田中不二麿

田中 不二麿
たなか ふじまろ
生年月日 1845年7月16日
弘化2年6月12日
出生地 日本の旗 日本尾張国名古屋城
(現・愛知県名古屋市
没年月日 (1909-02-01) 1909年2月1日(63歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市小石川区目白
出身校 明倫堂
前職 官僚
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵
配偶者 須磨
子女 阿歌麿(長男)、芳子(養女・河合弘民妻)
親族 都留子(妹)、静子(妹・岡見清致妻)、(孫)

日本の旗 第2代 司法大臣
内閣 第1次松方内閣
在任期間 1891年6月1日 - 1892年6月23日

日本の旗 参事院議官
在任期間 1884年5月14日 - 1885年12月22日

日本の旗 参事院副議長
在任期間 1881年10月21日 - 1884年5月14日

日本の旗 第3代 司法卿
在任期間 1880年3月15日 - 1881年10月21日

在任期間 1878年3月5日 - 1880年3月15日

その他の職歴
日本の旗 文部大輔
1874年 - 1880年)
日本の旗 文部少輔
1873年 - 1874年)
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田中不二麿

田中 不二麿(たなか ふじまろ、1845年7月16日弘化2年6月12日)- 1909年明治42年)2月1日)は、明治期の日本政治家、教育行政家[1]位階爵位正二位勲一等子爵夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治新政府での著名人物としては非常に稀少な尾張藩出身の人物である。

尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。

明六社会員。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。

経歴[編集]

尾張国名古屋城下に尾張藩士の子として生まれ、長じて藩校・明倫堂で和漢古典を学ぶうちに勤皇思想に心酔した。成績優秀につき藩参与に取り立てられる。

時あたかも幕末の動乱期であり、佐幕尊王攘夷かで尾張藩も意見が二分したが、尊攘派の「金鉄組」に属した。徳川御三家という、藩論を論ずるにあたり大変な神経を使う藩情にもかかわらず、尊皇攘夷の大道を説き続け、同僚の丹羽賢中村修(後の名古屋市長)らとともに尊皇攘夷建白書を家老ほか藩内要職者に提出。またに足を運び彼地の尊皇攘夷論者と頻繁に接触した。

青松葉事件以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となって藩論の統一に尽力し、一躍藩の内外にその名を知られるようになる。慶応3年(1867年)、王政復古の大号令を受けて参与に任命、同日の小御所会議に尾張藩代表として出席した。

慶応4年(1868年)正月、官軍に徴士。翌年、大学御用掛を拝命し、教育行政に携わるようになる。

明治3年(1870年)、徳島藩庚午事変(稲田騒動)が勃発すると、特命を受けて現地に急行。関係者聴取の上で短日月の内に報告書を上程し、迅速な騒動鎮定に大いに寄与した。

明治4年(1871年)10月、文部大丞になる。11月12日岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞する。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。

明治7年(1874年)、9月27日文部大輔となる(1880年まで文部行政の中心となる)。外務卿陸奥宗光と共に、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待し、近代日墨国交の端緒を開く。1876年フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米し、アメリカ各州の教育行政の調査を実施した[2]。1878年12月、公議による教育政策の決定を提唱して「教育国会ヲ創設スルノ議」を公表した[3]

明治12年(1879年)、教育令を建白。学制が廃され同令が施行される。教育令は学制にある画一的なあるいは民生圧迫的な側面を退けて、アメリカ式の地方主体の自由主義教育を基調としたもので、6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど画期的なもので親や町村の教育負担を著しく軽減した。

一方において、音楽取調掛を設け、伊沢修二らを欧米に派遣し『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』等のドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に音楽教育の近代化を図り、あるいは伊沢と共に体操伝習所を設置し近代体育教育を導入なおかつ日本人身体の科学的調査を行ない、また女子校幼稚園の開設に関与した。

しかしながら、未就学児の増加ならびにいわゆる学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり、教育令実施による学事停滞とその欧化主義的政策展開の責を負って翌明治13年(1880年)3月12日、司法卿に配置換えとなる。

以後は教育行政から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて明治24年(1891年)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文山縣有朋らの要請を受け第1次松方内閣司法大臣を拝命。後、位階正二位に任ぜられ子爵を授与される。

明治25年(1892年)、司法官弄花事件の影響により司法大臣を辞職する。

明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会副委員長に就任した。

明治42年(1909年)、目白の自宅において65歳で没[4]。子に地質学者・田中阿歌麿(あかまろ)、孫に経済地理学者の田中薫がいる。

戯曲・國語元年の田中閣下[編集]

井上ひさしの戯曲『國語元年』は明治7年(1874年)の東京にある架空の文部官吏の邸を舞台に、登場人物がそれぞれのお国訛りを喋ることで好事家の興味をそそる作品であるが、主人公に「全国統一話言葉(はなしことば)制定取調」を任命する上席役人として“文部少輔田中不二麿閣下”が登場する(厳密には主人公が「田中閣下はこう申された」と発言を引用される形)。作中での田中は激しい名古屋弁で主人公を叱責する。

  • 「てぁーもなぁーことだでよー」(飛んでもねえことだ)
  • 「オミャー、ニスイワナン」(にぶいんだよ、おまえは)
  • 「今頃めずらしヌクでやわ」(このごろ珍しい抜け作だよ)
  • 「チョーズバにブチョ落ちてビタビタビタンコになるがエーだよォ」(便所に叩き落ちてびしょ濡れになるがいいや)

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)世界大百科事典 第2版「田中不二麻呂」
  2. ^ 『日本教育史 : 教育の「今」を歴史から考える』90頁。
  3. ^ 文部省第5年報
  4. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷 p.24
  5. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  6. ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
  7. ^ 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
  8. ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  9. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  10. ^ 『官報』第2398号「叙任及辞令」1891年6月29日。
  11. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  12. ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
  13. ^ 『官報』第2535号「叙任及辞令」1891年12月10日。
  14. ^ 『官報』第2663号「叙任及辞令」1892年5月17日。

参考文献[編集]

関連文献[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
河瀬真孝(→閉鎖)
日本の旗 高等捕獲審検所長官
1904年 - 1906年
次代
(閉鎖→)細川潤次郎
先代
(新設)
日本の旗 参事院副議長
1881年 - 1884年
次代
山尾庸三
先代
宍戸璣(→欠員)
日本の旗 文部大輔
1874年 - 1880年
次代
(欠員→廃止)
先代
黒田清綱(→欠員)
日本の旗 文部少輔
1873年 - 1874年
次代
(欠員→)神田孝平
その他の役職
先代
渡辺洪基
明治美術会会頭
1890年 - 1893年
次代
花房義質
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
田中(不二麿)家初代
1887年 - 1909年
次代
田中阿歌麿