山路ふみ子

やまじ ふみこ
山路 ふみ子
山路 ふみ子
本名 大久保 ふみ子
生年月日 (1912-03-13) 1912年3月13日
没年月日 (2004-12-06) 2004年12月6日(92歳没)
出生地 日本の旗 兵庫県神戸市長田区
死没地 日本の旗 東京都中央区
職業 女優実業家慈善家・社会事業家
ジャンル 映画歌手
活動期間 1930年 - 1949年
活動内容 1930年に映画『時代の反抗児』でデビュー
配偶者  板谷健吾(1963年 - 1965年
著名な家族

(養父)大久保博司

(母)大久保マスエ(のちに惠代)
主な作品
映画
国境の町』(1935年、監督:松崎博臣
三聯花』(1935年、監督:田中重雄
己が罪』(1936年、監督:西鉄平
愛怨峡』(1937年、監督:溝口健二
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山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年明治45年〉3月13日[1] - 2004年平成16年〉12月6日[1])は、女優実業家社会事業家兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。

来歴・人物[編集]

1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった[2]

山路ふみ子という芸名の由来は、菊池寛の小説『結婚二重奏』のヒロインの名を菊池本人から頂戴したものである。

帝国キネマから日活へ移籍後、新興キネマに復帰し、主演女優として多くの作品に出演し、数本の映画主題歌もレコーディングした。日産自動車ウテナ化粧品等の広告モデルも務めた。

1937年、新興キネマに移ってきた溝口健二が映画『愛怨峡』の主演に抜擢し演技指導、その後も溝口の作品に出るようになる。

戦後、『暁の大地に咲く』(1949年)への映画出演を最後に映画界を引退し、母と共に東京都港区芝公園料亭「山路」を経営する実業家に転身した。自身は女将として、母が切り盛りし繁盛した。1964年に母のの病気を機に料亭を廃業した後に、当時の日本の医療器具では母の目の病気を完治させることが不可能であったことなどから、その土地と建物を売却して得た私財の内、半分以上にあたる一億円を基金として擲ち、「日本の科学の発展の為に寄与する。」という目的で「山路ふみ子自然科学振興財団」を設立して助成活動を開始し、今度は社会事業家として名前が世に知られるようになる。なお、これは「お金は人様のために使わなくては」との母の言葉に従ったものである。

1963年に東京都善行銅賞受賞、同年、「中央公論・婦人公論」最高殊勲夫人に推された。1972年藍綬褒章を受章。

また、1976年5月に映画人を育成して、功績のあった人を賞賛すること、ならびに教育・文化・福祉事業への支援活動を行うために、私財を投げ打って「山路ふみ子文化財団」を設立。毎年7部門に50万円の賞金を授与した。さらにネパールに職業訓練学校を寄付するなど、慈善活動を海外にまで広げた。

1978年、母が亡くなったショックで酒浸りとなり、くも膜下出血で倒れたが奇跡的に生還、車椅子で再び活動を続け、1993年にはネパールから勲章を贈られている。

2004年12月6日、心不全にて92歳で没。

エピソード[編集]

  • 1930年代に個人で自家用車を保有し、運転免許を取得して自ら車を運転していた、数少ない日本人女性ドライバーの一人である。

主な出演作品[編集]

愛怨峡』(1937年)
右から山路ふみ子、河津清三郎清水将夫
『評判五人娘』(1939年)
山路ふみ子(右)、逢初夢子(左)

著書・参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 山路 ふみ子』 - コトバンク
  2. ^ 『文藝春秋 2005年2月号』2005年2月1日、458頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]