朝日訴訟

最高裁判所判例
事件名 生活保護法による保護に関する不服の申立に対する裁決取消請求
事件番号 昭和39年(行ツ)第14号
1967年(昭和42年)5月24日
判例集 民集第21巻5号1043頁
裁判要旨
生活保護法の規定に基づく保護受給権は一身専属権であり、相続の対象とはならないから、保護変更決定についての不服申立却下裁決に対する取消訴訟は、原告の死亡により当然に終了する。
大法廷
裁判長 横田喜三郎
陪席裁判官 入江俊郎奥野健一五鬼上堅磐草鹿浅之介長部謹吾城戸芳彦石田和外柏原語六田中二郎松田二郎岩田誠下村三郎
意見
多数意見 横田喜三郎、入江俊郎、奥野健一、五鬼上堅磐、長部謹吾、城戸芳彦、石田和外、柏原語六、下村三郎
反対意見 草鹿浅之介、田中二郎、松田二郎、岩田誠
参照法条
民事訴訟法第208条、生活保護法第59条、行政事件訴訟法第9条
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朝日訴訟(あさひそしょう)とは、1957年昭和32年)に、国立岡山療養所に入所していた朝日茂(あさひ しげる、1913年7月18日 - 1964年2月14日:以下「原告」)が厚生大臣を相手取り、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)と生活保護法の内容について争った行政訴訟である。原告の姓からこう呼ばれる。

訴訟の概要[編集]

結核患者である原告は、日本国政府から1カ月600生活保護による生活扶助医療扶助を受領して、岡山県国立岡山療養所で生活していたが、月々600円での生活は無理であり、保護給付金の増額を求めた。

1956年(昭和31年)、津山市福祉事務所は、原告の兄に対し月1,500円の仕送りを命じた。市の福祉事務所は、同年8月分から従来の日用品費(600円)の支給を原告本人に渡し、上回る分の900円を医療費の一部自己負担分とする保護変更処分(仕送りによって浮いた分の900円は医療費として療養所に納めよ、というもの)を行った。

これに対し、原告が岡山県知事不服申立てを行ったが却下され、次いで厚生大臣に不服申立てを行うも、厚生大臣もこれを却下したことから、原告が行政不服審査法による訴訟を提起するに及んだものである。

原告の主張[編集]

原告は、当時の「生活保護法による保護の基準」(昭和28年厚告第226号)による支給基準600円では生活出来ないと実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張した。

判決[編集]

  • 第一審の東京地方裁判所は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消した(原告の全面勝訴)(東京地判昭35.10.19 行裁11.10.2921)。
  • 第二審の東京高等裁判所は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法第25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却した(東京高判昭和38.11.4 行裁14.11.1963)。
  • 上告審の途中で原告が死亡し(1964年2月14日に死去)、養子夫妻が訴訟を続けたが、最高裁判所は、生活保護を受ける権利は相続できないとし、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下した(最大判昭和42.5.24 民集21.5.1043)。

念のため判決[編集]

最高裁判所は、「なお、念のため」として生活扶助基準の適否に関する意見を述べている。それによると「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとした。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されている」とする。

この部分は、プログラム規定説のリーディング・ケースである食糧管理法違反事件(最高裁判所昭和23年9月29日)が示した生存権の解釈を踏まえている(ただし、憲法第25条に裁判規範性を認めている点で、完全なプログラム規定説ではないことに注意する必要がある)。傍論で生存権の性格について詳細に意見を述べた最高裁のこの判決を「念のため判決」と呼ぶことがある。

  • 以後この裁判の影響により、生活保護基準の金額改善や社会保障制度の発展に大きく寄与した[1]

学校教育における本訴訟の取り上げ方昭和60年代までの小中学校社会科文部省検定済教科書には、基本的人権の尊重の問題点を挙げる際に、真っ先に本訴訟が取り上げられた。現在でも、高等学校用教科書などで取り上げられている。

脚注[編集]

  1. ^ 朝日訴訟とはコトバンク

関連項目[編集]

外部リンク[編集]