海東諸国紀

海東諸国紀
各種表記
ハングル 해동제국기
漢字 海東諸國紀
発音 ヘドンチェグッキ
日本語読み: かいとうしょこくき
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海東諸国全図

海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。

1443年世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。

内容[編集]

海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三浦(薺浦、富山浦、塩浦)図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語などを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使節の接遇方法も詳細に記されている。日本史琉球史の重要資料であるだけでなく、日本語史、琉球語史でも見逃せない資料を提供している。

・・・平王四十八年、其始祖狭野起兵誅討、始置州郡・・・ — 序文
日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。その初は、処処に衆を保ち、おのおの自ら国をつくる。周の平王四十八年、其の始祖の狭野は兵を起こして誅討し、初めて州群を置く。大臣おのおの占めて文治するも、中国の封建のごとくは統属甚しからず。習性は強悍にして剣槊(武術)に精なり。舟楫に慣れ、我れと海を隔てて相望む。之を撫するに其の道を得ば、則ち朝鮮は礼を似てし、其の道を失えば、則ち輒ち肆に剽窃せん。
人皇の始祖は神武天皇なり。名は狭野。地神の末主彦瀲尊の第四子。母は玉依姫。俗に海神の女(むすめ)と称す。庚午の歳を似て生まれる。周の幽王十一年なり。四十九年戊午、大倭州に入り、尽く中洲の賊衆を除く。五十二年辛酉正月庚申、初めて天皇を号す。百十年己未、国都を定む。在位七十六年。寿百二十七。
孝霊天皇孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、始皇帝徐福を遣わし、海に入り仙福(不老不死の薬)を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位七十六年。寿百十五。
崇神天皇開化天皇の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江州大湖を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。天照大神は地神の始主なり。俗に日神と称す。今に至るまで四方共に之を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。十四年丁酉、伊豆国船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。在位六十八年。寿百二十。是の時、熊野権現神始めて現る。徐福死して神と為り、国人今に至るまで之を祭る。

刊本[編集]

1933年に朝鮮史編集会から「朝鮮史料叢刊」として影印刊行され、日本では1991年に詳細な訳注本が岩波文庫から出版されている。

参考文献[編集]

  • 申叔舟 『海東諸国紀』 複製本、国書刊行会、1975年。昭和8年刊の宗旧伯爵家蔵の複製本。
  • 田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 岩波文庫、1991年、ISBN 4-00-334581-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]