工楽松右衛門

工楽 松右衛門(くらく まつえもん、寛保3年(1743年) - 文化9年8月21日1812年9月26日))は、日本の江戸時代における発明家実業家

現在の兵庫県高砂市に生まれ、兵庫(現在の神戸市兵庫区)で廻船業を経営するかたわら、帆布松右衛門帆)を発明し、築港工事法を考案して、択捉島埠頭箱館ドックを築造した。これらの業績によって、日本の海運を支えた。高砂神社に松右衛門の銅像が建てられている[1]

年譜[編集]

  • 1743年寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の長男として生まれる[2]
  • 1758年宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比絵町にある「御影屋」という船主のもとで船乗りになる[2]。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立。
  • 1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功[2]。「松右衛門帆」として全国に普及。
  • 1790年寛政2年) - 江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する[2]
  • 1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。
  • 1802年享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる[2]
  • 1804年文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る[2]
  • 1812年(文化9年) - 死去。墓所は高砂市高砂町の十輪寺にある。神戸市兵庫区の八王寺に顕彰碑があるが、なぜか苦楽松右衛門と彫られている。

生涯[編集]

松右衛門は幼い頃から家業の漁労に従事していた。幼少から創意工夫が得意であったと伝えられる[3]。若くして帆船の操縦などを習得し、多くの航海経験を重ねた。

船乗りとして一人前になった松右衛門は、当時のの帆布が丈夫でなかった(むしろで作ったものや、綿布を2枚から3枚重ねてつなぎ縫いをしたものが主流だった[4])ことに不満を感じ、帆布改良の研究に着手する。やがて、播州の特産である太い木綿糸を用いて、厚く巨大な平織りの丈夫な帆布の開発に成功した。42歳(数え43歳)のときであった[3][5]。「松右衛門帆」と名付けられた新型帆布はすぐに全国に普及し、北前船をはじめとする大型和船の航海術は飛躍的に向上した。

1812年刊の造船技術書「今西氏家舶縄墨記 坤」によれば「松右衛門帆と言うは、太糸を縦横二た筋づつに織りたる帆なり」と紹介されており、縦横2本引き揃えた独特の織組織であることが解る。

1790年寛政2年)2月、松右衛門は、幕府より択捉島での埠頭建設の命令を受け、同年5月に準備を整え出航する。ロシア帝国南下政策から領土保全をはかる目的であった。厳寒での危険な作業を経て、1791年(寛政3年)10月に埠頭建設が竣工した[3]。高田屋嘉兵衛の航路の寄港地となる。

松右衛門は上記の業績から、1802年享和2年)に幕府より「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の姓をたまわった[3]

65歳のころ、故郷の高砂に戻る。箱館でのドック建設、石鈴船・石救捲き上げ装置の発明、防波堤工事などを手がける[3]1812年文化9年)に、70歳で死去。高砂神社の境内に顕彰のための銅像が建つ[2]。この銅像は1880年(明治13年)に、明治天皇が神戸巡行の際、松右衛門の功績を称えられ、1915年(大正4年)の大正天皇の即位の礼の時に従五位に叙せられたため、それを記念して同年に建立されたが、大東亜戦争で供出して姿を消してしまった。戦後、帆布業界などの浄財により1966年(昭和41年)に元の位置に復元された。

エピソード[編集]

  • 松右衛門は自らの信念を次のように言い残したとされる(大蔵永常『農具便利論』に紹介されている)。
「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」(=人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る)
  • 新巻鮭(荒巻鮭)を考案したと伝えられる[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 江戸期発明家・工楽松右衛門の邸宅跡整備へ”. 神戸新聞NEXT. 2016年1月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 松右衛門帆 工楽松右衛門の歴史
  3. ^ a b c d e 海拓者たち 工楽松右衛門 日本埋立浚渫協会ウェブサイト
  4. ^ 石井謙治『江戸海運と弁財船』日本海事広報協会 1988年
  5. ^ 魚谷勝『帆布の今昔』関西重布会 1977年「彼四十三才のとき天明五年遂に一種独特の帆布製織に成功した」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]