島津光久

 
島津光久
島津光久像(尚古集成館所蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 元和2年6月2日1616年7月15日
死没 元禄7年11月29日1695年1月14日
改名 虎寿丸(幼名)→忠元(初名)→光久
別名 又三郎(通称
神号 天大空泰雲雄命
戒名 寛陽院殿泰雲慈温大居士
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町島津家墓地
官位 従四位上侍従左近衛少将→左近衛中将、薩摩守大隅守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
薩摩鹿児島藩
氏族 島津氏
父母 島津家久
島津忠清の娘
養母島津亀寿
兄弟 光久忠朗北郷久直忠広町田忠尚忠紀禰寝重永久雄鎌田政勝伊集院久国忠心伊勢貞昭樺山久尚北郷翁久正室、島津久慶室、種子島忠時室、島津久章室、島津久頼室、肝付兼屋正室、島津久茂室、入来院重頼正室
正室伊勢貞豊の娘・曹源院殿
継室平松時庸の養女・陽和院殿
側室:松澤氏、黒田氏、救仁郷氏、津留氏
綱久北郷久定忠長久岑久逵久侶鎌田正長久理喜入久亮久明久当久記桂久祐畠山基明入来院明雅久房久雄税所久皎、満、辰、酉、亀、鶴、鶴千代(詳細別記
養女島津久雄継室
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島津 光久(しまづ みつひさ)は、江戸時代前期の外様大名島津氏19代当主。薩摩藩の第2代藩主。初代藩主・島津家久(忠恒)の子、島津義久の玄孫にあたる。

生涯[編集]

元和2年(1616年6月2日、初代藩主・島津家久の次男として鹿児島に生まれる。寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年4月1日将軍徳川家光から、松平の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元(ただもと)から光久(「松平薩摩守光久」)に改名[1]。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだため、実際には島原の乱に参加することはなかった。

内政では、財政の立て直しのため家老島津久通に命じて、寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった[2]。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。

また、光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶[注釈 1]を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。

また父の代より始まった飫肥藩との牛の峠境界論争は延宝3年(1675年)に幕府の裁決により、飫肥藩側勝訴・薩摩藩側敗訴の決着の上で両藩の境界が確定、決着している。

その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年隠居して孫・綱貴家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配した。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ、素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている[4]

鹿児島県名勝仙巌園はこの光久の命によって築かれたものである。また鹿児島の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる[5]

系譜[編集]

※以下の記述は主に『寛政重修諸家譜』参照

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 初代異国方宗門方掛け家老という[3]
  2. ^ 寛政重修諸家譜』では「某氏」、『島津氏正統系譜』では「家女房」とある。
  3. ^ 同時代の佐土原藩島津忠興島津久雄とは同名の別人

出典[編集]

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年)ISBN 4-8231-0528-1
  2. ^ 今吉弘編 鹿児島県の不思議事典』(新人物往来社、2003年)ISBN 4-404-02994-2
  3. ^ 『職掌起原』
  4. ^ 木村礎藤野保村上直編『藩史大事典7巻 九州編』(雄山閣、2015年)ISBN 4-639-00725-6
  5. ^ 鶴屋八幡HP
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『島津歴代略記』 (島津顕彰会 1985年

関連項目[編集]