林藤之輔

林 藤之輔(はやし とうのすけ、1923年12月14日 - 1987年8月6日)は、日本の弁護士最高裁判所判事大阪府出身。

概要[編集]

1923年(大正12年)に大阪・天満にある酒造家の生まれ[1]。戦時中の1944年(昭和19年)に学徒出陣海軍に応召され、終戦時は主計少尉[1]。復員後、1946年(昭和21年)に高等試験司法科に合格し、1947年(昭和22年)に東京大学法学部を卒業[1]。新司法制度の中で発足した司法修習生の第1期生となる[1]。2年間の司法修習の後、色川幸太郎に従って大阪弁護士会に弁護士登録をし、色川事務所に所属した[1]

数々の労働事件や民事紛争を手がける[1]。大阪駅前の土地明け渡し訴訟も依頼され、地主側の代理人を務めたが、あくまで相手を説得する姿勢を取り続けて解決した[1]。仕事のかたわら大阪青年会議所にも入会し交友を広め、企業経営の厳しさを感じ取るなど実社会の動きにも目を向けた[1]。大阪青年会議所理事に選ばれたほか、大阪弁護士会副会長、日弁連常務理事、コンピューター研究特別委員会副委員長などを務め、弁護士会内部でも新しい問題に対応するなど積極的に活動した[2]。また、日本労働学界の会員として研究会に出席したり、大阪市人事委員を務めるなど勉強家でもあり、活動家でもある[3]

1986年(昭和61年)6月13日に最高裁判所裁判官に就任[3]。就任後の記者会見で、最高裁の違憲審査権のあり方について「全体のなかでのバランスが大切」と述べた[3]。就任から24日目の同年7月6日に最高裁判所裁判官国民審査を迎えたのは歴代最短記録である。

在任わずか1年余りで病気になり死去した[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 野村二郎 1986, p. 286.
  2. ^ 野村二郎 1986, pp. 286–287.
  3. ^ a b c 野村二郎 1986, p. 287.
  4. ^ 野村二郎 2004, p. 94.

参考文献[編集]

  • 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403 
  • 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126