徳大寺公能

 
徳大寺 公能
時代 平安時代後期
生誕 永久3年(1115年
死没 永暦2年8月11日1161年9月2日
別名 大炊御門右大臣
官位 正二位右大臣
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 徳大寺家
父母 父:徳大寺実能、母:藤原顕隆の娘
兄弟 幸子公能公親公保、能慶、公雲、円実、公全、公性、公重、春日局
養兄弟:育子
藤原豪子(藤原俊忠の娘)
忻子、坊門殿、実定多子、実全、藤原実家実守公衡、公慶、実宴、実任、実印、実快、藤原師長室、藤原通重室、藤原邦綱室、源資賢
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徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は、平安時代後期の公卿歌人左大臣徳大寺実能の長男。官位正二位右大臣大炊御門右大臣と号す。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

人物像[編集]

後白河天皇践祚すると娘の忻子は中宮となり、後白河帝在位中の保元元年(1156年)に右近衛大将、保元2年(1157年)に権大納言と急速に昇進する。

二条天皇の要請による藤原多子の再入内に対しては、『平家物語』では積極的、『今鏡』では困惑と、態度に違いがある。永暦元年(1160年)7月に正二位右大臣となるが、翌年8月に現職のまま47歳で薨去した。

多芸多才で管弦・歌・朗詠等に優れ、歌に関しては義兄である藤原俊成や、かつての家人・西行と交渉が深い。『詞花和歌集』以下、勅撰集に32首が入集する。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 待賢門院御給
  2. ^ 待賢門院御給。
  3. ^ 五節舞姫を献上したことによるという。そのため上臈の蔵人頭であった藤原公隆を越えて任ぜられた。
  4. ^ 父右大将・実能が土御門内裏の行事を勤めた賞。
  5. ^ 女御であった従三位多子皇后に立后されたことによる。
  6. ^ 藤原北家勧修寺流出身

参考文献[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 保延4年(1138年)に公能が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「徳大寺公能」の項。
  • 角田文衛『待賢門院璋子の生涯 ー 椒庭秘抄』、朝日選書281、朝日新聞社