岡本清福

岡本 清福(おかもと きよとみ、1894年明治27年)1月19日 - 1945年昭和20年)8月15日)は、日本陸軍軍人。最終階級は中将1936年(昭和11年)の帝国国防方針改定の主務者(参謀本部作戦班長)。

岡本 清福
生誕 1894年1月19日
日本の旗 日本 石川県
死没 (1945-08-15) 1945年8月15日(51歳没)
スイス チューリッヒ
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1915 - 1945
最終階級 陸軍中将
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年譜[編集]

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

和平工作への関与[編集]

  • 1945年6月頃、岡本はスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行員だった北村孝治郎を呼び、アメリカに和平の希望があるのならそれに応じる用意があるという前提で、北村および同じく国際決済銀行為替部長の吉村侃の二人で和平工作に当たってほしいと依頼する[8][9]。北村はスイス公使の加瀬俊一の内諾を得た上で、7月に入ってから国際決済銀行顧問だったペール・ヤコブソン[10] を介して、アメリカの情報機関・戦略情報局(Office of Strategic Services、略称OSS。現在のCIA)でスイス支局長(ヨーロッパの責任者はロンドンにあるヨーロッパ総局のデイヴィッド・ブルース)だったアレン・ウェルシュ・ダレスと接触する(接触はヤコブソンが別個に両者と会う形でおこなわれた)。ダレスからは、日本のしかるべき筋から降伏受諾についての公式な表明があれば、直接交渉の接触に必要な準備を取るという反応を得る[11][12]。これを受けて、岡本は7月18日に陸軍参謀総長の梅津美治郎宛に意見具申の電報を送ったとされる[13][14]。加瀬公使もこれを受けて(岡本の電報が東郷茂徳外務大臣にも渡っていることを前提に)、スイスにおけるダレスとの和平工作を説明する電報を外務省宛に送った[15]。しかし、岡本の電報は梅津の目に触れていなかった可能性が高く[14]、外務省はソ連を介した和平交渉を最優先としていたため、この情報が生かされることはなかった。一方、アメリカ側ではポツダム会議前後の7月13、16、18日、8月2日付で、ダレスから統合参謀長会議や国務長官に宛てて、ヤコブソンからの情報が伝えられた[16][17]。とりわけ8月2日付の報告では、岡本や加瀬が日本に和平を促す電報を打ったこと、「在スイス日本人グループ」(北村・吉村・加瀬らを指す)はポツダム宣言を戦争終結への道筋を示した文書と評価した電報を日本に打ったことが記されている。彼らは日本政府が何らかの決断を下すことを期待していること、日本のラジオが伝える内容は士気を維持するための宣伝なので真に受けぬよう求めていること[18]、公式回答はラジオでなければ何らかのチャネルで伝えられると見ていることが述べられている[16]。最後の報告に関しては、これをトルーマン大統領やバーンズ国務長官が読んだという証拠はない[19]。仮に彼らがその存在を知っていたとしても、トルーマンは日本が無条件降伏を拒否することを予期し、当初から交渉に応じる考えはなかったという見解も唱えられている[20]
  • 8月12日に「スイス公使館付武官」名で「天皇の御位置に関する各国の反響」という電報が陸軍省に届けられた[21][22]。この中にはアメリカ政府は民主的政府樹立のために天皇が障害とならないとみなしていることや、イギリスの元駐日大使であるロバート・クレイギーが「アメリカが日本国内の混乱を避けようとするなら、皇室の維持は絶対に必要」と語ったことなどが記されていた[21][22]長谷川毅はこの情報は「武官から宮中に伝えられたと想定できる」としている[21]
  • 岡本は自決に当たり、和平工作の資料を遺すよう手続を取ったとされるが、それを引き取った補佐官が戦後焼却処分としたため、現存していない[23]

脚注[編集]

  1. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
  2. ^ 田々宮、1966年、pp.110 - 113
  3. ^ 竹内、2005年、p.53
  4. ^ 田々宮、2005年、pp.117 - 118
  5. ^ 竹内、2005年、p.53、84
  6. ^ 竹内、2005年、pp.84 - 86
  7. ^ 『官報』第4707号「叙任及辞令」1942年9月16日。
  8. ^ 田々宮、1966年、pp.119 - 124
  9. ^ 竹内、2005年、pp.53 - 54
  10. ^ 竹内、2005年では「ペル・ヤコブソン」と表記。
  11. ^ 田々宮、1966年、p.129
  12. ^ 竹内、2005年、pp.126 - 131
  13. ^ 田々宮、1966年、p.130
  14. ^ a b 竹内、2005年、pp.140 - 145。この電報は、アメリカが傍受した他の電報にその存在が記されているものの、電報の原文は日本側にもアメリカの傍受記録にも残っておらず、詳しい内容は不明である。
  15. ^ 竹内、2005年、pp.159 - 162
  16. ^ a b 竹内、2005年、pp.112 - 114、pp.128 - 131、150 - 151、pp.243 - 246
  17. ^ 有馬、2009年、pp.263 - 270、278 - 279、306 - 308
  18. ^ 鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を「重大な価値ある物とは認めず黙殺し、戦争完遂に邁進するのみ」という趣旨の談話を発表し、「黙殺」は"ignore"(無視)と翻訳されて海外に伝えられた。
  19. ^ 長谷川、2011年、p.19
  20. ^ 長谷川、2011年、pp.19 - 21。トルーマンが日本の拒否を前提としたのは、日本が決号作戦の準備を進めているという情報を背景に、日本と交渉することで弱みを見せたくなかったという説(リチャード・フランク)や、ソ連参戦前に無条件降伏で戦争を終わらせるため、原爆を使用する口実を求めたという説(長谷川毅)がある。
  21. ^ a b c 長谷川、2011年、pp.142 - 143
  22. ^ a b 有馬、2015年
  23. ^ 竹内、p320。工作の概要が今日伝わるのは、加瀬・北村・吉村による戦後の報告書やヤコブソンが遺した詳細なメモによってである。

参考文献[編集]

関連項目[編集]