櫻錦利一

1940年5月場所、初顔合わせの双葉山を撃破して支度部屋に帰還した櫻錦

櫻錦 利一(さくらにしき りいち、1916年6月26日 - 1962年6月4日)は、青森県北津軽郡板柳町出身で出羽海部屋(入門時は新興力士団[1])に所属した大相撲力士。本名は加藤 利一(旧姓:会津)。身長171cm、体重93kg。得意手は左四つ、押し、蹴手繰り。最高位は西小結

来歴[編集]

1932年8月に天竜三郎を首班とする新興力士団に入門、1933年2月から大日本関西角力協会の番付に付いた。その間、精進を続け、1937年末の大日本関西角力協会解散時には、幕内まで上っていた。解散にともない、東京の出羽海部屋に編入し、1938年1月場所、幕下付出で登場、11勝1敗で幕下優勝を飾った。1940年1月場所で入幕、すぐに上位に上り、翌5月場所初顔合わせの横綱双葉山から金星を挙げる[1]。小兵を生かした、鋭い出足からの引き技や蹴手繰りが売り物[1]で、双葉山にはその後も立合い一瞬の飛び違いで勝利している。

しかし、小兵であるがために、相撲を覚えられてからは苦戦もし、三役に昇進したのは戦後の1947年11月場所、既に30歳を越えていた。その後は幕内中堅で存在感を出し、1951年1月場所には12勝3敗の好成績で初の技能賞を受賞したが、翌1951年5月場所に眼底出血のために休場、そのまま引退した。引退後は年寄高崎を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたるとともに、相撲茶屋「紀の国家」(相撲案内所 二番)を経営していたが、1962年に45歳で死去した。なお、娘(富樫セツ子)は横綱・柏戸に嫁ぎ[1]、父の跡を継いで「紀の国家」を経営した。

主な成績[編集]

  • 通算成績:184勝158敗52休 勝率.538
  • 幕内成績:149勝146敗51休 勝率.505
  • 現役在位:30場所
  • 幕内在位:26場所
  • 三役在位:2場所(小結2場所)
  • 三賞:1回
    • 技能賞:1回(1951年1月場所)
  • 金星:2個(双葉山2個)
  • 各段優勝:幕下優勝1回(1938年1月場所)

場所別成績[編集]

櫻錦 守弘
春場所 夏場所 秋場所
1938年
(昭和13年)
東幕下付出35枚目
優勝
11–1
東幕下4枚目
4–3 
x
1939年
(昭和14年)
西十両15枚目
9–4 
東十両3枚目
11–4 
x
1940年
(昭和15年)
西前頭15枚目
9–6 
西前頭5枚目
9–6
x
1941年
(昭和16年)
東前頭3枚目
6–9 
東前頭9枚目
7–8
x
1942年
(昭和17年)
西前頭6枚目
7–8 
西前頭6枚目
8–7 
x
1943年
(昭和18年)
東前頭5枚目
5–10 
西前頭12枚目
8–7 
x
1944年
(昭和19年)
東前頭10枚目
5–10 
西前頭12枚目
7–3 
西前頭3枚目

兵役
 
1945年
(昭和20年)
x 東前頭3枚目
5–2 
東前頭筆頭
0–3–7[2] 
1946年
(昭和21年)
x 国技館修理
のため中止
東前頭9枚目
7–6 
1947年
(昭和22年)
x 西前頭2枚目
5–5 
西小結
5–6 
1948年
(昭和23年)
x 西前頭2枚目
6–5 
西小結
5–6 
1949年
(昭和24年)
西前頭筆頭
7–6 
西前頭筆頭
1–5–9[3] 
西前頭10枚目
9–6 
1950年
(昭和25年)
東前頭6枚目
9–6 
東前頭4枚目
7–8 
西前頭5枚目
0–5–10[4] 
1951年
(昭和26年)
西前頭14枚目
12–3
東前頭7枚目
引退
0–0–15
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 櫻錦 利市(さくらにしき りいち)1938年1月場所 - 1946年11月場所
  • 櫻錦 利一(読みは上と同じ)1947年6月場所 - 同年11月場所
  • 櫻錦 守弘(さくらにしき もりひろ)1948年5月場所 - 1951年5月場所(引退)

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p26
  2. ^ 左足首関節捻挫により3日目から途中休場
  3. ^ 肩関節負傷・右腕部筋挫傷により6日目から途中休場
  4. ^ 右肩関節炎・右肘関節捻挫により5日目から途中休場