松本光司 (操演技師)

松本 光司まつもと こうじ1933年昭和8年〉[出典 1]2月1日[1] - 2005年平成17年〉[3]12月20日)は、日本特撮映画操演技師[3]東京都[2]新宿区若松町出身[1]

職歴[編集]

1953年、映画業界入り[1]1961年新東宝から東宝特殊技術課にの操演部に移籍[出典 2][注釈 1]。新東宝時代は、監督の石井輝男から気に入られていたという[2][5]。映画『モスラ対ゴジラ』(1964年)以降、中代文雄のもとで操演技師を務め、東宝特撮作品の多くに携わる[1]

1970年4月1日、東宝美術に移籍。

1993年4月1日、定年退職。最後の参加作品は『ゴジラvsモスラ』であった[2][3]。「特殊美術課最後の操演師」とも称される[5]

2005年12月20日肺癌のため死去。享年72。

人物・エピソード[編集]

自身の技術について、潤沢な予算があれば良い道具を揃えられたが、予算がない中では古い道具を使うしかなく、撮影時間もないため早く撮らねばならなかったことなどから、ピアノ線の芸術になってしまったと述べている[6]

生前は、物を持つと、それを吊るのに必要なピアノ線の太さがわかると豪語していた[3]

東宝へ移籍したのは、当時盛んだった所内野球チームの助っ人として野球の腕を買われたためであると述べていた[2]

東宝で使われていた操演用のクレーンは、中代が松本の身長に合わせて制作したものとされる[2]

平成ゴジラシリーズでは操演を要する怪獣が多かったため、操演が尾だけのゴジラのシーンではホッとしていたという[6]

操演助手を務めた白石雅彦は、松本の引退後は操演の仕掛けが複雑化していったと述懐している[7]

担当作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 資料によっては東宝への移籍を1963年としているが、操演助手の白石雅彦は『妖星ゴラス』(1962年)参加時のエピソードを松本自身から聞いていたことからこれを否定している[2]
  2. ^ 白石は、松本自身が『モスラ』への参加を否定していたことを証言しているが、制作時期から後半に参加していた可能性もあると推測している[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g ゴジラ大百科 1990, p. 100, 「ゴジラ・スタッフ名鑑」、最新ゴジラ大百科 1991, p. 97, 「ゴジラスタッフ名鑑」
  2. ^ a b c d e f g h i 平成ゴジラ大全 2003, pp. 192–194, 「破之参 『ゴジラVSモスラ』 操演技師の師弟対決」
  3. ^ a b c d e f 平成ゴジラパーフェクション 2012, p. 109, 「平成ゴジラの特撮4 操演」
  4. ^ 日本経済新聞1992年12月21日号の本人の証言
  5. ^ a b c d 白石雅彦「モスラ操演の歴史」『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日、101頁。ISBN 978-4-86248-761-2 
  6. ^ a b 東宝SF特撮映画シリーズ7 1993, pp. 137–143, 「特撮スタッフ座談会」
  7. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 300–303, 「急之参 『ゴジラVSデストロイア』 川北組、最後の苦闘」
  8. ^ 映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2020年5月15日閲覧。

出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

  • Gakken MOOK(Gakken
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1990年1月1日。 
    • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA 最新ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1991年12月1日。 
  • 『ゴジラVSモスラ』東宝出版・商品事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.7〉、1993年1月15日。ISBN 4-924609-43-9 
  • 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1 
  • 『平成ゴジラパーフェクション』監修:川北紘一、アスキー・メディアワークス〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2012年2月10日。ISBN 978-4-04-886119-9