]
第五共和政
[編集]- 第5次ポンピドゥー内閣(第五共和国民主連合(VREP))(1967年4月6日〜421日間)[12]
- 第6次ポンピドゥー内閣(第五共和国民主連合(VREP))(1968年5月31日〜40日間)[12]
- 第2次メスメル内閣(共和国民主連合)(1973年4月2日〜331日間)[12]
- 第3次メスメル内閣(共和国民主連合)(1974年2月27日〜89日間)[12]
- 第2次シラク内閣(共和国連合)(1986年3月20日〜782日間)[12]
- 第2次ロカール内閣(社会党)(1988年6月23日〜1056日間)[12]
- クレッソン内閣(社会党)(1991年5月15日〜323日間)[12]
- ベレゴヴォワ内閣(社会党(1992年4月2日〜361日間)[12]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1974年2月イギリス総選挙の結果、労働党が比較第一党となったが、ハング・パーラメントとなった。その結果、同年11月に再度総選挙を実施し(1974年10月イギリス総選挙)、労働党が単独過半数を獲得した(第4次ウィルソン内閣)。
- ^ 1961年ドイツ連邦議会選挙において、自由民主党(FDP)は、「アデナウアーを除外してCDUと(Mit der CDU, aber ohne Adenauer!)」連立を組むと公約し、CDU/CSUを過半数割れに追い込んだ[7]。しかしながら、FDPは、1962年秋のシュピーゲル事件に際して、シュトラウス国防相を辞任に追い込むとともに、FDP所属の閣僚を辞任させ[7]、連立を離脱した。これによって、アデナウアー内閣は、少数与党政権へと転落した。
- ^ 予算問題の対立をきっかけにFDPが連立を離脱したことによって、エアハルト内閣は少数与党政権へと転落した[8]。しかしながら、エアハルト内閣の崩壊後、連立の枠組みはCDU/CSUとSPDとの大連立へと向かったことから、単独政権の独善の弊をただす「矯正役(Korrektur)」を自任していたFDPは、単独野党へと転落した[9]。
- ^ FDPは、CDU/CSUに切り捨てられる形で単独野党へと転落した後、ソ連・東欧諸国との関係改善を目指すという外交政策(東方政策)での親近性を重視して、SPDとの連立オプションを活用すべきであるとの声が強まった[8]。その結果、1968年にFDP指導部が交代し、1969年ドイツ連邦議会選挙においては、SPDとの連立オプションを否定しない姿勢を示した[8]。総選挙後、FDPは、SPDとの連立を成立させ、二大政党のいずれとも現実的な連立可能性を有していることを実証し、政権交代をもたらしうる「転轍機(Weichenstellung)」としての機能を具備するに至った[8]。その後、1982年秋に、第二次石油危機と新冷戦が勃発し、国際環境の変化によってSPDとの経済・安全保障政策面での対立が深まると、FDPは、再び「転轍機」としての機能を発揮し、CDU/CSUへの連立の組み替えを行い、シュミット首相への建設的不信任案を可決して、コール内閣を成立させた[10]。
出典
[編集]- ^ a b c “少数与党とは 弱い政権基盤、短命の例多く”. 日本経済新聞 (2024年11月12日). 2025年7月11日閲覧。
- ^ a b c “少数与党 衆院で半数割れ、短命政権多く”. 日本経済新聞 (2012年6月22日). 2024年11月10日閲覧。
- ^ “「少数与党」内閣、政権運営に苦しみ短命に終わったケースも…1994年の羽田内閣は総辞職”. 読売新聞 (2024年10月28日). 2024年11月9日閲覧。
- ^ “第2次石破内閣が発足、30年ぶり少数与党…首相「できるだけ多くの党の理解を得て謙虚に取り組む」”. 読売新聞 (2024年11月11日). 2024年11月12日閲覧。
- ^ 宮畑 2010, p. 216.
- ^ a b c 宮畑 2010, p. 222.
- ^ a b 安井 2011, p. 13.
- ^ a b c d 安井 2011, p. 14.
- ^ 安井 2011, pp. 13–14.
- ^ 安井 2011, pp. 14–15.
- ^ a b c 宮畑 2010, p. 226.
- ^ a b c d e f g h 宮畑 2010, p. 227.
参考文献
[編集]- 宮畑建志「欧米10か国の政権政党」『レファレンス』第60巻、第11号、211頁、2010年 。
- 安井宏樹「ドイツにおける「小連立」政権の運営:小政党の影響力とその限界」『神戸法学年報』第27号、1頁、2011年 。