比企朝宗

 
比企 朝宗
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 不明
別名 藤内[1]、藤内所[2]
官位 内舎人[1]
幕府 鎌倉幕府 御家人
北陸道勧農使守護人[1]
主君 源頼朝
氏族 比企氏
父母 父:比企掃部允?、母:比企尼[1]?
兄弟 朝宗丹後内侍[3]?、河越尼[4]?、三女[5]?
越後局[6][注 1]
姫の前[1]、男子[6]
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比企 朝宗(ひき ともむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士鎌倉幕府御家人比企掃部允比企尼の子、または弟[注 2]

生涯[編集]

寿永3年(1184年信越地方を勢力基盤とした源義仲の滅亡後、北陸道勧農使に任じられる[1][9]。勧農使は後の鎌倉幕府における守護全国設置の前身とも見なされるが、警察権に留まる守護とは異なり国務干渉の権限も有する前段階的なものであった[10][9]。勧農使は建久2年(1191年)以前には廃止されているが[1][11]、それとは別に朝宗は越前国加賀国越中国などに所領を与えられていた[12][9]元暦元年(1184年)7月、頼朝に誅殺された信濃源氏井上光盛の家人の取り扱いを担当しているが、これが『吾妻鏡』における初見記事となる[13]。同年8月には源範頼平氏追討軍に北条義時や義弟の能員らとともに加わる[1]

文治2年(1186年)頼朝から後白河法皇熊野詣の用途を献上する名目で上洛[1][14]。在京中には源義経郎党堀景光を捕縛し、景光から得た情報によって義経探索のために奈良へ下向[1][15][16]。その後も駐在して監視を続けたため、興福寺から抗議を受けている[17]。また梶原景時らとともに若宮八幡宮社の造営にも携わっている[18]。文治5年(1189年奥州合戦に随行し、戦後陸奥国磐井郡に派遣され、中原親能とともに当地の仏閣の調査報告を担当[1][19][20]。建久3年(1192年)頼朝の仲介により娘の姫の前が北条義時に嫁ぐ[21]。建久5年(1194年)越前吉田郡志比庄の領家から9年前に狼藉があったとの訴えを起こされているが、これが『吾妻鏡』における最終所見となる[22][23]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 北条政子に仕える官女。
  2. ^ 掃部允の死後は比企尼の甥である比企能員が比企氏の惣領となった。これについては、朝宗は掃部允と比企尼の実子で本来ならば比企氏惣領となるはずだったが、朝宗の死後に能員が継承したとする見解がある[7][要ページ番号]一方で、朝宗が頼朝に仕えた頃には既に高齢かつ男子に恵まれなかったため次期惣領には相応しくないとみられ、文治4年(1188年)に生まれた男子も能員が惣領を継承した後の子であったため、後継ぎにはなり得なかったとする見解もある[8][要ページ番号]。また朝宗は掃部允の弟とする説もある。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 大日本史料 第四編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130901512 
  • 『大日本史料 第四編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130901529 
  • 『大日本史料 第四編』 4巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 9784130901543 
  • 安田元久 著「安達盛長」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 3巻、吉川弘文館、1979年。ISBN 9784642005012 
  • 林屋辰三郎; 村井康彦; 森谷尅久 編『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1981年。ISBN 9784582910407 
  • 渡辺保 著「河越重頼」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 3巻、吉川弘文館、1983年。ISBN 9784642005036 
  • 東松山市市史編さん課 編『東松山市の歴史』 上、東松山市、1985年。 
  • 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 11巻、吉川弘文館、1990年。ISBN 9784642005111 
  • 福井県 編『福井県史 通史編』 2巻、福井県、1994年。 
  • 大山喬平 著「勧農使」、平凡社 編『世界大百科事典平凡社、2007年。ISBN 9784582034004 
  • 吾妻鏡〈吉川本〉』 1巻、吉川弘文館、2008年。ISBN 9784642041966 
  • 細川涼一「河越重頼の娘」『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年。ISBN 9784784216703