岐阜聖パウロ教会

岐阜聖パウロ教会(ぎふせいぱうろきょうかい、英語:Gifu St.Paul's Church)は、岐阜県岐阜市金町にある日本聖公会中部教区に属する教会である。

概略[編集]

1887年(明治20年)12月、J.チャペル(James Chappell)師が、岐阜県尋常中学校(現在の岐阜県立岐阜高等学校)の英語と教師なり、宣教の基礎を築く。翌1888年(明治21年)5月、アーサー・ロイド司祭の推挙により、弟のJ.チャペルの後任として、英語教師として岐阜県尋常中学校に赴任した英国人宣教師のA.F.チャペル(Arthur Frederick Chappell)執事が私宅にて宣教を開始した。この年にA.C.ショー司祭により受洗した人々は、岐阜中学校教師の森巻耳(もり けんじ)、松井米太郎(当時岐阜県庁収税部に勤務、後の東京教区主教)、林衡太郎、森田角五郎、川瀬元九郎(スウェーデン体操を日本に広める)、森シゲ(森巻耳の妻)、森巻吉(森巻耳の長男)ら。[1] 岐阜市釜石町にも講義所を開設[2]。翌1889年(明治22年)、カナダ聖公会からの最初の宣教師であるJ.C.ロビンソン(John Cooper Robinson)司祭がこの地で初めて聖餐式を執行した。

1890年(明治23年)にはチャペル司祭が岐阜市上加納(現在の今沢町以南)の森巻耳所有の家屋に定住する。その後、米屋町に借家であるが仮聖堂を設け、岐阜聖公会が設立された。これが岐阜聖パウロ教会の始まりである。その後、岩根町(現在の今小町交差点西北角付近)に地所を得る。また、大垣本町に講義所を設置し、これが後の大垣聖ペテロ教会の基礎となる。[1]

1891年(明治24年)10月28日に濃尾地震が発生した。米屋町にあった仮聖堂は焼失した。焼失後、礼拝は、チャペル司祭の自宅(岩根町)東側に建てられた仮小屋で行われることになったが、この時、日本基督教会メソジスト教会と聖公会が連合して、被災者支援事業を開始する。[1]チャペル司祭と信徒たちは被災者支援にあたり、特に視覚障碍者の被災者の支援に尽力した。同司祭に寄せられた寄付金を元手に、森巻耳らと、視覚障碍者の被災者の生活安定を目的として、岐阜市神田町に土地と家屋を購入して、鍼灸按伝習所を開設した。その後単に技術習得だけでなく、全人教育を提供するため[3]1894年(明治27年)に岐阜聖公会訓盲院となり、これが現在の岐阜県立岐阜盲学校[4]及び社会福祉法人岐阜アソシア[5]の前身となった。

1896年(明治29年)、トロント大学ウィクリフ神学校教授を経て来日し、岐阜聖公会の専任牧師となったカナダ出身のH.J.ハミルトン(Heber James Hamilton)司祭(後の中部地方部主教)らによって、上加納にあった教会を処分し、当時講義所であった八間道町に教会を新築した。

1900年(明治33年)、ハミルトン司祭の後任としてアーサー・リー(Arthur Lea)司祭(後の九州地方部主教)が着任し、その後、加納講義所(加納町)、笠松講義所(羽島郡笠松町)、高富講義所(山県郡高富町)、北方講義所(本巣郡北方町)、黒野講義所(本巣郡黒野町)、大垣聖公会(大垣町本町)、大垣講義所(大垣町本馬場)、赤阪講義所(不破郡赤坂町)、垂井講義所(垂井町)、関ヶ原講義所(関ヶ原町)、揖斐講義所(揖斐郡揖斐町)、今尾講義所(海津郡今尾町)、高須講義所(海津郡高須村)、池野講義所(池野町)、神戸講義所(安八郡神戸町)にも講義所を開いて活動した。さらに、岐阜聖公会訓盲院の活動はもちろんのこと、刑務所出所者の支援として出獄人保護院を岐阜市鍛冶屋町に開設、加えて遊郭金津園での廃業支援などにも従事した。[1] なお、武藤山治の両親である佐久間国三郎(衆議院議員)と佐久間たねらの尽力により、蛇池村にも蛇池聖公会も設立される。[1]

1911年(明治44年)、岐阜聖公会は八間道町から、1908年(明治41年)に建設完了してジョン・マキム主教によって聖別された神田町の教会堂に移り、各地にあった講義所も岐阜聖公会に統合された。神田町の教会堂は岐阜郵便局本局の左隣に位置し、木造建てで1階は主に明道幼稚園が使用し、2階に礼拝堂があった。加納町にあった講義所は同年、加納准教会として発足したが、1919年(大正8年)には岐阜聖公会に合併された。

1945年(昭和20年)、神田町にあった岐阜聖公会は、疎開事業の施工のために必要であるとして、防空法第5条の規定に基づき、譲渡を命ぜられる。現在の金町の土地を代替地として購入した上で、教会堂を取り壊し、加茂郡太田町萬場町(現在の美濃加茂市)に疎開した。その際に、礼拝は岐阜市内在住の信徒私宅で行われていた。

戦後、岐阜市内に戻り、1947年(昭和22年)に大垣聖公会(現在の大垣聖ペテロ教会)の礼拝堂を現在地に移築し、岐阜聖パウロ教会と名称が変更された。この礼拝堂は、1916年(大正5年)に大垣市郭町に建てられ、1938年(昭和13年)に大垣市新町に移築したものである。礼拝堂内の聖宅や洗礼盤は、岐阜市神田町の旧礼拝堂にあったものが使用されている。また、礼拝堂には、内陣と会衆席を分けるスクリーンが設置されている。宗教改革以前には多数見られた装飾だが、現存するものは世界的にも少なく、日本聖公会においては、この岐阜聖パウロ教会の他に、山形聖ペテロ教会と日光真光教会でしか見ることができない。

なお、1915年(大正4年)、ヒルダ・ロビンソン(Hilda Robinson)によって始められた教会附属の岐阜明道幼稚園は、岐阜市内において2番目に設立された幼児教育施設であり、疎開中の4年間を除いて、1981年(昭和56年)まで続けられた[6]。戦後、金町に再建された明道幼稚園の建物は、現在も教会の会館として使用されている。

交通アクセス[編集]

JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から金華橋通りを北へ1km(徒歩15分、または岐阜バス・金華橋柳ケ瀬下車徒歩2分)、岐阜髙島屋向かい側。

参考文献[編集]

日本聖公会中部教区歴史編纂委員編『教区のあゆみ』1962年

日本聖公会中部教区歴史編集委員会編『かけはし カナダ聖公会から日本聖公会へ』2002年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 岐阜聖パウロ教会小史編集委員会 (1986年4月20日). 岐阜聖パウロ教会小史(前編) 
  2. ^ 教区史年表 – 日本聖公会 中部教区”. nskk.org. 2018年11月10日閲覧。
  3. ^ 『森巻耳と支援者たち』岐阜県立岐阜盲学校創立120周年記念事業実行委員会。 
  4. ^ 岐阜県立岐阜盲学校”. school.gifu-net.ed.jp. 2018年11月10日閲覧。
  5. ^ 視覚障害者生活情報センター”. www.gifu-associa.com. 2018年11月10日閲覧。
  6. ^ 視覚障害者生活情報センター”. www.gifu-associa.com. 2018年11月10日閲覧。

外部リンク[編集]