彰考館

彰考館(しょうこうかん)は、江戸時代常陸国にある水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)。

水戸市立第二中学校前の彰考館跡碑及び大日本史編纂之地碑

経緯[編集]

水戸徳川家の世子であった徳川光圀は歴史学に強い関心を持ち、青年時代から修史事業を企図していたと言われる。光圀は世子時代の明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内の火事小屋御殿に史局を開設し[1]、数人の局員と文庫を設けて修史計画に取り組んでいたが、寛文元年(1661年)には父頼房の死去により水戸藩主に就任し、その後は藩政や公務に忙殺されていた。

このころ幕府では『本朝通鑑』の編纂事業が行われ、これに刺激を受けた光圀は寛文12年(1672年)史局を江戸小石川藩邸に移転し、「彰考館」と命名した[1]。「彰考」は光圀の命名で『春秋左氏伝』の杜預序の語「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)に由来する。史局には光圀揮毫による扁額が掲げられ、5か条の局員心得も記された。

史館員は全国各地に派遣されて史料調査を行い、修史編纂のほか史料収集の過程で立案された朝廷記録の編纂など、各種編纂事業に従事した。なお、光圀期の史館員は水戸藩出身者よりも士分として取り立てられた林家学派の儒者などの来仕者が中心となっている。

修史事業は天和3年(1683年)に『新撰紀伝』104巻の完成を見るが、南朝を正統とする理念を固めていた光圀は終期の延長と内容の不備を正すため修史事業は継続された。同年には新たに総裁を設置し初代総裁には人見懋斎が選任され、享禄元年には小石川藩邸内の天神坂上に新館を設置する。

光圀は元禄3年(1690年)に隠居西山荘での生活を送っていたが、晩年の光圀は紀伝以外の各種編纂事業を中止させ校訂作業を次世代へ持ち越すなど編纂方針を変更させ、史館員を増強させる等事業を促進させている。元禄10年(1697年)には本紀「百王本紀」が完成し、同年2月には残る列伝の完成のため総裁をはじめ主用な史館員を水戸城内へ移転させ、水戸彰考館(水館、水戸史館)を発足させた。

光圀の死後、修史事業は正徳5年(1715年)には完了し、藩主綱條の裁定で書名が『大日本史』(正徳本)と定められる。これは江館の主張した書名で、水館の主張する『皇朝新史』との間で論争があった。正徳本の完成以降にも修史事業は継続され、享保年間には安積澹泊が享保本『大日本史』を完成させ、本記・列伝に続く「志・表」の編纂が懸案事項となっていたが、澹泊の死後に修史事業は実質的な休止状態となる。

江戸後期の天明6年に総裁となった立原翠軒は光圀百年忌に際して紀伝の公刊を企図し、校訂作業が進められる。立原と藤田幽谷は編纂方針を巡り対立を深め、これは江館と水館の党派的対立に発展した(史館動揺)。このころ史館員は水戸藩出身者が多くなり、著名な史館員には長久保赤水藤田幽谷高橋坦室らがいる。

彰考館総裁[編集]

彰考館館員のなかで最高の地位が総裁である。創設当初はなく、天和3年(1683)に初めて置かれた。最初の総裁は人見懋斎である。その後、館員の増加とともに元禄年間には複数となり、享保のはじめまでは4・5人の定員を保った。しかし、その後彰考館の縮小とともに不定となり、1人も置かれないこともあった。総裁は任命制であり、学才のみで選ばれたわけではなかったが、いずれも当時の水戸藩を代表する学者であった。

石高は200石または300石。格式として大番役または小納戸役の職に相当していた(藩士の中では中士程度)。初期のころは他藩からの招聘者が多く、光圀時代の総裁では安積澹泊が唯一の水戸藩出身者である。江戸後期になると招聘者は減り、2代3代にわたって史館員を務めた者もいたが、実力によって士分取り立てになり総裁まで昇進した藤田幽谷(水戸城下の古着商の子)や豊田松岡(天功)(久慈郡の庄屋の子)のように、一代で出世した例もある。

総裁一覧[2]

明治以後の彰考館[編集]

幕末の水戸藩の動乱には、彰考館の史館員も多く巻き込まれた。明治維新により彰考館も廃止になるかとの噂も流れたが、『大日本史』の編纂事業が水戸徳川家の事業として続けられることとなり、偕楽園に移された上で[1]、組織を縮小しつつ継続された。明治期の著名な編修員は栗田寛である。明治39年(1906年)、『大日本史』が完成し、彰考館の事業は終わりを迎える[1]

明治40年(1907年)、明治天皇から「書物保存に役立てるように」と金1万円の下賜があり、明治42年(1909年)には皇后(昭憲皇太后)からも3千円の下賜があった。これらの下賜を受けて、明治43年(1910年)、彰考館の所蔵した史料や文献が現在の常磐神社の義烈館のあたりに収められ、彰考館文庫として保存された[1]

昭和20年(1945年)8月、水戸空襲により彰考館文庫は焼け落ち、彰考館所蔵史料はその大部分が灰となった[1]。しかし、あらかじめ避難させていた5分の1程度の史料が残り、茨城県水戸市にある徳川ミュージアム内の彰考館文庫に引き継がれており[1]、光圀揮毫の扁額なども所蔵されている。昭和42年(1967年)財団法人水府明徳会(現・公益財団法人徳川ミュージアム)が結成され、徳川家から家宝と土地建物の寄贈を受けた[1]。昭和45年(1970年)博物館法により「彰考館」として登録された[1]

水戸市立第二中学校前の跡地が、平成27年(2015年)4月24日に文化庁より日本遺産「近世日本の教育遺産 学ぶ心・礼節の本源」のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つとなることが発表された[3][4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年10月、341頁。 
  2. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 板垣源次郎『国史研究三題』板垣源次郎先生胸像建設会 大正14
  3. ^ 「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果及びロゴマークの発表について』(プレスリリース)文化庁、2015年4月24日。 オリジナルの2016年1月29日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20160129054716/http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2015042401.pdf2019年9月5日閲覧 
  4. ^ 近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-”. 文化庁. 2015年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年9月5日閲覧。

参考文献[編集]