杉崎喬

すぎさき たかし
杉崎 喬
生年月日 (1935-10-20) 1935年10月20日(88歳)
出生地 日本の旗 日本 朝鮮全羅南道光州府
職業 録音技師会社役員
ジャンル 劇場用映画現代劇成人映画)、ドキュメンタリー映画PR映画産業映画教育映画
活動期間 1955年 - 1997年
事務所 東京録音現像 (1955年 - 1974年)
ニューメグロスタジオ (1974年 - 1997年)
主な作品
天使の恍惚
津軽じょんがら節
あさき夢みし
コミック雑誌なんかいらない!
 
受賞
『津軽じょんがら節』(1973年)
日本映画テレビ技術協会第3回柴田賞
第27回日本映画技術賞奨励賞
第28回毎日映画コンクール録音賞
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杉崎 喬(すぎさき たかし、1935年10月20日 - )は、日本の録音技師である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]東京録音現像チーフミキサーを経て、ニューメグロスタジオ常務取締役を歴任した[1]日本映画・テレビ録音協会元会員[1][12]

人物・来歴[編集]

1935年(昭和10年)10月20日日本統治時代の朝鮮全羅南道光州府(現在の大韓民国光州広域市)に生まれる[1]

第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、新制神奈川県立希望ヶ丘高等学校に進学、1954年(昭和29年)3月、同校を卒業する[1]。1955年(昭和30年)、東京録音現像に入社、録音部に配属される[1]。同社はいわゆる「目黒スタジオ」と通称され、同社創業者であり代表取締役であった金井喜一郎(1901年 - 1961年)は、都映画社代表や、伊藤武郎らの独立映画の監査役も務めており、したがって同社は、独立系のアフレコ現像を請け負うポストプロダクションであった[13][14]。1961年(昭和36年)7月16日、創立社長である金井が満59歳で亡くなり、二代目社長に愛光商会社長の今田富雄が就任している[13][14]。杉崎の名が、最初に記録に現れるのは、1963年(昭和38年)に北欧映画(代表・中筋隆久)が製作した文化映画風来坊物語』(監督野村企鋒)、あるいは同年1月5日に公開された最初期の成人映画野生のラーラ』(監督北里俊夫)の録音技師としてであった[3][15]

1960年代中盤に入ると、独立系成人映画が多くつくられるようになり、その初期作品である『野生のラーラ』を製作した内外フイルム(代表三木光人)が『霧のラーラ』(監督北里俊夫)、『血だらけの乳房』(監督南部泰三)を製作、それぞれ1964年(昭和39年)10月4日、同年11月に公開されており、杉崎はそれぞれにおいて録音技師を務めている[4][8]斎藤邦唯が1965年(昭和40年)に設立した扇映画プロダクションでも、同社の設立第1作である『あばずれ』、『紅壺』、あるいは『うまず女』といった渡辺護の監督作にも、録音技師として杉崎がクレジットされている[3][8]。これら独立系成人映画では、撮影現場での同時録音は行われておらず、もっぱらスタジオでのアフレコで音声を収録しており、杉崎は所属する東京録音現像に発注された仕事において、「目黒スタジオ」内部でミキシング(整音)を行うサウンドエンジニアであった、というのが実態である。1968年(昭和43年)4月27日に公開されたヴィレッジ・シンガーズの主演作『思い出の指輪』は、松竹の配給作品であるが、製作は音楽事務所であるホリプロダクション(現在のホリプロ)が行っており、杉崎は同作において録音技師を務め、これが斎藤耕一との最初の劇場用映画での仕事になった[1][2][3][4][5][6][7][8]渡辺プロダクションも、東宝が配給したザ・ドリフターズの主演作『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』(1968年9月21日公開)、『ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓』(1969年1月15日公開)の製作を行っており、この際にはスタジオの整音技師として杉崎がクレジットされた[9]

杉崎は、1973年(昭和48年)12月20日に公開された斎藤耕一の監督作『津軽じょんがら節』の録音技師を務め、同作における杉崎の技術が認められ、日本映画テレビ技術協会第3回柴田賞[16]、第27回日本映画技術賞奨励賞[17]、第28回毎日映画コンクール録音賞[18]を受賞した[1]。同作の製作に携わっていた当時に所属した東京録音現像においては、録音部次長、チーフミキサーを歴任したが、1974年(昭和49年)、同社が閉鎖されてしまい、退社した[1]。同年、同社に所属したメンバーとともにニューメグロスタジオを設立、常務取締役に就任、録音企画本部長を委嘱される[1]。この新会社の代表取締役社長の出口良二、取締役技術部長の福田伸、監査役の高島小二郎はそれぞれ[19]、東京録音現像では営業部長、録音技師、録音部長を務めていた[20]

1997年(平成9年)1月10日に公開された『白衣本番 激しい喘ぎ』(監督佐々木正則、製作国映、配給新東宝映画)を最後に諸作品のクレジットから、杉崎の名がみられなくなる[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。同年9月9日に公開された『鍵 ディレクターズ・カット完全版』(監督木俣堯喬)は、1983年(昭和58年)に公開された作品の再編集版である[4][6][7][8]。杉崎は当時満61歳であった[1]。2007年(平成19年)6月に発行された『日本の映画人 - 日本映画の創造者たち』(日外アソシエーツ)の杉崎の項には「映画に関わった動機」の問いに「映画が好きだったから」との答えが掲載されている[1]。同書には日本映画・テレビ録音協会の現役会員である旨の記述があるが[1]、2015年(平成27年)4月1日付の「日本映画・テレビ録音協会 会員名簿」には、杉崎の名はない[12]。存命であれば、同年には満80歳を迎える[1]

おもなフィルモグラフィ[編集]

野生のラーラ』(監督北里俊夫、1963年)の公開時ポスター。右下のクレジットに杉崎の名が確認できる。

諸データベース等にみられるおもなフィルモグラフィである。クレジットは特筆以外は「録音」である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[3][21]

1960年代[編集]

1970年代[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 佐藤[2007], p.323.
  2. ^ a b c d Takashi Sugisaki, インターネット・ムービー・データベース (英語)、2015年6月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 杉崎喬東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年6月9日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 杉崎喬、日本映画情報システム、文化庁、2015年6月9日閲覧。
  5. ^ a b c d 杉崎喬日本映画製作者連盟、2015年6月9日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 杉崎喬KINENOTE, 2015年6月9日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 杉崎喬allcinema, 2015年6月9日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i 杉崎喬日本映画データベース、2015年6月9日閲覧。
  9. ^ a b c d 杉崎喬東宝、2015年6月9日閲覧。
  10. ^ a b c 杉崎喬日活、2015年6月9日閲覧。
  11. ^ a b c 杉崎喬テレビドラマデータベース、2015年6月9日閲覧。
  12. ^ a b J.S.A.会員名簿、2015年4月1日付、2015年6月9日閲覧。
  13. ^ a b 年鑑[1962], p.201.
  14. ^ a b 年鑑[1969], p.310-311.
  15. ^ 野生のラーラ内外フイルム、1963年1月5日公開。
  16. ^ 柴田賞 受賞一覧日本映画テレビ技術協会、2015年6月9日閲覧。
  17. ^ 日本映画技術賞 受賞一覧、日本映画テレビ技術協会、2015年6月9日閲覧。
  18. ^ 毎日映画コンクール コンクールの歴史 28th毎日新聞、2015年6月9日閲覧。
  19. ^ 年鑑[1981], p.207.
  20. ^ 年鑑[1967], p.292, 392, 501.
  21. ^ フィルムリスト検索結果、デジタル・ミーム、2015年6月9日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

画像外部リンク
あばずれ
1965年6月公開
扇映画プロダクション新東宝興業
紅壺
1965年6月公開
(扇映画プロダクション・センチュリー映画社
紅壺
同上
(扇映画プロダクション・日本セントラル映画
情夫と牝
1965年10月公開
(扇映画プロダクション・ムービー配給社
避妊革命
1967年2月21日公開
若松プロダクション日本シネマフイルム
女番長 野良猫ロック
1970年5月2日公開
ホリ企画制作日活
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