平王東遷

平王東遷(へいおうとうせん)は、東周の始まりとなった歴史的な事件である。周の平王が遷都した後の周王朝は東周と呼ばれ、武王が建国して幽王が亡くなるまでの周王朝を西周として区別し、この事件が周王朝の歴史上の転換点になっている。

原因[編集]

幽王8年(紀元前774年)に褒姒が子の伯盤を産み、幽王がその子を太子とし[1]宜臼廃太子したために、宜臼は母の実家である申侯の下に逃亡した[2]。幽王は申侯を攻めるために出兵するも、申侯は犬戎兵を率いて攻め、幽王と伯盤は殺害された。虢の諸侯は幽王の弟の余臣を携王として擁立したが、携王は紀元前750年文侯に殺害された[3]。同時期に、申侯、魯侯、許の文公により宜臼が平王として擁立され[2]、携王が殺害されるまで21年ほど2王が並立していた。携王が殺害されてから9年ほど、周王朝には正統な王が不在であり、次第に諸侯が朝覲することがなくなった。3年後の紀元前738年に、晋の文侯により平王が洛邑(現代の洛陽)に東遷した[3]

その後[編集]

平王が申侯に擁立され、父王を殺害して王位を簒奪した疑いもあって、諸侯に尊重されることがなく、周王の地位が急落した。名ばかりの君主となり、実際に諸侯を統率する力はなく、諸侯の勢力が増大する一方だった[4]。周王には外部からの侵攻に対抗する力がなく、諸侯に頼らざるを得なかったがゆえに、諸侯は強弱が併存するが、斉・楚・秦・晋が強大化し始めた[5]。最終的に、春秋時代と呼ばれる、諸侯が覇権を争う時代になった。

東遷した年の論争[編集]

清華簡によれば、平王東遷は紀元前738年とされ[6]、『左伝』僖公二十二年[7]においても、この説を検証している。

参考文献[編集]

  1. ^ 李昉 (984年). 太平御覽. 中國: 大宋朝廷 
  2. ^ a b 杜預 (約250年). 孔穎達. ed. 春秋左傳正義. 中國. p. 卷五十二昭二十六年 
  3. ^ a b 李學勤, ed. 清華大學藏戰國竹簡二(繋年). 上海: 中西書局. p. 一三八. ISBN 978-7-5475-0315-7 
  4. ^ 朱熹『章句』云:王者之迹熄,謂平王東遷,而政教號今不及於天下也。
  5. ^ 『史記』周本紀:諸侯彊併弱,斉・楚・秦・晋始大。
  6. ^ 2011年上海中西書局出版《清華大学藏戦国竹簡》(貳):周幽王取妻于西申,生平王,王或(又)取褒人之女,是褒姒,生伯盤。褒姒嬖于王,王与伯盤逐平王,平王走西申。幽王起師,囲平王于西申,申人弗畀,曾人乃降西戎,以攻幽王,幽王及伯盤乃滅,周乃亡。邦君、諸正乃立幽王之弟余臣于虢,是携恵王。立廿又一年,晋文侯仇乃殺恵王于虢。周亡王九年,邦君諸侯焉始不朝于周,晋文侯乃逆平王于少鄂,立之于京師。三年,乃東徙,止于成周,晋人焉始啓于京師,鄭武公亦正東方之諸侯。
  7. ^ 『左伝』僖公二十二年:初,平王之東遷也,辛有適伊川,見被髪而祭于野者,曰:“不及百年,此其戎乎!其礼先亡矣”。秋,秦・晋遷陸渾之戎于伊川。