村井長堅

村井 長竪 (むらい ながかた、元禄10年(1697年) - 宝暦7年1月4日1757年2月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第6代当主。

父は加賀藩大年寄前田孝行。養父は加賀藩年寄村井親長。養子に前田八十五郎村井長穹。幼名は右源太、通称は主膳。初名は孝通。官位は従五位下、豊後守。本姓平氏桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。

生涯[編集]

元禄10年(1697年)、前田孝行の五男として生まれる。宝永7年(1710年)、村井親長の養子となる。正徳元年(1711年)8月7日、養父の死去により家督と知行1万6500石を相続する。年寄として藩主前田吉徳宗辰重煕重靖に仕えた。

寛延元年(1748年)、吉徳の六男八十五郎を養子とする。同年、八十五郎の生母真如院が、前藩主生母の毒殺未遂の容疑で禁固処分となり、寛延2年(1749年)に死去する。長堅は八十五郎との養子縁組を解消、代わって吉徳の七男健次郎(前田重教)を養子とする約束をする。宝暦3年(1753年)、健次郎が藩主重靖の後継者となったため、養子縁組の約束を解消する。宝暦4年(1754年)、実兄前田孝資の三男長穹を養子とする。宝暦5年(1755年)、従五位下、豊後守に叙任。

宝暦7年(1757年)1月4日没。享年61。家督は養子の長穹が相続した。

参考文献[編集]