日本お笑い史

日本お笑い史(にほんおわらいし)では、日本における演芸の歴史について述べる。

散楽と能・狂言[編集]

能(翁奉納 春日神社 (丹波篠山市)

物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称として散楽が発達し、そのうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥世阿弥らによってへと発展した。曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれた。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていった。奇術は近世初期に和妻となった。散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて文楽(人形浄瑠璃)へと引き継がれていった。

風来山人(平賀源内)による抄訳本『刪笑府』。安永五年=1776年刊。「まんじゅうこわい」の原話の部分。

20世紀前半のお笑い[編集]

浅草オペラ発祥の劇場、常盤座(右手前)。「笑の王国」の幟が見える。1937年1月

軽演劇の隆盛 [編集]

レコード文化の到来、ラジオ放送の始まり[編集]

1910年、日本初の国産蓄音機ニッポンノホンが発売される。

1925年、東京放送局(NHKラジオ第1放送)が開局。

喜劇映画の誕生と興隆[編集]

1903年、東京市浅草区浅草公園六区に、「日本で初めての常設活動専門館」として「電気館」がオープン。以降、映画は常設の興行メディアとして、東京・大阪といった大都市のみならず、日本全国に拡大した。特に、1930年代トーキー映画の技法が確立すると、榎本健一など軽演劇の人気者が出演するようになり、その人気が全国的なものとなった。

1960年代に一般家庭にテレビが普及するまでは、全国に向けてのメディアは、ラジオと映画であり、特に映画は、その予算や影響力から、森繁久彌(『社長シリーズ』・『駅前シリーズ』)などトップスターを輩出した。

テレビ創世期[編集]

軽演劇からの転身[編集]

1953年NHK日本テレビが相次いで開局したが、当初一流俳優などはテレビを「電氣紙芝居」として敬遠し、その結果それまで浅草公園六区や新宿などで活躍していた軽演劇の役者など、実力はあるが陽の目を見ず燻っていた者達がテレビの世界に飛び込んだ。三木のり平八波むと志由利徹南利明の「脱線トリオ」、佐山俊二関敬六谷幹一渥美清(のち海野かつをに交替)のスリーポケッツ石井均一座の他、浅草で人気を博していた大宮敏充の「デン助劇団」などが初期のテレビ・バラエティを飾っていた。

一方、大阪でも梅田の実演劇場・北野劇場に出演していた薄給のコメディアンであった茶川一郎佐々十郎芦屋雁之助小雁兄弟、大村崑等に白羽の矢が立ち、花登筺脚本の一連のコメディーで脚光を浴びた。とりわけ大村は時代の寵児となり、「コンちゃん」ブームを巻き起こした。この他に藤田まこと白木みのる等が進出。吉本新喜劇は当初からテレビを意識して制作されたもので、毎日放送とのタイアップもあり多くのスターを生み出した。一方の松竹新喜劇も看板役者の藤山寛美よみうりテレビを中心にコメディー数作を発表した。

クレージーキャッツの台頭[編集]

1959年フジテレビ開局と同時に始まった時事コント番組『おとなの漫画』は、本来本格的なジャズバンドであったハナ肇とクレージーキャッツを起用。青島幸男作の洗練された都会的なギャグで一躍市民権を得た。クレージーはこのあと日本テレビの『シャボン玉ホリデー』で更に人気を増し、国民的なお笑いグループとして認知された。特にメンバーの植木等が演じる「無責任男」が高度経済成長を背景とした時流に乗り、大いに当たった。

音楽バラエティ番組[編集]

シャボン玉ホリデー』もそうであったが、この手の番組の嚆矢は同じ日本テレビの『光子の窓』である。草笛光子を主役に起用したこの番組は、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティであった。このあと、NHKが『夢であいましょう』をスタート。渥美清、E・H・エリック黒柳徹子などがコントを演じていた(作・永六輔)。草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者であり、黒柳は現在もなおバラエティ番組に出演し続けている。

寄席芸人の進出[編集]

NHKがジェスチャー柳家金語楼を起用、全国区の人気に。

日本テレビ開局当日に発生した放送事故の穴埋め番組出演を機に、2代目三遊亭歌奴(3代目三遊亭圓歌)・三遊亭小金馬(4代目三遊亭金馬)・一龍齋貞鳳3代目江戸家猫八の4人は正力松太郎同社社長に認められ、番組一本を持たされた。これに目を付けたNHKは2代目歌奴以外の三人を引き抜き、『お笑い三人組』をスタートさせる。一方、文化放送で放送された『落語討論会』をフジテレビがテレビ化し、大喜利番組『お笑いタッグマッチ』(5代目春風亭柳昇司会)がスタート。レギュラー陣の4代目柳家小せんが発した「ケメコ」の流行語も相まって一躍人気番組となった。この流れが後述の「演芸ブーム」に繋がる。

喜劇映画の全盛[編集]

テレビ創成期にあっては、映画は娯楽のメディアとしての優位性を誇っており、カラーテレビの普及までは、手軽ではあるが画像・音声で劣るものとの認識があった。テレビで人気が出たコメディアンも予算が豊富な映画を重視する傾向があり、クレージーキャッツなどは、ゴールデンウィークや年末といった時季に合わせ、シリーズものの大作喜劇を制作し、爆発的にヒットした。

演芸ブーム[編集]

1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。

演芸ブームの後、テレビ界のお笑いはコント55号ザ・ドリフターズが台頭することとなる。コント55号は活動休止後、萩本欽一がピン芸人として数多くの番組で司会を務め、冠番組の視聴率合計から「視聴率100%男」の異名をとることとなる。1969年に開始したドリフ司会の『8時だョ!全員集合』(TBS)は、最高視聴率50.5%というバラエティ番組史上の最高記録を叩き出す人気を誇った。このほか、せんだみつお桂三枝(現・6代目桂文枝)てんぷくトリオ出身の三波伸介伊東四朗、そして小松政夫などが人気を博したが、当時のテレビ界の中心は歌手と俳優であり、お笑いは添え物、脇役に過ぎず[3][4]、全体的には萩本とザ・ドリフターズの2強が長く続くこととなる。

一方大阪では演芸ブーム以降WヤングコメディNo.1中田カウス・ボタンといった吉本興業の漫才師が台頭し、特に若者に人気の高かった中田カウス・ボタンを筆頭に笑いの潮流が吉本側に傾きつつあった。特に1969年にはじまった桂三枝らが司会を務める『ヤングおー!おー!』(毎日放送)は、ターゲットを若者層にすえ、明石家さんま島田紳助松本竜助西川のりお・上方よしおザ・ぼんちオール阪神・巨人太平サブロー・シローらを世に出し、関西ローカルにおける若者中心の人気を確実なものにし、漫才ブームへの先駆を形成していた。しかしながら、この傾向はまだ関西ローカルに止まっており、全国向けの関西の演芸は依然としてかしまし娘やレツゴー三匹などが起用され、松竹芸能の力が強かった(松竹でも笑福亭鶴光笑福亭鶴瓶などが登場していた)。

漫才ブーム[編集]

1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。

澤田隆治横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の傍流であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業はこのブームに乗じて多くの漫才師を送り出し、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。

東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送ハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。

お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、ギャランティの向上もあり、歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。

この他、関西弁は漫才ブームの影響で全国的な知名度を一層強めることとなった。また、それまで放送業界でタブー視されていた「楽屋ネタ」「(出演者の)内輪ネタ」の一般化や、裏方スタッフ(ディレクター・プロデューサー・AD等)が演者としてテレビに登場するようになったのもこの時期である。

1980年代後半からのブーム[編集]

1980年中盤から1990年初頭にかけて、テレビの深夜番組を発端としたブーム。演芸ブームを「お笑い第一世代」、漫才ブームを「お笑い第二世代」と数えて「お笑い第三世代」と呼ばれた[5]

1983年に放送開始した『オールナイトフジ』により、いわゆる「女子大生ブーム」が起こり、「素人」がバラエティ番組に多く出演するようになった。『オールナイトフジ』からの派生番組である『夕やけニャンニャン』が1985年に放送開始し、同番組でレギュラー出演者だったとんねるずが大ブレイク。『ねるとん紅鯨団』『とんねるずのみなさんのおかげです』などの大ヒットでとんねるずの人気は絶頂となった。とんねるずは並行して歌手活動も行い、『情けねえ』『ガラガラヘビがやってくる』『一番偉い人へ』などが大ヒット。1991年に『情けねえ』で第42回NHK紅白歌合戦に初出場。その後も、『とんねるずのみなさんのおかげでした』で結成した音楽ユニット「野猿」が番組人気と共に大ヒットし、1999年、2000年と紅白歌合戦に出場している。

1982年、吉本興業は新人発掘を目的として、大阪に新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)を開校。NSC1期生にはダウンタウンハイヒールトミーズなどがいる。当時は、漫才ブームが衰退し、劇場は閑古鳥が鳴く状態で劇場に若者は来なくなっていた。ダウンタウンの松本人志は当時の状況を「焼野原」だったと語っている。その後、ダウンタウン、ハイヒール、トミーズらは大阪で人気を博し、特にダウンタウンは『4時ですよーだ』でアイドル的な人気となり、1988年に『夢で逢えたら』で東京進出。ウッチャンナンチャン清水ミチコ野沢直子と共にコントを演じ、ミュージシャンを起用したオープニングや音楽コーナーなど、都会的でおしゃれな雰囲気も相まって深夜番組でありながら視聴率20%を超える大ヒットとなった。

その後、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは冠番組を多く持ち、長年にわたり、高視聴率を記録。とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンの3組はビートたけし明石家さんまらが押し上げたお笑いの地位をさらに向上させ、後進のお笑い芸人に多大な影響を与えた。

バラエティ番組ブーム[編集]

お笑い第四世代[編集]

1990年代に入ると、これまでのバラエティ番組人気の中心となっていたフジテレビに倣う形で、ターゲットおよび内容をサブカルチャー的観点に絞り込んだ多種多様なバラエティ番組が多く制作されることとなった[6]

ボキャブラ天国シリーズ
視聴者投稿を元に作られていたテレビ番組『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ)が、「大勢の若手芸人がネタを競い合う番組」に変化すると、若い女性などを中心とする特定層の支持を集めた。この番組をきっかけに知名度を得た世代をお笑い第四世代と呼ぶことが多い[5]爆笑問題ネプチューン、海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)などは、のちに各局で冠番組を持つことになる。
電波少年シリーズ
進め!電波少年』(日本テレビ、松本明子らが司会)は、アポイントメントなしの突撃インタビューをはじめとして、台本のないドキュメンタリーの味わいを取り込んだドキュメントバラエティであったが、特に後半は若手芸人に私生活を犠牲にした体験・チャレンジ企画をさせて笑いの種とする構成となり、過剰演出(やらせ)の傾向が強くなる。
そんな中で、過酷なヒッチハイク旅行を行なった猿岩石が、お笑いというよりも共感できる等身大の若者といった位置付けで人気を博し、彼らが唄った楽曲が一定の売り上げを集めたり、旅行中に記した日記をまとめた書籍が売り出され版を重ねるなど社会現象化する。
しかし、その後同様のコンセプトでドロンズなすびロッコツマニア矢部太郎カラテカ)らを起用して話題を提供しつづけたが、あくまで芸人よりも企画自体の面白さが中心であったために、企画自体がパターン化すると飽きられるのも早く、企画終了と同時に芸人も人気がなくなりテレビから消えることが非常に多かった。芸人を育てるというよりも消費し尽くすといった側面が強く、視聴者からの苦情や批判も殺到するようになり、これも番組が終了するきっかけにもなった。
ナインティナインとロケの多様化、同時代性
広告代理店やジャーナリズムによる造語「第四世代」という定義に厳密に合致していないが、ほぼ同時期のものとして、フジテレビ『とぶくすり』(のちの『めちゃ2モテたいッ!』→『めちゃ2イケてるッ!』)や日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』などがあり、これらの番組からナインティナインよゐこらが1993年頃から知名度を得た。これらに通底しているのはロケーション撮影(ロケ)の多用[7]、そして同時代性である。
1990年代初頭に漫才スタイルがダウンタウンのもとで飽和に達し、それ以降の芸人やお笑い番組は違うスタイルを築きあげる必要にせまられた。その経済学的にいう(商品)差別化の中でたどり着いたのが、街に繰り出し現場や社会を笑いのネタにするというロケーションの手法であり、「リアル」を笑いにして視聴者を惹きつけるとともに、テレビに映る若者が参加しているという同場所性や、それを通して若者と同世代を生きているという同時代性が親近感を醸成し、ヨコの繋がりを生み出して、漫才やコントとは違う人気に結びついた。
その結果、お笑い第一世代から第三世代までの時代に全盛を極めたコント番組が減少し、コント番組以外でもブレイクする芸人やタレントが非常に多くなったのもこの世代からである。
その他
  • 前述の通り、この時代は芸人がブレイクするきっかけとなった人気番組はロケ企画が中心のものがほとんどであったため、ロンドンブーツ1号2号や猿岩石などのように、お笑い芸人でありながら自身の漫才やコントをテレビでほとんど披露せずにブレイクした芸人が前後の世代と比較して多いことが特徴であるといえる。
  • ロケ企画中心だったのはジャニーズの番組も例外ではなく、V6の『学校へいこう』やTOKIOの『鉄腕ダッシュ』などがヒットしている。
  • バラエティ番組におけるテロップが頻繁に使われだしたのがこの頃である。出演者の発した言葉を逐一字幕化する手法が多用された一方、『電波少年』『めちゃイケ』などでは補足テロップ(『探偵!ナイトスクープ』が発祥とされているツッコミテロップ)を挿入する手法が取られ、以降の番組制作に多大な影響を与えた。
  • 吉本興業が東京・銀座に進出し、「銀座7丁目劇場」を開場。当初は吉本印天然素材の登場が売りであり、日本テレビやテレビ朝日でタイアップ番組も作成されたが、間もなく他に劇場に出演していたココリコロンドンブーツ1号2号らがテレビ番組に集中的にフィーチャーされることになる。また、NSC東京校が1995年に開校し、東京でも本格的なタレントの育成を手がけるようになった。
  • ジャニーズ事務所の所属のグループSMAPが自身の冠番組『SMAP×SMAP』において、当時衰退し始めていたスタジオコントに積極的に取り組み、視聴率30%超の人気を博し「平成のクレージーキャッツ」の異名を取る[8]。その後の所属事務所の後輩のTOKIOV6KinKi Kids関ジャニ∞等のジャニーズ事務所の所属のタレント・アーティスト等がお笑い系のバラエティ番組等に進出する契機となった。
  • 鈴井貴之大泉洋安田顕らがディレクターと過酷な旅を行う、北海道テレビの『水曜どうでしょう』で、深夜23時の放送にも拘らず最高視聴率18.6%を記録。全国で番販され、全国の他のローカル局でも同様のスタイルによる番組が制作されるようになった[9]

2000年代のブーム[編集]

お笑い第五世代[編集]

東京吉本の渋谷公園通り劇場が1998年、銀座7丁目劇場が1999年、大阪でも心斎橋筋2丁目劇場が閉館した。そんな中、2001年にルミネtheよしもとが開館し、大阪でも心斎橋筋2丁目劇場に続く若手芸人の拠点として、baseよしもとが開館。また、1999年にスタートした『爆笑オンエアバトル』(NHK)がヒットすると、他局でも若手のお笑い芸人を発掘しようとする動きが起こり、2000年代中盤から『エンタの神様』(日本テレビ)『笑いの金メダル』(朝日放送)などのいわゆる「ネタ見せ番組」が急増した結果、子供や若者を中心に人気となり、お笑いブームが巻き起こった。また、2001年には島田紳助企画立案の結成10年以内のコンビを参加対象とした新たな漫才コンテスト『M-1グランプリ』(朝日放送)が立ち上がり、翌2002年からは1人芸を対象にした『R-1ぐらんぷり』→『R-1グランプリ』(関西テレビ→カンテレ・フジテレビ共同)が、2008年からはコントのコンテスト『キングオブコント』(TBS)が開催されるなど、年に1度開催されるお笑いコンテストを生中継する番組が誕生した。

この時期になると吉本興業や太田プロといった老舗のみならず、数多くの芸能事務所からお笑いタレントが登場するようになった。その中にはサンミュージック企画ソニー・ミュージックアーティスツホリプロコム等従来お笑いタレントを手がけていなかった事務所も多数参入している。

フジテレビでは、「お笑い8年周期説」に則り『新しい波8』が放送された。その後2001年に、キングコングがメインキャストを務めた『はねるのトびら』がスタート。「若手芸人」がブームの中心であったが、「若手」と言ってもその多くが20代後半-30代であるのが特徴的で、(芸歴で考えて)第四世代にあたる中堅芸人と同い年・同期あるいは年上・先輩であるなどといった不思議な現象が起きている。これは、コンビ結成が遅かったり、先のボキャブラ世代の時代にブレイクを逃したり、未だ東京進出を果たしていなかった大阪吉本所属の芸人が多く流入してきたことや、これらの芸人の知名度が低いゆえに正規の第五世代と同じ扱いを受けたことが主な要因である。特に『ボキャブラ天国』に起用されていた芸人(いわゆる「キャブラー」)が東京芸人に偏重していたため[注釈 1]中川家ケンドーコバヤシたむらけんじ陣内智則などボキャブラ芸人とほぼ同世代の関西芸人が第五世代のブームによって売れるケースが目立った。

2000年代後半からは、先述の3番組の他にも『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』や『お笑いメリーゴーランド』(ともにTBS)、『爆笑レッドカーペット』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)における「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」など、短尺のネタを1ネタだけ披露させる構成のネタ見せ番組がブームとなる。ネタの時間が短いため多くの出演者を確保でき、新人芸人の出演チャンスが増やされた事がこれらの番組の大きな特徴である。2007年に放送開始された『あらびき団』(TBS)などでも短いネタ見せを中心としており従来の番組とは趣を異にしている。

ネタ見せ番組が増えたメリットとして、ネタが正当に評価されブレイクできる芸人が増えた一方で、単に番組用にネタ時間を短く調整した漫才やコントだけでなく、もともと短く構成されたショートコントや一発芸、キャラネタ、リズムネタなどが数多く生み出され、そのようなネタに適応したピン芸人が台頭した他、ブリッジを多用した「一発屋」といわれる芸人が急増するきっかけにもなった。ピンネタでブレイクした芸人の中にはレイザーラモンHG犬井ヒロシなだぎ武世界のナベアツムーディ勝山天津木村などもともとコンビを組んでいるにもかかわらずピン芸人のような扱いを受けた若手・中堅芸人も多い。一発屋芸人はブレイクした年のあらゆる番組に出演し一世を風靡するものの、年明けには飽きられその後テレビから姿を消す、という新たなパターンが生まれた。また、こういった芸人はNHK紅白歌合戦にゲスト出演したり、流行語大賞を受賞するケースがほとんどである。

大ブームを起こした芸人が消費し尽くされてしまうと簡単に忘れられてしまう、という傾向は年を経るごとに激しくなっていった。このようなブームはそれまでお笑いに興味すら示さなかったような人々まで包括したため、その人気の基準は一種のトレンド的な性格を強めるようになり、芸人の在り方の変容ともされたが、一方でそれは笑いのレベルの低下と見る向きもあった。

また次長課長井上聡チュートリアル徳井義実などに代表される“イケメン芸人”が急増したことや、お笑い情報のみを取り扱ったお笑い専門誌が次々に発行されるなど、芸人のアイドル化が一般的となった。

この時代は一時的にコント番組が復活傾向にあった時期で、特にお笑いブーム真っ只中の2005年には『ワンナイR&R』『リチャードホール』『10カラット』『落下女』『ミンナのテレビ』と各局で若手芸人のコントコーナーがある番組が放送されていた。

2010年以降のお笑い[編集]

お笑い第六世代[編集]

2010年代に入ると、2000年代のお笑い人気を支えたバラエティ番組やネタ見せ番組が慢性的な人気低下を抱えるようになる。いわゆる「テレビ離れ」の影響が示唆される中[6]、2010年の『M-1』の一時終了に始まり、やがてほとんどのお笑い番組が放送を終了した(もしくは定期の特番化)。また、BPOによる規制などテレビ局にコンプライアンスが求められるという時代の流れも相まり、ある意味でハラスメント的な性格を含むお笑いバラエティ番組への風当たりが強まったことで[6]、『めちゃ2イケてるッ!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』といったかつてお笑いブームを牽引し、長寿番組となっていた番組までもが相次いで放送を終了した。

また、コンプライアンス問題は芸能人側にも波及し、不祥事で活動を休止するお笑いタレントも現れた。暴力団関係者との交際が噂されていた島田紳助は多数のレギュラー番組を抱えたまま2011年に芸能界を引退した。2019年にはお笑い芸人による闇営業問題が発覚。この件は問題の背景に吉本興業のマネジメント体制の不備があり、問題発覚後の対応も含め吉本所属タレントからも批判が殺到することとなった。

しかしそんな中でも、『アメトーーク!』(テレビ朝日)や『人志松本のすべらない話』(フジテレビ)『しゃべくり007』(日本テレビ)といったトーク番組や、俳優やタレント、アイドル、知識人などを交えたVTR主体の情報番組などは変わらず安定した人気を獲得。それに伴い「雛壇芸人」というジャンルが大々的に紹介され、お笑いファンの間で新たなジャンルとして知られる様になった。また、加藤浩次近藤春菜の『スッキリ』(日本テレビ)、南原清隆の『ヒルナンデス!』(日本テレビ)、設楽統の『ノンストップ!』(フジテレビ)など、午前-昼間に放送する情報番組で芸人がMCやコメンテーターを務めるというケースが増加した他、田村裕又吉直樹若林正恭の著書がベストセラーとなるなどお笑い芸人の活動に多様化が見受けられるようになる。ただ、このような展開によってお笑い界の第一線に定着したのは2010年以前にブレイクを果たした、既に「売れている」芸人たちであった[10]

フジテレビでは、次世代の若手を発掘すべく制作された『新しい波16』から発掘されたメンバーによる『ふくらむスクラム!!』→『1ばんスクラム!!』が放送され、新たなスター発掘が試みられたが不発に終わった。その後、『ピカルの定理』や『ミレニアムズ』、『爆笑レッドシアター』などが放送され、一定の人気を獲得したものの、かつての人気番組ほどの長期放送とはならなかった。

2011年には『THE MANZAI』が『M-1』に代わるお笑いコンテストとして復刻、そして2015年には『M-1』が復活を遂げ(『M-1』復活以降は年1回放送の大型ネタ番組『THE MANZAI プレミアマスターズ』として放送)、年3回放送の大型ネタ番組『ENGEIグランドスラム』(フジテレビ)が放送を開始。2013年には歌ネタのコンテスト『歌ネタ王決定戦』(毎日放送)、2017年には女芸人のコンテスト『女芸人No.1決定戦 THE W』(日本テレビ)がそれぞれ新設された。また、『水曜日のダウンタウン』(TBS = 2014年放送開始)、『さんまのお笑い向上委員会』(フジテレビ = 2015年放送開始)といった比較的過激な内容のバラエティ番組も少なからず存在し[6]、「お笑いとは何か」を新たに問い直す内容も含むことで人気低下への対抗策が講じられている。さらには、「テレビ離れ」を逆手にとる形でAmazonプライム・ビデオAbemaTVなど、規制の少ないネット配信サービスを利用したバラエティ番組の放送も増加しており、お笑い番組やバラエティ番組の大きな変革期に突入した。

2018年頃まで減少傾向にあったお笑い・ネタ見せ番組が2019年頃から再び増加しており、コント番組もレギュラー・特番問わず復活するようになった[11]。これはビデオリサーチの視聴率調査方式の大規模なリニューアルが行われ、各テレビ局は広告の取引指標を世帯視聴率から個人視聴率に変更し、「コアターゲット」とよばれる消費意欲の高い層(局によって異なるが概ね13~49歳まで)を設定し、それに合わせた改編を実施するようになったことや、2020年の新型コロナウイルス流行の影響で、それまでバラエティ番組の主流だった雛壇芸人を集めるタイプの番組制作が難しくなったという背景もある。

お笑い第6.5世代[編集]

『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』、『M-1グランプリ』(第1回 - 第10回)などのネタ見せ番組によるお笑いブームの恩恵を受けた団塊ジュニア世代1970年代生まれ)の第六世代 [12][13]ゆとりの第七世代の狭間の(1980年〈昭和55年〉-1986年〈昭和61年〉生まれのプレッシャー世代)を指す言葉として、「お笑い第6.5世代」という言葉も誕生した[14][15]

「お笑い第6.5世代」という言葉は『アメトーーク!』(テレビ朝日)の企画「僕らビミョーな6.5世代」(2020年2月27日放送)が発端で、それ以前に太田博久(ジャングルポケット)がプレゼンした企画「たぶんお笑い第6世代」が前身[16]である。昭和生まれ2000年初頭以前デビューの第六世代(南海キャンディーズオードリー千鳥など)の流れを汲みながら、平成生まれ2010年以降デビューの第七世代(霜降り明星ミキハナコEXIT宮下草薙四千頭身など)からあぶれているため辛酸を舐めている苦労人が多い[17][18]。『アメトーーク!』内での山内健司かまいたち)の「第7世代って言葉を作ったからこんな窮屈なことになっている」の発言通り[17]、この区分は曖昧なもので、同期の芸人でも早咲きの場合は第六世代に分類されるため、「第6.5世代」は置かれている状況を指し示す言葉である[19]。第七世代は少数で括られた若手芸人であるため仲間意識が強く[20]、彼らを若林正恭(オードリー)は「観てきた景色が違う」、6.5と7の狭間にいる屋敷裕政(ニューヨーク)は「俺ら(ニューヨークは)最後のガラケーみたいな」としている[21]。新たなネタ見せ番組『有吉の壁』(日本テレビ、2020年 - )の誕生により、雛壇芸人や第六世代、第七世代からあぶれた第6.5世代の賞レース常連組(チョコプラシソンヌパンサー、ジャンポケ、さらば三四郎など)が再浮上、再評価される流れにある[14][22]。また、第6.5世代から大学お笑い出身者が賞レースやバラエティ番組で頭角を表し始める[23][24]

お笑い第七世代[編集]

2010年代後半になると、1987年(昭和62年)以降に生まれたデジタルネイティブである「ゆとり世代」や[25]1989年1月8日生まれ以降の平成生まれに該当する、2010年代後半から活躍し始めた若手お笑い芸人を指す俗称として「お笑い第七世代」という言葉が用いられるようになる[26][27]。「第七世代」という呼び分けについてはM-1グランプリ2018優勝の霜降り明星せいやが、上記のような自身と同世代にあたる芸人を「お笑い第七世代」と定義付けて自称し、世代をあげての活躍を目指すことを提言したことに端を発しているとされているが、実際の発言は「お笑いに限らずスポーツや音楽を交えた多ジャンルの同世代と番組をやりたい」といった趣旨の発言だった[10][28]

この世代の特徴としては、先述したように地上波放送以外のデジタルコンテンツとの関わりが増しているお笑い界において、デジタルネイティブ世代として重要な役割を担うとされ[10]、霜降り明星、ハナコEXIT四千頭身などYouTubeで活動する芸人も多い。その一方で水溜りボンドおるたなChannel大松絵美たっくーTVのように芸人からYouTuberに転身し、フワちゃんのようにタレントとしてブレイクするものまで現れた。また、ダウンタウンの影響をあまり受けておらず[29][30]、このため、新たな時代のお笑いを形づくることが期待される世代となっている[6][31]。また第6.5世代以上に大学お笑いサークルが活性化したことによって[24]、新たな若手芸人が育ちやすい環境が増えたことも、彼らの成長を促している。

更に、この世代になると特定の芸能事務所に所属せず、個人事務所を立ち上げる者が現れるようになった。これは、前述のデジタルコンテンツの台頭により、既存の芸能事務所に依存しなくても芸能活動が出来る環境が整ったことや、前述した闇営業問題の影響から、公正取引委員会独占禁止法の適用範囲をフリーランスにまで拡大する方針を打ち出し、芸能人と芸能事務所の関係が大きく変動したことが理由として挙げられる[32]。特に事務所の退所・独立はこれより上の世代にも波及しており、コンビ間で所属事務所が異なる例も現れている。

平成の落語ブーム[編集]

平成に入って、落語界では1993年(平成5年)には初の「女真打」(三遊亭歌る多、古今亭菊千代)が誕生し、1995年(平成7年)には東京の5代目柳家小さん、翌1996年には上方の3代目桂米朝がそれぞれ「人間国宝」に認定され[33]、古典芸能としての地歩を固めた。人間国宝には、その後、2014年(平成26年)に十代目柳家小三治が認定されている。

21世紀に入って、落語界には、マスメディアでも幅広く活躍していた春風亭小朝が発起人となった「六人の会」や、新作落語の隆盛をめざした話芸集団「SWA(創作話芸アソシエーション)」の結成という新たな展開が生まれ、一方では長瀬智也岡田准一が主人公を演じたテレビドラマタイガー&ドラゴン』(TBS系)や連続テレビ小説ちりとてちん』(NHK)などの影響によって新たな落語ファンが生まれた[33]

このような現象はしばしば「平成の落語ブーム」と呼ばれる[33]。このブームの特徴は、「落語全般」が好きな落語マニアによるブームではなく、それぞれ自分のことばで語る個性的な落語家各人のファンによるブームであるということで、個別に熱烈なファン層をもつ落語家が多数存在することによっている[34]

年表(年代別)[編集]

19世紀[編集]

1857年

1864年

  • 3月「アメリカ・リズリー・サーカス」が横浜にて日本初のサーカス興行を行う。

1866年

1867年

1876年

1887年

1894年

1897年

1900年代[編集]

1904年

1905年

1908年

1910年代[編集]

1912年

1918年

  • 吉本興業が傘下の寄席を「花月」と改称。

1920年代[編集]

1921年

1922年

  • 吉本興業が東京・横浜・京都・神戸へも進出する。

1923年

1925年

1926年

1928年

1929年

1930年代[編集]

1930年

1931年

1933年

  • 吉本興業が吉本演芸通信を創刊。
  • 吉本興業発行「吉本演芸通信」の中で、『今後「萬歳」は「漫才」へと表記改称する』と発表[36]
  • 横山エンタツ・花菱アチャコが漫才の傑作、早慶戦を発表。
  • 4月1日 古川ロッパが浅草で「笑の王国」を旗揚げ。

1934年

  • 3月1日 アメリカのレヴュー団「マーカス・ショウ」が来日公演。連日の大入り満員に[36]
  • 4月25日 新橋演舞場で吉本興業が特選漫才大会を開催(初めて「まんざい」が「漫才」と書かれる)[36]

1935年

  • 帝都漫才組合(現在の漫才協会)設立。
  • 吉本興業が浅草公園六区に浅草花月劇場を開場。
  • 5月 浅草松竹座にて「漫才大会」が行われる。漫才が東京へ本格的に根付く契機となる[36]

1937年

1938年

1939年

1940年代[編集]

1940年

1941年

1943年

1944年

1945年

1946年

1948年

1949年

1950年代[編集]

1950年

1951年

1953年

  • 2月1日 日本初のテレビ局として、NHKがテレビの本放送開始。
  • 8月28日 日本初の民間放送テレビ局、日本テレビが本放送開始。

1954年

1955年

1956年

1957年

1958年

1959年

1960年代[編集]

1960年

1961年

1962年

1963年

1964年

1966年

1967年

1968年

1969年

1970年代[編集]

1970年

1971年

1972年

1973年

1974年

1975年

1976年

1977年

1978年

  • 落語協会分裂騒動:三遊亭圓生一門、古今亭志ん朝一門、橘家圓蔵一門が、それまで所属していた「落語協会」から独立して「落語三遊協会」を設立。落語協会が真打ちを乱造することに反発したのが理由だった。落語界全体に大きな波紋を呼び、一時は落語協会の半数が新団体に移るという予測もされたが、実際には様々な要因があって参加を見送るものが相次ぐ。さらには新団体参加者の寄席出演が拒否されたため、志ん朝一門と圓蔵一門は早々に離脱。翌年に落語三遊協会は自然消滅。
  • 4月9日 ラジオ大阪鶴瓶・新野のぬかるみの世界』放送開始。
  • 10月1日 博品館劇場開場。

1979年

1980年代[編集]

1980年

1981年

1982年

1983年

1985年

1986年

1987年

1988年

1989年

1990年代[編集]

1990年

1991年

1992年

1993年

1994年

1995年

1996年

1997年

1998年

1999年

2000年代[編集]

2000年

2001年

2002年

2003年

2004年

2006年

2007年

2008年

2009年

2010年代[編集]

2010年

2011年

2012年

2013年

  • 12月20日 「よしもと幕張イオンモール劇場」がオープン。

2014年

2015年

2016年

2017年

2018年

2019年

2020年代[編集]

2020年

2022年

  • 4月10日 芸歴15年以上のお笑い芸人を対象としたコンテスト「G-1グランプリ」第1回大会決勝が開催。第1回優勝者は磁石
  • 10月25日 『有吉クイズ』がゴールデンに昇格し、有吉弘行は月曜から日曜まで全曜日のゴールデン・プライムタイムに冠番組を持つことになった[46]

2023年

お笑いコンテスト・イベント一覧[編集]

現在も開催中のイベント[編集]

決勝戦開催月 大会名 主催 ジャンル 出場資格
1月 上方漫才協会大賞 上方漫才協会吉本興業 漫才 上方漫才協会に所属する芸歴約10年以内の漫才師
2月 ワタナベお笑いNo.1決定戦 ワタナベエンターテインメント 制限なし ワタナベ所属のお笑いタレント
3月 R-1グランプリ 吉本興業 ピン芸 ピン芸人
3月 NHK上方漫才コンテスト NHK大阪放送局 制限なし 結成10年未満
3月 ytv漫才新人賞 読売テレビ 漫才 大阪拠点で芸歴10年以内
4月 上方漫才大賞 ラジオ大阪関西テレビ 漫才 新人賞は結成10年以内、大賞・奨励賞は芸歴制限なし。奨励賞と新人賞は賞レース形式、大賞は選出
4月 G-1グランプリ G-1グランプリ実行委員会 制限なし 芸歴15年以上
5月 THE SECOND 〜漫才トーナメント〜 フジテレビ 漫才 結成16年以上のプロ芸人のコンビ
6月 UNDER5 AWARD 吉本興業 制限なし 芸歴5年以内のプロ芸人
7月 ABCお笑いグランプリ ABCテレビ 制限なし 芸歴10年以内
7月 漫才新人大賞 漫才協会 漫才 漫才協会に所属する結成20年以内のコンビ
7月 ツギクル芸人グランプリ 日本音楽事業者協会・フジテレビ 制限なし 協会加入事務所の被推薦者(1事務所ごとに枠の上限あり)
7月 笑ラウドネスGP ABEMA 制限なし 芸歴制限なし
8月 今宮子供えびすマンザイ新人コンクール 今宮戎神社 漫才 コンテスト受賞歴なしのコンビ
9月 ハイスクールマンザイ 吉本興業 漫才 高校生限定
9月 UNDER 25 OWARAI CHAMPIONSHIP ニッポン放送SLUSH-PILE. 制限なし 満25歳以下限定
10月 キングオブコント TBSテレビ コント 芸歴制限なし(二人以上)
10月 NHK新人演芸大賞 NHK 制限なし 芸歴10年未満
10月 NHK新人落語大賞 NHK 落語 入門15年未満の二ツ目格
10月 マイナビ Laughter Night チャンピオンライブ TBSラジオ 制限なし 同番組レギュラー放送での月間チャンピオン獲得者
11月 繁昌亭大賞 天満天神繁昌亭 落語 入門25年以下の上方落語家
12月 M-1グランプリ 吉本興業 漫才 結成15年以内
12月 女芸人No.1決定戦 THE W 吉本興業 制限なし 女性芸人限定で芸歴制限なし
12月 THE MANZAI マスターズ フジテレビ 漫才 招待制の非コンテスト
12月 オールザッツ漫才 MBSテレビ 制限なし ネタ組とは別に若手芸人のトーナメント形式で優勝者が決まる
春・秋の年2回 IPPONグランプリ フジテレビ 大喜利 招待選手のみ
不定期(年一回)

開催が終了したイベント[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時は吉本興業所属芸人の起用が現在では考えられない程極端に少なく、特に大阪吉本所属芸人がほとんど出演していない状態だった。ただし同じ大阪芸人でも松竹芸能からは少数出演していた。詳細はボキャブラ天国シリーズに登場したキャブラー一覧を参照。
  2. ^ 道頓堀角座、新宿角座など、松竹芸能が所有する会場で開催される大会では、松竹芸能が主催となる。

出典[編集]

  1. ^ 安楽庵策伝、鈴木棠三(訳)『醒睡笑-戦国の笑話-』平凡社、1977年。ISBN 4582800319 
  2. ^ 帝京平成大学公式サイト内の「笑い学講座」の第37回「劇団結成の動向4
  3. ^ 戸部田誠『1989年のテレビっ子』双葉社、2016年、6-14頁。ISBN 9784-575-31105-1 
  4. ^ “たけし オイラより先に売れた西城秀樹さん…当時は格差で口も利けなかった”. 東京新聞(TOKYO Web) (中日新聞東京本社). (2018年5月22日). オリジナルの2018年6月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180617044011/https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/1014811/ 2018年8月5日閲覧。 
  5. ^ a b 雑誌ケンガイ2005年2月号「R30ボクらが歩んだお笑い道30年史」芸文社刊
  6. ^ a b c d e テレビは「時代遅れ」なのか? 「平成」のテレビバラエティの変遷(てれびのスキマ) Yahoo!ニュース 2019年4月8日
  7. ^ 高田文夫、松岡昇、和田尚久『ギャグ語辞典』(2021年、誠文堂新光社)26-29頁
  8. ^ a b c 西条昇『ニッポンの爆笑王100 エノケンから爆笑問題まで』白線社、2003年。ISBN 4592732111 
  9. ^ 地域発〈インタビュー企画〉人気番組はこうして育てる 第3回”. NHK. 2021年3月21日閲覧。
  10. ^ a b c 霜降り明星が牽引する「お笑い第七世代」は、令和の“笑い”の主役になれるのか? (1/2) AERA dot. 2019年4月27日
  11. ^ テレビは世帯視聴率から個人視聴率になって番組づくりはどう変わったの?放送作家トーク2021”. テレビドガッチ (2021年1月8日). 2021年4月24日閲覧。
  12. ^ お笑い第7世代が席巻 第1世代からの歴史とそれぞれの特徴”. NEWSポストセブン (2020年6月23日). 2021年1月21日閲覧。
  13. ^ お笑い第6世代の希望はかまいたち…霜降り明星、EXITら第7世代への逆襲が開始された”. Business Journal (2020年4月29日). 2021年1月21日閲覧。
  14. ^ a b 『有吉の壁』はお笑い6.5世代を救う。内Pチルドレン有吉の優しさ”. 女子SPA! (2020年5月22日). 2021年1月21日閲覧。
  15. ^ 濱家率いる“ビミョーな6.5世代芸人”、第7世代の勢いに「失速を待て!」”. ラフ&ピース マガジン (2020年3月4日). 2021年1月21日閲覧。
  16. ^ かまいたち、ジャンポケ、三四郎小宮ら“6.5世代”集結、第7世代への思い”. お笑いナタリー (2020年2月26日). 2021年1月21日閲覧。
  17. ^ a b かまいたち・山内、第7世代提唱の霜降り・せいやに激ギレ 「全員若手でええやん」”. SHIRABEE (2020年2月28日). 2021年1月21日閲覧。
  18. ^ お笑い第7世代ブームで最注目、6.5世代は苦労人だらけ?”. リアルライブ (2020年8月14日). 2021年1月22日閲覧。
  19. ^ お笑い第7世代芸人人気の裏で、悩める「6.5世代」パンサー・向井慧の芸人としての底力”. 週刊女性PRIME (2020年11月24日). 2021年1月23日閲覧。
  20. ^ 陣内智則が見た「お笑い第7世代」 仲間感が新しい”. NIKKEI STYLE (2020年2月12日). 2021年1月21日閲覧。
  21. ^ ニューヨーク、お笑い第7世代と第6世代の違いを熱弁 「俺らは最後のガラケー」”. SHIRABEE (2020年10月7日). 2021年1月21日閲覧。
  22. ^ ブーム終了の兆し?テレビ業界で始まった“お笑い第7世代離れ”と“第6.5世代再評価””. 週刊女性prime (2020年12月25日). 2021年1月21日閲覧。
  23. ^ 3年連続でM-1優勝「学生お笑い」「大学お笑い」出身者が2021年もテレビを席巻する理由”. Smart FLASH (2021年1月2日). 2021年1月21日閲覧。
  24. ^ a b なぜ「学生芸人」「お笑いサークル」出身者は売れるのか?|“大学お笑い”の魅力を聞く”. QJweb (2020年8月26日). 2021年1月21日閲覧。
  25. ^ ミレニアル世代が振り返る2018年。霜降り明星、ローラ発言、アジアの音楽… | ページ 2 bizSPA!フレッシュ 2019年1月27日
  26. ^ 『ENGEIグランドスラムLIVE』出演者第3弾発表!”. フジテレビ (2019年3月27日). 2019年5月27日閲覧。
  27. ^ Inc, Natasha. “レインボー、スタンダップコーギーら平成生まれ芸人が「西東さん」集結”. お笑いナタリー. 2019年5月14日閲覧。
  28. ^ お笑い第7世代の“新BIG3”は「四千頭身」「EXIT」「宮下草薙」で決まり? 日刊大衆 2019年5月22日
  29. ^ 社会学者が解説 お笑い第7世代が “卒・松本人志” できた理由”. Smart FLASH. 2020年10月5日閲覧。
  30. ^ 霜降り明星が語る“お笑い第七世代”の覚悟「ダウンタウンさんになれるチャンス」 ORICON NEWS 2019年1月30日
  31. ^ 霜降り、NSC生に新時代到来を宣言「イーブイやシャワーズで笑い取れる時代が来る」 お笑いナタリー 2019年1月30日
  32. ^ “【2020年芸能ニュース】相次ぐ事務所退所、独立…タレントと事務所の在り方に変化”. ORICON NEWS. オリコン. (2020年12月29日). https://www.oricon.co.jp/special/55667/ 2020年12月30日閲覧。 
  33. ^ a b c 『CD付落語入門』(2008)pp.4-5
  34. ^ 広瀬(2010)pp.13-27
  35. ^ 日本映画発達史 I 活動写真時代』、田中純一郎中公文庫、1975年12月10日 ISBN 4122002850, p.144-145.
  36. ^ a b c d 『日本の戦時下ジョーク集 満州事変・日中戦争篇』、早坂隆 中央公論新社 2007年
  37. ^ ジャパンタイムズ出版部『ジャパンタイムズを知る本』1982年 ISBN 4789001806 p80
  38. ^ 鈴木拓也『世界のエイプリルフール・ジョーク集』中央公論新社 2008年 p88-92
  39. ^ “吉本興業創業100周年特別公演初日「伝説の一日」”. 吉本興業. (2012年4月6日). http://www.yoshimoto.co.jp/100th/0408/ 
  40. ^ “「内村さまぁ~ず」DVD40巻でギネス世界記録に認定”. お笑いナタリー. (2012年8月31日). https://natalie.mu/owarai/news/75663 
  41. ^ “お笑いノウハウ 行政に”. 朝日新聞デジタル. (2012年10月2日). http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000001210020001 
  42. ^ 【米ビルボード】チャートインしたピコ太郎よりコメント到着、「余りの驚きで、水道が止まりました!!」 | Daily News | Billboard JAPAN - Billboard JAPAN、2016年10月19日
  43. ^ ピコ太郎、まさかの全米77位! チャートインに「驚きで水道が止まりました」 夕刊フジ 2016年10月21日
  44. ^ 有吉弘行が芸能界で覇権を握る!? NHKのレギュラーが決まり、掘り起こされる「有吉伝説」』2019年2月19日/日刊サイゾー
  45. ^ さまぁ~ず、地上波全局同時レギュラー! 日テレで4年ぶり新バラエティー 』2014年7月9日oricon/
  46. ^ 有吉弘行が冠番組全局制覇の偉業を達成へ!「令和のテレビ王」に上り詰めた理由』2022年8月13日/

参考文献[編集]

  • 宇井無愁『日本の笑話』角川書店、1977年
  • 織田正吉『笑いとユーモア』 筑摩書房、1979年
  • 『大衆芸能資料集成』三一書房、1980年
  • 樋口清之『日本人の歴史(9) 笑いと日本人』講談社、1982年
  • 有遊会『寄席爆笑帳』三一新書、1985年、
  • 有遊会『浅草芸人爆笑帳』三一新書、1990年
  • 有遊会『東京芸人爆笑帳』三一新書、1992年
  • 原健太郎『東京喜劇―「アチャラカ」の歴史』 NTT出版、1994年
  • 橘左近『東都噺家系図』筑摩書房、1999年
  • 中江克己 『お江戸の意外な「モノ」の値段 物価から見える江戸っ子の生活模様』PHP文庫、2003年
  • 高田文夫『完璧版 テレビバラエティ 大笑辞典」(白夜書房)2003年
  • 山中伊知郎『テレビお笑いタレント史 お笑いブームはここから始まった』ソフトバンククリエイティブ、2005年
  • 大阪府立上方演芸資料館編『上方演芸大全』創元社、2008年
  • 正岡容 『定本日本浪曲史』岩波書店、2009年
  • 渡邉寧久監修『CD付 落語入門』成美堂出版、2008年11月。ISBN 978-4-415-30493-9 
  • 広瀬和生監修『現代落語の基礎知識』集英社、2010年10月。ISBN 978-4-08-771365-7 

関連項目[編集]