淡島千景

あわしま ちかげ
淡島 千景
淡島 千景
『サンケイグラフ』1954年10月3日号
本名 中川 慶子(なかがわ けいこ)
生年月日 (1924-02-24) 1924年2月24日
没年月日 (2012-02-16) 2012年2月16日(87歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市(現在の東京都[1]
死没地 日本の旗 日本東京都
職業 女優
ジャンル 歌劇演劇劇映画時代劇現代劇トーキー)、テレビドラマ
活動期間 1939年 - 2012年
配偶者 独身
主な作品
映画
麦秋[1](1951年 小津安二郎
にごりえ』(1953年 今井正
夫婦善哉[1](1955年 豊田四郎
日本橋』(1956年 市川崑
鰯雲[1](1958年 成瀬巳喜男
この子を残して』(1983年 木下惠介
夏の庭 The Friends』(1994年 相米慎二
春との旅』(2010年 小林政広
 
受賞
ブルーリボン賞
主演女優賞
1950年てんやわんや
1955年夫婦善哉
その他の賞
毎日映画コンクール
女優主演賞
1958年蛍火』、『鰯雲
菊池寛賞
1956年
紫綬褒章
1988年
勲四等宝冠章
1995年
牧野省三賞
2004年
NHK放送文化賞
2005年
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淡島 千景(あわしま ちかげ、1924年大正13年〉2月24日 - 2012年平成24年〉2月16日[1])は、日本女優。本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。

宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した[1]宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。

弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策[2][3]

来歴・人物[編集]

1952年頃
残菊物語』、1956年
『にごりえ』(1953年)、右は山村聡
『日本橋』(1956年)

東京府出身。実家はラシャを扱うお店で日本橋に出店、自宅は大森にあった。自宅近くには蒲田撮影所があった。1930年、池上尋常小学校入学。卒業の少し前に一家が武蔵野町吉祥寺へ転居したため、武蔵野第一小学校へ転校。1936年、成蹊高等女学校(現・成蹊中学校)へ進学。

成蹊高等女学校卒業[1]後、1939年昭和14年)に宝塚音楽舞踊学校に入学。その後、1941年(昭和16年)から1950年(昭和25年)まで宝塚歌劇団に所属。百人一首の『淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守』(源兼昌)から、『淡路千鳥』と名付けられるが、同じような芸名の団員がいたことから、『淡島千景』と芸名を変える[4]

在団中は優れた美貌の主演娘役として戦時中・戦後と宝塚歌劇団を支えて、久慈あさみ南悠子と共に『東京の三羽烏』と呼ばれた[5]。2人の男役から愛される娘役スターとして人気を得る。(淡島千景の大ファンであった手塚治虫本人が生前に(TBS「テレビ探偵団」第47回、1988年1月10日放送)のなかで語ったことによれば、手塚治虫漫画リボンの騎士』のサファイア王女は、もともと娘役である淡島が宝塚歌劇団在団中に数回男役を演じており(これは1948年1月の月組公演『ヴェネチヤ物語』の男装をするポーシャ姫の役を指すと推定されている)、淡島が劇中で何度か娘役と男役に入れ変わったことをモデルにしたのであるということである。戦争中に歌舞音曲停止令が発令されたとき、上京中で舞台稽古の真っ最中であったが、その日のうちに寄宿舎に帰され、宝塚に残るか挺身隊に入るかの二者択一を迫られたが、母親の助言もあって宝塚に残る決断をし、慰問の仕事に従事したという。

宝塚退団後は映画界に転向したが、その背景には、先輩であった月丘夢路の影響があったという。1950年(昭和25年)に宝塚歌劇団に辞表を出すが、トップスターであったため強く引き止められた。しかし決意を変えなかったために、劇団の怒りをかい、自主的退団ではなく解雇処分にされた。ただしのちにその処分の撤回を申し入れて受け入れられている[4]

松竹に入社し、『てんやわんや』でデビュー[1]。第1回ブルーリボン賞演技賞を受賞。以降、『麦秋』、『本日休診』、『君の名は』などに出演し、松竹の看板女優として活躍。アメリカナイズされた戦後派の女性を演じ、銀幕のアプレガール(戦後派女性)第一号と称される。『自由学校』では、"とんでもハップン"という流行語を生んだ[6]。1955年には東宝に招かれ『夫婦善哉』(第6回ブルーリボン賞主演女優賞)にぐうたらな男を母性的に見つめる女で共演した森繁久彌との名コンビをみせ、コメディエンヌの魅力も開花させた。戦後日本映画の全盛期を支えた銀幕スターの一人である。

1956年にフリーとなり、以降、各社の映画に出演[7]。特に東宝では『駅前シリーズ』、『妻として女として』、『白と黒』などに出演し、東宝の看板女優として活躍する。

1964年東京オリンピックでの新聞社主催の観戦を機に、東洋の魔女と知り合う。彼女らのために「富士クラブ(フジクラブ)」を作り、淡島がオーナーに就く。監督は淡島のマネージャーである垣内たづ(垣内田鶴)[8]が務めた。チームは1965年の第20回国民体育大会バレーボール競技で優勝を果たした[9]。のちに、メンバーの一人である谷田絹子を、淡島の事務所の社員として雇った[10][11]

1955年(昭和30年)に菊池寛賞1988年(昭和63年)に紫綬褒章1995年(平成7年)に勲四等宝冠章2004年(平成16年)に牧野省三賞、2005年(平成17年)にNHK放送文化賞に輝いた。

宝塚の後輩である扇千景の芸名は淡島千景にあやかってつけた名前である。また淡島千景の大ファンでプライベートでも実妹のように可愛がられていた淡路恵子も淡島の淡の一字をもらって芸名をつけている。

87歳まで現役で、舞台を中心に旺盛な活動を続けた。また、日本俳優連合名誉副会長(2007年まで副理事長)として、長年俳優の権利向上などにも力を尽くした。

亡くなる前年の2011年春、70年以上にも及んだ淡島の女優人生にとって遺作となったTBSドラマ『渡る世間は鬼ばかり』への出演依頼を快諾。淡島の品が光る旅館の大女将役での出演であったが、夏の収録中に体調を崩し病院で検査を受けた結果、膵臓癌が見つかった。発見時にはステージ4まで進行していたが、淡島本人には告知をせず、淡島は病院から撮影現場へ向かっていたという。淡島が最後に出演した回は、2011年8月11日放送の最終シリーズ第41話であった。

その年を越すことができた淡島は、翌2012年正月ごろまでは親族と過ごしていた。その後病状が悪化し、東京都目黒区内の病院に入院した。

古巣の宝塚歌劇団が100周年を2年後に控えた2012年(平成24年)の2月16日午前9時40分、膵臓がんにより東京都目黒区内の病院で87歳で死去。[12][13]。生涯独身であった。戒名は「華優院慈篤慶純大姉」。

葬儀の参列者は司葉子淡路恵子八千草薫鳳蘭朝丘雪路宇津井健小山明子高橋英樹西郷輝彦水谷八重子沢田雅美西川ヘレン熊谷真実藤田朋子小林綾子浅香光代林与一山田吾一花柳壽輔石井ふく子ら。

淡島の死後、借金騒動が起こった。内容としては、淡島は浪費家であり、稼いだギャラでさえ残していなかったというものであった。しかし、生前の淡路恵子は、この借金が取り巻きによって作られたものであり、淡島自身は仕事に懸命でそんなことは無縁であったと証言していた。ただし、淡島の名誉もあり、淡路は「天国で、私がお姉ちゃまに誰と誰がやったかを話す。」と、それ以上は語らなかった。

墓所は護国寺[14]。法号は華優院慈篤慶純大姉。

死後2年経った2014年、古巣・宝塚歌劇団100周年記念で創設された「宝塚歌劇の殿堂」最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たしている。

主な受賞・受章歴[編集]

主な出演[編集]

向かって左から若山セツ子久我美子、淡島千景、角梨枝子原節子杉葉子(1951年)

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

舞台[編集]

宝塚公演

  • 演劇研究会第一回公演「制服の処女」- マヌエラ 役(1941年6月、宝塚中劇場
  • 第一回満州公演(1942年)
  • 花組公演「母なる佛塔/國民の歌」(1943年9月26日 - 10月24日、宝塚大劇場
  • 花組公演「家鴨の出世/になひ文」(1943年11月26日 - 12月28日、宝塚中劇場)
  • 月組公演「ローズ・マリー」(1946年7月2日 - 7月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「傀儡船/人魚姫」(1946年9月1日 - 9月29日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「當麻曼茶羅/センチメンタル・ヂャアニー」(1946年12月1日 - 12月29日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「マノン・レスコオ/アリババ物語」(1947年3月1日 - 3月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「春のおどり(世界の花)」(1947年5月1日 - 5月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「南の哀愁」- ナイヤ 役/「眞夏の夜の夢」- 妖精パック 役(1947年7月1日 - 7月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「千姫モン・パリ」(1947年10月1日 - 10月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「悪たれ/ヴェネチア物語」(1948年1月1日 - 1月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「陽気な街/春のをどり(大津絵)」(1948年4月1日 - 4月29日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「香妃/ブルーヘブン」(1948年9月1日 - 9月20日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「アロハ・オエ」(1948年11月6日 - 11月29日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「重の井/ロマンス・パリ」(1949年3月11日 - 3月30日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「アレクサンドリアの舞姫/春のをどり」(1949年4月22日 - 5月9日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「リオでの結婚/東京・ニューヨーク」(1949年9月1日 - 9月29日、宝塚大劇場)
  • 月組公演「ヴギウギホテル/宝塚花くらべ」(1950年1月1日 - 1月30日、宝塚大劇場)

宝塚退団後

その他のテレビ番組[編集]

  • スピーチショー「森繁久彌と仲間たち」(NHK総合)
  • 浜村淳の人・街・夢(関西テレビ)
他多数

ラジオ[編集]

広告・CM[編集]

関連書籍[編集]

  • 水野晴郎と銀幕の花々」(近代文芸社。水野による淡島を含む女優達のインタビュー集)
  • 「別冊太陽 宝塚タカラジェンヌ一〇〇 宝塚歌劇団八〇周年記念」(監修・解説/宇佐見正。平凡社
  • 「中野シネマ」(中野翠著。新潮社
  • 「君美わしく 戦後日本映画女優讃」(川本三郎文藝春秋のち文春文庫
    川本による淡島を含む女優達のインタビュー集。
  • 「成瀬巳喜男と映画の中の女優たち」(ぴあ
  • 「淡島千景 女優というプリズム」(青弓社、2009年4月)ISBN 4787272632
    1年間に及ぶ本人インタビューを元にした坂尻昌平ほか全4名の編著。
  • 「女優が語る私の人生」(NHKサービスセンター、2012年)

演じた女優[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.33.
  2. ^ 森卓也『定本アニメーションのギャグ世界』アスペクト、2009年、pp.60、280、415
  3. ^ アニメージュ編集部編『TVアニメ25年史』徳間書店、1988年、p.162
  4. ^ a b 昭和の女優 PHP研究所 伊良子序 2012年P87
  5. ^ 。『宝塚スター物語』丸尾長顕著、實業之日本社、1949年5月15日、P.93
  6. ^ 伊良子序『昭和の女優』 PHP研究所、2012年 P.88
  7. ^ 『淡島千景 女優というプリズム』青弓社、P.101,P.396
  8. ^ 『淡島千景―女優というプリズム―』 鷲谷花&志村三代子編 (青弓社) - 紀伊國屋書店 書評空間
  9. ^ 日経【夕刊文化】44086号
  10. ^ 爆報!THE フライデー 【芸能人の骨髄移植&あの人は今大追跡SP】 - gooテレビ番組(関東版) 2018年8月10日放送
  11. ^ 爆報!THE フライデー 【芸能人の骨髄移植&あの人は今大追跡SP】 - gooテレビ番組(関西版) 2018年8月10日放送
  12. ^ “淡島千景さん死去 「夫婦善哉」など出演”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2012年2月16日). オリジナルの2012年2月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120218225855/http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012021601000990.html 2012年2月16日閲覧。 
  13. ^ “俳優・淡島千景さん死去 「夫婦善哉」「麦秋」など出演”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2012年2月16日). オリジナルの2012年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120216232041/http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201202160238.html 2012年2月16日閲覧。 
  14. ^ 小林大輔 (2013年2月8日). “淡島千景さんの護国寺のお墓”. 小林大輔のほのぼの朗読. FC2. 2017年11月8日閲覧。
  15. ^ テレビドラマ 氷雨”. NHK. 2021年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月23日閲覧。
  16. ^ 淡島千景のCM出演情報”. ORICON STYLE (2016年11月8日). 2016年11月8日閲覧。

外部リンク[編集]