日本のユダヤ人

日本のユダヤ人
ヘブライ語: יהדות יפן
Star of David Menorah イスラエルの旗日本の旗
総人口
不明
ユダヤ教徒の数は推定2,000人[1]
居住地域
神戸長崎東京横浜徳島
言語
ヘブライ語日本語英語
宗教
ユダヤ教

日本のユダヤ人(にほんのユダヤじん、ヘブライ語: יהדות יפן‎)では、日本に一定期間在住するユダヤ人の人に加え、ユダヤ教徒に改宗した日本人やその子孫、さらには日本帰化者、日本に関わりが深い人も含んで説明する。

東京渋谷区広尾にある日本ユダヤ教団本部・シナゴーグ。なお、この建物は2009年に建て替えられる前の旧建造物である[2][3]

日本のユダヤ人社会[編集]

かつては、神戸と長崎に比較的大きなユダヤ教徒のコミュニティがあったが、第二次大戦による影響で多くのユダヤ人アメリカなどへ移住した。現在の日本在住ユダヤ人の多くは、アメリカ人を中心としたユダヤ系の一時滞在者であるが、イスラエルからの移住者もいる。ユダヤ人とは断定できないが、日本在住のイスラエル国籍者は802名(2005年末)である。また、非常に少ないが、個人的にユダヤ教に改宗した日本人も存在する。

  • 河豚計画 - かつて存在したユダヤ難民の移住計画。
  • 日本政府は日本人がユダヤ教に改宗したとしても、彼らが自覚するユダヤ人としての生活を特に保護する特別な制度は存在しない。

日本のユダヤ人コミュニティの歴史[編集]

  • 日本で最も初期に知られているユダヤ人は、宋代から来た。本州と四国には5つの商店街があった。1600年までに、移住と同化を通じて、関西にはユダヤ人として識別可能な主なコミュニティが2つしかなかった。
  • 1572年、キリスト教に脱出したスペインのナポリユダヤ人は、マカオのポルトガル人の黒船に長崎に入った。長崎に残っていた人もいたが、そのうちのいくつかはユダヤ教に戻り、家族の名前(特にレビテ)を取り戻した。
  • 1586年には、少なくとも3つの永続的な家族で構成されていた地域社会は、島津軍によって移転された。摂津のユダヤ人は、そのうちのいくつかを(時には130人以上のユダヤ人の人口を集めた)地域社会に吸収し、少数民族は去ったか死んだ。
  • 1848年1854年 - 那覇に、ユダヤ系で当時イギリス国籍、プロテスタント宣教師(兼医師)のベッテルハイムとその家族が居住
  • 1859年7月1日 - 日米修好通商条約。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいた。レイフル・ショイアーなどの市長も出た
  • 1861年 - ロシア、ポーランド系のポグロム難民が長崎に移住。
  • 1867年、一週間以上かけて、瀬戸ユダヤ人共同体は明治維新後に完全に消滅した。
  • 1896年9月3日 - 長崎に日本初のケヒッラーシナゴーグが登場する[4]
  • 1905年 - 日露戦争終結。長崎のコミュニティーが消滅に向かう。
イラク系のコミュニティーが神戸に形成される。1941年頃までに40家族ほど。
  • 1928年 - ユダヤ人民族区(ユダヤ自治州の前身)の設置
  • 1938年 - ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道・オトポール駅にて(現・ザバイカリスク駅)に、18名のユダヤ人がヨーロッパから逃亡。満州政府がドイツとの関係悪化を恐れ受け入れを拒む為、極東ユダヤ人協会の代表であるアブラハム・カウフマンから相談を受けた樋口季一郎少将が、状況を見かね部下たちと共にユダヤ人たちへ食料や衣類、寒さを凌ぐための燃料、医療の手配、上海へ行くためのルート確保を行った(オトポール事件)。 このルートは「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、1938年から1940年にかけ、このルートで上海へ渡ったユダヤ人は4,000人〜2万人とも言われている。その後の杉原千畝王替夫が上海日本人租界へとユダヤ難民を救出するルートとなった。この功績により、樋口は1941年6冊目の「ゴールデンブック」にその名前が載っている[5][6]

    - ユダヤ人難民を救出し満州国の住民とする河豚計画(ふぐけいかく)。

神戸のコミュニティーは第二次世界大戦中大半が上海に移動し、1万8000人のコミュニティーが上海に形成され、アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(英:American Jewish Joint Distribution Committee)"Joint" (ジョイント) の支援下に生活を送る。中華民国の新しいコミュニティーとしては、ロシアを経て形成されたハルビン[1])、上海などのコミュニティーが知られている。
戦後まもなく、基督兄弟団基督聖協団(医療・緑化運動支援)キリストの幕屋(手島郁郎が設立。ヘブライ語辞典、ユダヤ教関連図書、歴史書の研究と出版活動も行っている)聖イエス会(日本滞在支援、ヘブライ大学との協力)などといったキリスト教関係者がユダヤ人社会、イスラエル国との交流の先導を取りはじめる。
  • 1953年 - アメリカ軍関係者を中心の、東京・広尾にコミュニティーが形成される。東京に日本ユダヤ教団が設立される。
  • 1961年 - 東京に 日本イスラエル文化研究会 が設立される。機関紙は「ユダヤ・イスラエル研究
  • 1979年12月 - ユダヤ人社会・経済・教育、ユダヤ教の包括的入門書として手島佑郎の「ユダヤ人はなぜ優秀か」(サイマル出版会)が刊行される。
  • 1985年
5月 - 石川耕一郎の翻訳作業の成果である「ミシュナ」(セーデル・ネジーキーン、9・アーボート、10・ホーラーヨートの二冊)が出版される。
9月 - 「ベラホート」出版

長崎のユダヤコミュニティ[編集]

長崎、梅香崎のベス・イスラエル・シナゴーグ
坂本国際墓地のユダヤ人区画

長崎のコミュニティーのメンバーの多くは、五月法にはじまる反ユダヤ政策により帝政ロシアからの逃亡を余儀なくされた移民である[10]。 1896年9月[4]、ハスケル・ゴールデンベルク R. H. Goldenberg とジークムント・D・レスナー S. D. Lessner により、長崎市梅香崎町にシナゴーグが設立された[10]。実業家で、長崎のユダヤ人の指導者的存在でもあったレスナーは、1901年発足のユダヤ教博愛協会と、翌年発足の英国系ユダヤ人会両会の会長に就任し[4]、さらに、会社経営者であったモリス・A・ギンズベルグ Morris A. Ginsburg の支援の下、新坂本国際墓地のユダヤ人区画開設にも尽力した[11]。ゴールデンベルクは二人の男児と一人の女児のいる日本人女性と結婚し、夫人はユダヤ教へ改宗した。1904年、二人のキリスト教徒(日本人)が彼らの合意によりユダヤ教へ改宗した。国内外の貧しいユダヤ人のための慈善(ツェダーカー)組織がレスナーにより組織された。この時期の長崎の総人口が10万7422人であったのに対し、長崎在住のユダヤ人の人口は100人ほどであった。

1904年に開戦した日露戦争は、長崎在住のユダヤ人商人の多くがロシア人およびロシア艦隊への物資供給に関わっていたことから、長崎のユダヤ人コミュニティー衰退のきっかけとなった[12]。また、長崎の国際貿易港としての地位低下や、1914年の第一次大戦開戦後、同盟国側のドイツ・オーストリア国籍を有したユダヤ人に対する日本政府による財産の没収、ユダヤ人の指導者的存在であったレスナーの急逝(1920年)により、長崎のユダヤ人コミュニティーは衰退の一途をたどり[13][14]、長崎のシナゴークも1924年に役割を終えた[15][16]

参考文献:ジューイッシュ・クロニクル, June, 1904 "NAGASAKI" by Joseph Jacobs, Jewish Encyclopedia.com

 この記事にはパブリックドメインである次の文書本文が含まれる: Singer, Isidore [in 英語]; et al., eds. (1901–1906). The Jewish Encyclopedia. New York: Funk & Wagnalls. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)Jewish Encyclopedia.com

ラビ[編集]

  • 東京ユダヤ人社会での歴代ラビ一覧
    • ラビ Herman Dicker、1960-1963年、正統派
    • ラビ Marvin Tokayer、1968-1976年、保守派
    • ラビ Jonathan Z. Maltzman、1980-1983年、保守派
    • ラビ Michael Schudrich、1983-1989年、保守派
    • ラビ en:Moshe Silberschein、1989-1992年、保守派
    • ラビ Jim Lebeau、1993-1997年、保守派
    • ラビ Carnie Shalom Rose、1998-1999年、保守派
    • ラビ Elliot Marmon、1999-2002年、保守派
    • ラビ Henri Noach、2002-2008年、保守派
    • ラビ Rachel Smookler、暫定、改革派
    • ラビ Antonio Di Gesù、2009年-現在、保守派
  • ユダヤ教ハシディズム・ルヴァビッチ派(ハバド派)のラビ
    • ラビ Binyomin Y. Edery 1999〜
    • ラビ Mendi Sudakevich 2000〜

シナゴーグ[編集]

神戸市のシナゴーク

日本国内には4つのシナゴーグがある。

ユダヤ系日本人[編集]

日本のユダヤ人一覧[編集]

日本で活躍した、あるいは現在活躍しているユダヤ人一覧。来日したり居住したりしたことのある人物、所縁のある人物も含む。

※名前は五十音順。新規追加や表記の改名時には準拠されたい。

居住もしくは活躍した人々[編集]

あ行[編集]

か行[編集]

さ行[編集]

た行[編集]

な行[編集]

は行[編集]

(ベッテルハイム訳聖書, [7])

ま行[編集]

や行[編集]

ら行[編集]

来日した人物[編集]

日系[編集]

ユダヤ教へ改宗した日本人[編集]

その他、注記[編集]

関連文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Golub, Jennifer, JAPANESE ATTITUDES TOWARD JEWS. PACIFIC RIM INSTITUTE OF THE AMERICAN JEWISH COMMITTEE
  2. ^ Our history”. Jewish Community of Japan(日本ユダヤ教団). 2020年3月16日閲覧。
  3. ^ ユダヤ コミュニティーセンター”. PROJECTS. Maki and Associates. 2020年3月16日閲覧。
  4. ^ a b c アーンズ 2004, p. 111.
  5. ^ Grandson of Japanese General who Saved Jews Visits KKL-JNF Books of Honor Wednesday, June 13, 2018KKL-JNF
  6. ^ ユダヤ人5,000名を救った樋口季一郎とオトポール事件をご存知でしょうか 2020/08/20 武将ジャパン
  7. ^ 阿部吉雄「戦前の日本における対ユダヤ人政策の転回点」『言語文化論究』第16号、九州大学大学院言語文化研究院、2002年、1-13頁、doi:10.15017/5463ISSN 13410032NAID 110000522757 
  8. ^ 歷史與空間:中國的「舒特拉」”. 文匯報 (2005年11月23日). 2014年12月12日閲覧。
  9. ^ 八十年前猶太人與日軍勾結的哈爾濱復國夢”. 中國評論通訊社 中国評論新聞網 (2009年7月20日). 2014年12月12日閲覧。
  10. ^ a b まちなかガイド2, p. 21.
  11. ^ アーンズ 2004, p. 112.
  12. ^ アーンズ 2004, p. 117.
  13. ^ まちなかガイド2, p. 22.
  14. ^ まちなかガイド2, p. 83.
  15. ^ アーンズ 2004, p. 116.
  16. ^ まちなかガイド2, p. 84.
  17. ^ a b c d Albert Axell, Hideaki Kase Kamikaze: Japan's Suicide Gods p.24, Longman, 2002
  18. ^ http://www.kansai-u.ac.jp/Gr_sch/let/eu/20130611.pdf
  19. ^ Michael Martin Baer (1841 - 1904) - Genealogy - Geni
  20. ^ a b c 筒井功『新・忘れられた日本人』p.212

参考文献[編集]

  • レイン・アーンズ 編、梁取和紘 訳『長崎居留地の西洋人』福多文子訳・監訳、長崎文献社、2004年12月20日。ISBN 4-88851-020-2 
  • 『まちなかガイドブック2』長崎史談会、長崎市観光政策課編集・発行、2015年3月20日。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]