本角文蔵

本角 文蔵
もとずみ ぶんぞう
生年月日 1868年7月14日
出生地 鳥取県西伯郡中浜村大字小篠津
(現境港市小篠津町)
没年月日 (1935-01-25) 1935年1月25日(66歳没)
親族 義兄・本角寅造

第4代中浜村
在任期間 1909年12月 - 1917年12月
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本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日1868年8月31日) - 昭和10年(1935年1月25日)は、日本政治家中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟[1]

経歴[編集]

小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった[1][2]

29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた[1]

さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした[1]

参考文献[編集]

  • 『境港市史 上巻』(昭和61年、編集・発行境港市、556頁)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『境港市史 上巻』 556頁
  2. ^ 士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した。宗旨庄屋は寛永10年(1633年)ころから各郡1、2名あて新設された。寛永10年(1633年)の『大庄屋給帳』によると、会見郡には4名の大庄屋が配置されており、その内の一人車尾村次郎左衛門(深田氏)が浜目地区を担当したものと推定される。以後元禄初年までの浜目地区担当の大庄屋としては、小篠津村の角次郎左衛門、角半左衛門、角三郎兵衛、車尾村深田三郎右衛門が続き宗旨庄屋には延宝7年(1679年)以後元禄初年まで角与兵衛があり、その間与兵衛は組頭庄屋をも兼帯していた。郡役人を歴任した小篠津村角氏には現在の小篠津村「本角家」先祖と通称「麦垣角」の2系統があったといわれている。当時の小篠津村は、南弓浜開発の中心基地となった村であり、角家は新田開発の先導役として弓浜半島の豪農に成長したものと思われる(『境港市史 上巻』1986年、336-342頁)。「紀氏譜記」には江戸期の 小篠津村の旧家角与兵衛も紀氏一門の末葉につながる由緒を伝えている(『境港市史 上巻』1986年、17頁)

外部リンク[編集]