清水市

しみずし
清水市
日本平から望む富士山と清水港
清水市旗
清水市旗
清水市章
清水市章
清水市旗 清水市章
1928年昭和3年)8月9日制定[2]
廃止日 2003年4月1日
廃止理由 新設合併
清水市静岡市 (旧) → 静岡市 (現)
現在の自治体 静岡市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 静岡県
市町村コード 22204-6
面積 227.66km2
総人口 234,644
推計人口、2003年3月1日)
隣接自治体
静岡県
静岡市
庵原郡 由比町
富士郡芝川町
山梨県
南巨摩郡南部町
市の木 キクバラ
市の花 サンゴジュヤマモモ
市の花木 ハナミズキ
清水市役所
所在地 424-8701
静岡県清水市旭町6番8号
外部リンク 静岡市ホームページ 清水区
座標 北緯35度00分57秒 東経138度29分23秒 / 北緯35.01572度 東経138.48961度 / 35.01572; 138.48961座標: 北緯35度00分57秒 東経138度29分23秒 / 北緯35.01572度 東経138.48961度 / 35.01572; 138.48961
清水市の位置
位置画像の濃い黄緑色部分が清水市である。
ウィキプロジェクト

清水市(しみずし)は、静岡県中部(駿河国)にかつて存在した。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たる。特例市に指定されていた。

2003年4月1日、静岡市(〜2003年3月)との合体合併(新設合併)により、現在の静岡市(2003年4月〜)の一部となった。静岡市と清水市を合わせて静清〈せいしん、せいせい[注釈 1]〉という呼称があり、それから静清合併と呼ぶことがある。

概要[編集]

日本平の東麓に位置し、富士山を望む港町である。清水地区は天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として発展した。一方、江尻地区は東海道江尻宿宿場町として発展した。

本市出身の漫画家さくらももこ原作の漫画『ちびまる子ちゃん』の舞台として有名である。また日本では『サッカー王国』としてサッカーが盛んな地域としても知られ、Jリーグ草創期には「日本のブラジル」とも呼ばれた。

羽衣伝説で知られ、旧静岡市と合併後の2013年に世界文化遺産に登録された、『三保の松原』を抱える都市でもある。

地理[編集]

清水港周辺の空中写真。1983年撮影の12枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

駿河湾岸に位置し、平野部から山間部まで広い地域を占める。富士山の眺望が良く、「富士山と太平洋」の絵画や写真は、清水港とセットとなっている物が多く見られる。また、東の横浜に比較的近い点から、特に港湾観光娯楽の面では、横浜と対比されることもある。

地域[編集]

市域が広いので、鉄道駅を基準にした地域ごとに見る場合もある。

  • 中心市街地(清水駅周辺)
  • 興津(東部)
  • 草薙(西部:旧静岡市との境界付近)

姉妹都市・友好都市・提携都市[編集]

日本国外[編集]

日本国内[編集]

姉友好港湾・姉妹港湾[編集]

歴史[編集]

古代[編集]

清水市域に人々が住み始めたのは、1万年以上前であったと言われており(縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている)、5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現している[3]

律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国国衙が置かれ、駿河の国の中心寺も又庵原にあり(尾羽廃寺)、現在の静岡県中部地域の中心であった。なお、日本書紀には663年朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。また、日本武尊の伝説につながる草薙神社三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載されている。

鎌倉〜江戸時代[編集]

承久の乱や梶原景時討滅等の戦功により、清水武士団の勢威拡大。吉川氏は西遷。

今川氏の領国を経て、甲斐武田氏により駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になる。

江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水湊は西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地として栄えた。

明治から第二次世界大戦まで[編集]

1930年頃(昭和初頭)の清水市の地図。
  • 1868年(明治元年):旧幕府軍咸臨丸が補修のため清水港に停泊中、官軍に襲われ旧幕府軍乗組員は全員死亡。遺体が清水港に浮かぶが官軍の威を恐れて誰も手をつけなかった。これを清水次郎長一家が「死ねば」と言って、遺体を引き上げ葬った(壮士の墓)。
  • 1869年:片平信明、村再生のため庵原に日本初の夜学校を開校。
  • 1889年2月1日東海道本線が開通し、江尻駅(現清水駅)が開設される。
  • 1889年10月1日町村制施行に伴い、有渡郡に清水町・入江町・不二見村・三保村が発足、庵原郡に江尻町が発足した。
  • 1893年4月9日:江尻町から辻村が分立する。
  • 1896年4月1日:有渡郡が廃止され、安倍郡に編入される。
  • 1899年清水港貿易港の指定を受ける。
  • 明治中期〜昭和前期:三保は砂地で農業に不適な土地であったため、当地から多くの人間が仕事を求めて、アメリカ合衆国移民として渡米した。
  • 1912年:日本初の鉄筋コンクリート製灯台(三保灯台、日本の近代化産業遺産)初点灯。
  • 1912年:桜の苗木を興津農事試験場にて育苗、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.に贈る。※前回贈呈した、他所の苗木は害虫多く米国で全て焼却された。興津では日本の名誉をかけ、熊谷技師達が接ぎ木、施肥、除草など精魂をこめた結果、健全な苗が作られた。
  • 1918年8月1日:辻村が町制を施行し、辻町となる。
  • 1924年1月13日:安倍郡入江町が庵原郡江尻町辻町を編入する。
  • 1924年2月11日清水町入江町不二見村三保村が合併し、面積25.34 km²、人口約43,000人の清水市となった。全国で第101番の市制施行。
  • 1935年7月11日静岡地震が発生。市内の建物の多くが倒壊して多数の死傷者が多く出た。清水港では3000トン級の岸壁が崩壊。清水魚市場や製氷倉庫も倒壊した[4]
  • 1939年〜:日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出。
  • 1940年:最後の元老西園寺公望が興津坐漁荘にて死去。
  • 1943年:清水高等商船学校設立。戦後商船大学となり、1957年に東京へ移転、東京商船大学となった。
  • 1945年7月7日:清水大空襲。同月30日夜半から31日未明、アメリカ海軍駆逐艦の艦砲射撃。

第二次世界大戦後[編集]

行政[編集]

歴代市長[編集]

  1. 大島要蔵 (1924.7.7 - 1925.9.9)
  2. 山田勝四郎(1926.1.13 - 1929.3.8)
  3. 塩原時三郎(1929.10.12 - 1932.2.22)
  4. 大石恵直 (1932.3.18 - 1937.6.14)
  5. 山田勝四郎(1937.7.11 - 1946.11.13)
  6. 山本正治 (1947.4.6 - 1955.4.7)
  7. 鈴木平一郎(1955.4.30 - 1959.4.30)
  8. 稲名徹 (1959.5.1 - 1960.7.22)
  9. 稲名亀造 (1960.9.15 - 1964.9.12)
  10. 池上善作 (1964.9.13 - 1965.7.6)
  11. 佐藤虎次郎(1965.8.20 - 1977.8.19)
  12. 稲名嘉男 (1977.8.20 - 1985.8.19)
  13. 宮城島弘正(1985.8.20 - 2003.3.31)

経済[編集]

農業工業商業の三面がそろった都市として、一部の地理教科書で採り上げられたこともある。

第一次産業[編集]

みかんの生産が知られるが、日本平界隈や山間部では緑茶の農地も多く見られる。清水港は、の輸入日本一で知られ、緑茶の輸出も行われている。また、バラの生産量はかつて日本一であった。

工業[編集]

臨海部の大企業は戦時中は軍需工場であったが戦後はその技術を引き継ぐ民生品製造工場として残っている。昭和20 - 30年代にはさらに各種工場が建設され、清水の工業生産高は一時県下一を誇ったが、産業構造の変化によりその地位を失った。

また、江尻漁港を抱え「魚の缶詰」などの食品工場も立地しているが、その割合はごく小部分を占めるにすぎない。なお、全体の工業生産高は一時の底を脱し近年は微増に転じている。

窯業[編集]

清水市一帯で作られたは「清水瓦」のブランドで流通している。第二次世界大戦後は、戦災や大型台風被害からの復興に伴い屋根瓦の需要が急増。1950年には200余の工場で月産150万枚が生産され、静岡県内はもとより関東地方関西地方まで出荷するなど[7]、一時は三州瓦愛知県)、石州瓦(島根県)、淡路瓦(兵庫県)に日本三大生産地に匹敵する規模となったが、高度成長期に差し掛かると煤煙問題が生じたこと、豪雨により窯が水没する被害を受けるなど産地としての条件は悪化、生産量は減少した[8]

商業[編集]

清水駅を軸に商店街が形成されているが、現在は郊外大規模店が多く進出しており、中心部は現在劣勢である。清水駅前に存在した、花菱百貨店(1964年から1972年まで存在)をはじめ、長崎屋丸井セイフーダイエー西友等の商業施設が閉店し現存しない。

静清合併時には、東静岡駅界隈に中枢機関を移転する構想が持ち上がっており、この際には清水市街地、静岡市街地と列ぶ第三極が形成されるため、静岡市街地と共に衰退を危ぶむ声[要出典]も出ていた。

本社を置いた主な企業[編集]

  • 靜甲(産業機械、ペットボトル)
  • 駿河精機(精密金型部品)
  • かつ好(とんかつ・コロッケの通信販売)
  • どんどん(弁当販売)
  • 大鐘(うどん・そば「鐘庵」等)
  • 清和海運
  • システムオリジン(タクシー専門システム)

スポーツ[編集]

日本で五指に入る「サッカー王国」として有名であり、Jリーグチームの清水エスパルスのホームタウン(本拠地)である。市内の小中学校やグラウンドには、夜間照明が整備されており、長期に渡ってインフラ面を整備して来たことが特徴である。

後に「清水東三羽烏」と呼ばれた長谷川健太堀池巧大榎克己の三人を擁した清水FCが、全日本少年サッカー大会で全国優勝している。1987年から、毎年8月には、清水カップと題した全国少年少女草サッカー大会も開かれている。

しかし、2000年頃からは、清水をはじめとする静岡県中部勢の全国大会における低迷、エスパルスの低迷など、明るい材料が少ない。2005年に長谷川健太がエスパルス監督となり、再建に乗り出している。

観光[編集]

イベント[編集]

観光地[編集]

博物館[編集]

土産[編集]

交通[編集]

鉄道[編集]

中心駅:清水駅

路線[編集]

東海旅客鉄道東海道本線
興津駅 - 清水駅 - 草薙駅
興津駅 - 清水駅間に、臨時乗降場袖師駅が一時存在した。(1971年10月1日廃止)
日本国有鉄道清水港線
清水駅 - 清水埠頭駅 - 巴川口駅 - 折戸駅 - 三保駅
1984年4月1日廃止。廃止時点では旅客列車が1日1往復であった。
静岡鉄道静岡清水線
新清水駅 - 入江岡駅 - 桜橋駅 - 狐ヶ崎駅 - 御門台駅 - 草薙駅 - 県立美術館前駅
静岡鉄道清水市内線
港橋駅 - 万世町駅 - 市役所前駅 - 清水駅前駅 - 辻町駅 - 秋葉道駅 - 西久保駅 - 愛染町駅 - 嶺駅 - 鈴木島駅 - 袖師駅 - 横砂駅 
路面電車で一部専用軌道。1974年7月7日休止、1975年3月22日廃止。

バス[編集]

道路[編集]

道路元標清水駅前交差点

路線[編集]

港湾[編集]

学校[編集]

高等学校以上のみを掲載する。小学校および中学校は「清水区」を参照すること。

高等学校[編集]

大学[編集]

清水を舞台にした作品[編集]

一部、関連作品、合併以降の作品も含む。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 静清」には「せいしん」と「せいせい」の二通りの読み方がある。「せいしん」と読まれる機関は静清信用金庫静清バイパスなどであり、「せいせい」と読まれる機関は静清中央卸売市場、静清合併協議会、静清高等学校などである。 第三者からは、清水(しみず)から「しん」という風に、「せいしん」と読まれることが多い。しかし、戦後の学校教育において「清」の音読みは「せい」が一般的となった影響か、地元では新に命名される場合は「せいせい」と読まれることが多い。テレビなどの報道においては、「静清合併」は、合併協議会の読みに倣い、「せいせい」と発音される。(参考:『SBSテレビ夕刊静岡放送)なお、静清高等学校は、開校当初(当時:静清工業高等学校)は旧静岡市に立地していたが、現在は藤枝市に移転した。

出典[編集]

  1. ^ (静岡市・編 『新「静岡市」誕生 ― 静岡市・清水市合併の記録』 静岡市、2003年 [1] p.169「(合併協定項目) 慣行の取扱い」 )
  2. ^ 1928年(昭和3年)8月9日議会にて制定、1961年(昭和36年)3月30日改定。[1]
  3. ^ 清水市の区画整理 平成7年3月[要文献特定詳細情報]
  4. ^ 静岡・清水地方に激震、家屋倒壊相次ぐ『東京日日新聞』昭和10年7月12日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p236-237 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 『朝日新聞』昭和42年9月15日、12版、15面
  6. ^ 静岡市などに救助法『朝日新聞』昭和49年(1974年)7月8日夕刊、3版、10面
  7. ^ 「清水瓦に集まる注文 台風禍この方、東から西から」『日本経済新聞』昭和25年11月17日3面
  8. ^ 【しずおか・このひと】渡辺商店 渡辺大輔さん (43) 独自の鬼瓦にこだわり 静岡から発信”. 産経新聞. 2020年2月12日閲覧。

関連項目[編集]