横井也有

 
横井 也有
『國文学名家肖像集』(1939年)より
生誕 元禄15年9月4日1702年10月24日[1]
死没 天明3年6月16日1783年7月15日[1]
改名 辰之丞・孫右衛門
別名 野又、野有、暮水、蘿隠、螻丸、永言斎、知雨亭
戒名 並明院殿朝雲暮水大禅定門
墓所 西音寺(愛知県愛西市)
主君 徳川継友宗春宗勝
尾張藩
氏族 横井氏
父母 父:横井時衡、母:石川正相娘(本名不明)
尾張藩士下条庄右衛門孝正娘
横井孫右衛門番時、横井只四郎時完、岩田八郎右衛門室
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横井 也有(よこい やゆう)は、江戸時代武士国学者俳人

経歴[編集]

元禄15年(1702年)、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれる[1]。幼名は辰之丞、通称は孫右衛門といった[1]は時般(ときつら)[1]、俳号は野又・野有、後に也有[1]。別号に永言斎・知雨亭など[1]横井氏北条時行の流れを組む家柄と称する[1]

1727年(享保12年)26歳にして家督を継いだ後[1]1741年寛保元年)大番頭兼用人となり[1]1748年寛延元年)寺社奉行を兼ねる[1]。多芸多趣味な人物として知られ[1]、俳諧・俳文・武芸・平家琵琶・謡曲・書画・詩歌・狂歌など、あらゆる芸能に通じていた[1]儒学も深く修めた。

俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀太田巴静らに師事[1]。その影響で、句には美濃派の影響が大きい[1]。俳文で最も早い作品は27歳の時に著した「訪以之辞」で[1]、発句の初出は33歳の時に刊行された巴静編『木の本』である[1]。也有の句は川柳と似ており、前句付の影響が指摘される[1]。同じ尾張藩士で絵師として知られた内藤東甫とは俳画で度々合作しているほか、東甫による也有の肖像画なども残る[2]

元禄赤穂事件について、『野夫談』では「吉良殿は切り懸かられても手出しもせず、相手の切腹も願はれもせねば、仇とせぬは知れたこと」[3]と吉良は長矩の仇などでなく恩人[注釈 1]だという極論を述べている。

横井也有の墓(愛西市西音寺)

1754年宝暦4年)、53歳にして病を理由に隠居した後は[1]、前津(現在の中区上前津一丁目)の草庵・知雨亭に移り住み[1]、天明3年(1783年)に82歳で没するまで、俳文漢詩和歌狂歌茶道などに親しむ風流人として暮らした。隠居後も吉見幸和松平君山堀田六林などと交わった[1]

横井也有と大田南畝[編集]

也有の『鶉衣』は大田南畝により刊行されているが、その経緯について南畝は『鶉衣』の序文に記している。安永の初め頃、たまたま長楽寺に立ち寄った南畝はそこで也有の「借物の弁」を目にし、「余りに面白ければ写し帰」ったという。それ以降、尾張出身者に会う度に也有のことを尋ね、漸くその著作を目にする機会が訪れたが、その時すでに也有は亡くなっていた。南畝は也有の作品がこのまま埋もれてしまうのは惜しいと思い、自らの手で刊行することとした。こうして『鶉衣』が世に出ることになったのである。

健康十訓[編集]

横井也有が提唱したとされる健康になるための十訓(中国にも健康十訓が存在)[4]

一.少肉多菜
二.少酒(または少糖)多果
三.少車多歩
四.少欲多施
五.少衣多浴
六.少煩(または少憂)多眠
七.少言多行
八.少塩多酢
九.少食多噛
十.少憤多笑

著作[編集]

  • 鶉衣』(俳文集)
  • 『蘿葉集』『漏桶』『垤集』(独吟連句
  • 『管見草』『美南無寿比』(俳論)
  • 『蘿隠編』(漢詩文)
  • 『行々子』(狂歌集)

『鶉衣』に記された也有の句のひとつ「化物の正体見たり枯尾花」は「幽霊の正体見たり枯尾花」と変化して広く知られている[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 義央の主張する「乱心」を認めれば、情状酌量で長矩は死罪にはならない。[要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第1巻』岩波書店、1983年10月、100-101頁。 
  2. ^ 横井也有画像”. 文化遺産オンライン. 2015年5月18日閲覧。
  3. ^ 『日本思想大系』426ページ
  4. ^ 上村 克郎「蘊蓄玉手箱第九回」『Finex』第103巻第17号、日本建築仕上学会、2005年、42-43頁、doi:10.14820/finexjournal.17.103_42 
  5. ^ 国立国会図書館. “「幽霊の正体みたりかれおばな」という句は、江戸時代の俳人「横井也有」の詠んだものだということだが、何...”. レファレンス協同データベース. 2022年7月12日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]