日本ハンセン病学会

日本ハンセン病学会(にほんはんせんびょうがっかい、英称:The Japanese Leprosy Association)は、ハンセン病に関する学会である。日本医学会加盟学術団体。

歴史[編集]

1927年(昭和2年)に「日本癩(らい)学会」として設立された。その後、「日本らい学会」を経て、1996年以降「日本ハンセン病学会」の名称になった。現在日本ハンセン病学会は、ハンセン病やその類縁疾患、およびそれらに共通する臨床研究や基礎研究を中心として広く活動を行っている団体であり、ハンセン病医学の発展、すなわち病因の解明、診断、治療に貢献することを目的にし、また、ハンセン病医療を向上させ、その成果を臨床や社会へ反映させ、さらに患者の福祉の向上や人権を尊重した医療の確立に向け活動している。

1995年、第68回日本らい学会が横浜市 で開催されたが、その前1年間、成田稔 牧野正直長尾栄治後藤正道尾崎元昭は、らい予防法反対を学会として纏め上げ、学会場で、学会の決議を経て公表された。1953年公布、施行されたらい予防法は、学会の決議の後の1996年4月1日、らい予防法の廃止に関する法律により廃止された。1996年の岡山における日本らい学会で日本らい学会をハンセン病学会と変更した。

らい予防法についての日本らい学会の見解[編集]

 らい予防法についての日本らい学会の見解 [1][2]

わが国のらい対策には第1回国際らい会議(1897年)が大きく影響しているとされる。この会議での結論は、らいの予防には隔離が最善ということであったが、無差別な強制をすすめてはいなかった。法律第11号「癩予防ニ関スル件」(1907年)を議会に提出した内務省も、予防よりは救済が先決であり、在宅患者には省令か訓令でもって対応し、患者の子弟は養育院に預けるなどと答弁している。しかし、実際には予算的に多数の隔離が困難であったための口実に過ぎず、全国5か所の公立療養所に1050床を整備したにとどまった。しかもその後の増床は遅々として進まず、当事者にとっては予期に反していたであろうが、この僅かな入所患者の中からでさえ逃亡者が後を絶たず、所内の風紀を乱す患者もいたから、所長に懲戒検察権を付与し、権力をもって所内の秩序の統制を図った。かくて、3回にわたる改正を経て絶対隔離を目指す法律第58号、癩予防法に改まった。(1931年)絶対隔離を強行したのは、らいの伝染性はいたって弱いが、濃密な接触を繰り返す家族内においては、どのような患者も伝染源となる可能性があり、しかも発病すれば生涯不治という認識からであった。これは当時の社会的背景、例えばらいを国辱病と考える国粋主義や、隔離を正当化する社会防衛論などにも支持され、患者の救済よりも、伝染源の社会からの完全な排除を目的とした対策が、強力に推しすすめられることになった。しかし、最も確かな統計とされる徴兵検査の際に発見された、いわゆる<壮丁らい>の年次推移は、1897年から1937年にいたるまでに、急速な減少に向けての明らかな漸近線を示している。また1919年から1935年までの間の4回の全国調査でも、患者の年齢構成は、青壮年者の減少に対して、老年者が増加しており、疫学的にみたわが国のらいは、隔離とは関係なく終焉にむかっていたと言える。つまりこのような減少の実態は、社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を目的に制定された「旧法」も、推計的な結果論とはいえ、敢えて立法化する必要はなかった。それにもかかわらず、「旧法」の基本的原理を変えずに「現行法」は制定された(1953年)。当時すでに、プロミンの効果は明らかであったし、国際的には患者の隔離は否定されていた。その後DDSを経て、1971年からはリファンピシンがハンセン病の治療に用いられ、1982年にはわずか数回の与薬によって、らい菌の感染性が消失することも動物実験で明らかにされた。最近は新たにニューキノロン系薬剤も加わり、これらを組み合わせた多剤併用療法も著効を奏して〔ママ〕いる。ハンセン病治療は、当初から外来治療が可能であり、ときには対応が困難とされたらい性結節性紅斑やらい性神経炎も、現在では十分管理できるようになった。さらに、過去のスルフォン剤単剤による再発率に比べると、多剤併用療法のそれは極端に低い。また、ハンセン病医学の現状をみると、ハンセン病の感染経路、感染性と発症力との関係、宿主の易感染性と遺伝的素因など、不明瞭な部分も多くあるが、最近の知見から推して、一般の細菌感染症の概念から逸脱する研究報告は皆無であり、特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。  以上述べたように、「現行法」はその立法根拠をまったく失っているから、医学的には当然廃止されなくてはならない。ところでわが国は、1955年には全体の91%余りの隔離が終わり、かってのような隔離の強制はなく、外来治療が定着する中で、新発生患者が激減したために、療養所中心のハンセン病対策を続けてきた。必然的に、社会との共存を訴えるWHOとは相容れず、いきおい世界から孤立してしまった。一方国内においても、療養所中心という閉鎖性がわざわいして、医療機関や研究機関がハンセン病に対する関心を薄めてきたのは否定できない。  日本らい学会が、これまでに「現行法」の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りも是正できなかったのは、学会の中枢を療養所の関係会員が占めて、学会の動向を左右していたからでもあり、長期にわたって「現行法」の存在を黙認したことを深く反省する。(中略)終わりに、救癩の旗印を掲げて隔離を最善と信じ、そこに生涯を賭けた人の思いまでを、私たちは踏みにじる権利がない。しかし、無謀な強制隔離によって、肉親と引き離された人の悲痛な叫びに、今改めて耳を傾けながら、これほどの無残さを黙視したことに対し、日本らい学会には厳しい反省が求められるであろう。それに、らい対策も医療対策以外の何ものでもないから、隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおりたてるのを先行してしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない。(後略)

日本らい学会「らい予防法」検討委員会 尾崎元昭、後藤正道、長尾榮治、成田稔(委員長)、牧野正直

総会および学術集会[編集]

  • 第1回 1927年 東京帝大にて 世話人:光田健輔
  • 第2回 1929年 大阪医科大(現:大阪大学) 世話人:村田正太
  • 第3回 1930年 大阪医科大 世話人:村田正太
  • 第4回 1931年 東京帝大 世話人:林芳信
  • その後は毎年行われたが、1942年は日本医学会と合同と単独(岡山市)があり2回、1944年は誌上学会。1945-46年は開かれていない。 

雑誌[編集]

  • レプラ (英称:LA LEPRO)大阪皮膚病研究所発行 1930年4月 1号発行 最初は日本らい学会機関誌ではなかったが、1937年から日本らい学会機関誌となった。[3]
  • 日本らい学会雑誌  LA LEPRO続刊 (英称:Japanese Journal of Leprosy)日本らい学会発行 1977年-1991年 年4回 1992年より年3回
  • 日本ハンセン病学会雑誌 続刊 1996年より、英称は変わらず。 Pubmedによる名称は Nihon Hansenbyo Gakkai Zasshi.

学会賞[編集]

  • 桜根賞 1953年から2003年まで、桜根孝之進(大阪高等医学校皮華科教授、大阪大学初代皮膚科教授)の遺志で30万円の基金で始められた。一篤志家の寄付も入っている。[4]日本ハンセン病学会賞でもあり、日本ハンセン病学会賞はその後も継続している。第1回 1953年 受賞者 谷村保夫(鼠らいの免疫にかんする実験的研究)中村昌弘(白鼠における鼠らいの増殖態度)

脚注[編集]

  1. ^ 日本らい学会雑誌 64,3,1995、275-276
  2. ^ 学会で配布したパンフレットと口述した本文とは異なる部分があり、一部成田稔が委員会に諮らなかったものがあるが、器械的に削除せず、意味が通るように編集した
  3. ^ 大阪皮膚病研究会のあゆみ 1929-2003[2003:9]
  4. ^ 大阪皮膚病研究会のあゆみ[2003:110-113]

外部リンク[編集]