海徳村

みとくそん
海徳村
廃止日 1917年10月1日
廃止理由 新設合併
蒲野部村海徳村大正村
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
気高郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,490
(角川日本地名大辞典 鳥取県「海徳村(近代)」、1891年)
隣接自治体 蒲野部村、東郷村豊実村松保村千代水村
岩美郡富桑村美保村
海徳村役場
所在地 鳥取県気高郡海徳村大字古海
(蒲野部村海徳村組合役場)
地図
旧・蒲野部村海徳村組合役場庁舎位置[1]
座標 北緯35度29分59秒 東経134度12分48秒 / 北緯35.4998度 東経134.213239度 / 35.4998; 134.213239座標: 北緯35度29分59秒 東経134度12分48秒 / 北緯35.4998度 東経134.213239度 / 35.4998; 134.213239
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海徳村(みとくそん[2])は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは高草郡に属した。

概要[編集]

現在の鳥取市古海・徳尾、および緑ケ丘1丁目・南安長1丁目の各一部に当たり[3]千代川下流左岸の沖積地に位置した。

村名は古海の「海」と徳尾の「徳」から取った合成地名である[4]

藩政時代は高草郡古海郷に属する古海村、および野見江保に属する徳尾村があった[5]

古海は元は裏海で、村名もこれに因むとされ、また「古」は村落の古語で水辺の村落の意味とも伝えられる。かつては郡役所が設置され、また町村制施行前は連合戸長役場が設置されるなど当地区の中心となっていた[6]

沿革[編集]

行政[編集]

戸長[編集]

  • 古海村外11ヶ村連合戸長役場:金谷義周[8]
    管轄区域:古海村・徳尾村(後の海徳村)、菖蒲村・服部村・野寺村(後の蒲野部村)、本高村・北村・今在家村・篠坂村(後の東郷村)、中村・有富村・高路村(後の福富村[5]

歴代組合村長[編集]

氏名 就任年月日 退任年月日 備考
岡田義治 1889年(明治22年) 1891年(明治24年)4月19日
三村来蔵 1891年(明治24年)4月20日 1893年(明治26年)5月8日
岸田健治 1893年(明治26年)5月9日 1895年(明治28年)5月12日
西墻重基 1895年(明治28年)5月13日 1897年(明治30年)3月12日
三村来蔵 1897年(明治30年)3月31日 1899年(明治32年)12月9日
川口亀蔵 1900年(明治33年)1月11日 1900年(明治33年)10月8日
岸田健治 1900年(明治33年)12月5日 1903年(明治36年)4月10日
三村来蔵 1903年(明治36年)4月24日 1907年(明治40年)4月22日
三村来蔵 1907年(明治40年)4月25日 1909年(明治42年)12月27日
山名文蔵 1910年(明治43年)1月29日 1912年(明治45年)3月28日
小林富蔵 1912年(大正元年)8月8日 1916年(大正5年)8月7日
小林富蔵 1916年(大正5年)8月12日 1917年(大正6年)9月30日 合併後引き続き大正村長に就任
参考文献 - 大正小学校創立百周年記念誌(鳥取市立大正小学校創立百周年記念事業実行委員会、1974年)

教育[編集]

主要施設[編集]

  • 鳥取監獄:後の鳥取刑務所1892年(明治25年)、県会議員の加藤齢太郎が古海(現在の千代テニス場の場所)に誘致し農家の肥料問題を有利にした[5]

交通[編集]

鉄道[編集]

  • 古海仮停車場:1907年(明治40年)4月28日、山陰鉄道が西から当地まで開通して設置。翌月の5月18日に当時皇太子だった大正天皇の山陰行啓があり、鉄道工事を急いだものの千代川橋梁の工事が難航したため仮駅として設置された。1908年(明治41年)4月5日に千代川を超えて東方面に鳥取駅が開業したことにより廃止[5][9][10]

道路[編集]

  • 吉岡街道(松保村#道路を参照)
    • 千代橋:古海と鳥取市行徳を結ぶ橋。古海の渡しに代わるものとして1883年(明治16年)に長い木橋が架設された[11]

出身者[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]