田尻寅雄

田尻 寅雄(たじり とらお、1866年4月6日 - 1947年)は、日本医学者である。熊本初のハンセン病病院、回春病院初代院長として、ハンナ・リデルを助け病院の充実に努めた。

略歴[編集]

1866年(慶応2年)熊本県玉名市天水町立花に肥後国田尻氏の庶流として生まれる。父である医師、田尻宗彦(そうげん1824ー1896)は村田家と同様熊本藩の産科医として有名であった。細川家の上級医師(御目見医師)であった。

明治12年国友昌(古照軒)につき、普通学および漢学修行。明治13年友枝章蔵につき普通学および漢学修行。明治19年熊本県立医学校入学。(熊本医科大学 (旧制)に記載)、卒業後、明治21年第五高等中学医学部(長崎市に存在)へ入学。卒業後、明治26年東京芝白金に北里柴三郎福澤諭吉の支援で建設した「土筆ケ岡養生園」(つくしがおかようじょうえん)(結核専門病院である)[1]に医員として奉職。傍ら明治29年2月まで「私立衛生会伝染病研究所」助手を命ぜられ、細菌学を研究。第7169号をもって医術開業免状を受領。明治29年医学得業士の称号を受領。明治30年熊本県玉名市天水町立花に開業、その傍ら私立熊本回春病院院長となり、専らハンセン病患者の治療に従事した。

妻、安枝は政友会幹事長を務めた衆議院議員江藤哲蔵の妹。

エピソード[編集]

玉名郡天水村出身の俳優・笠智衆は、寅雄の息子と同級生で、子どもの頃は田尻家でよく食事をご馳走になっていた[2]。笠が上京後、松竹キネマの俳優研究所で養成を受けていたとき、笠の実家の父が亡くなり、実家の寺を継ぐことになった。しかし、一旦は寺の住職となったものの、俳優研究所に戻りたくなった笠は、村の顔役であった寅雄に泣きついた。そこで寅雄が当時台湾にいた笠の兄を説得して帰国させたため、笠は住職を辞め、東京の俳優研究所に復帰することができたという[3]

脚注[編集]

  1. ^ 福永[2014:173]
  2. ^ 『俳優になろうか』14頁、19頁
  3. ^ 『俳優になろうか』45-46頁

参考文献[編集]

  • 笠智衆『俳優になろうか 私の履歴書』(日本経済新聞社,1987)

関連文献[編集]

  • 熊本回春病院事務所 編『ミス・ハンナ・リデル』30頁(熊本回春病院,1934)
  • 『天水町史』548頁,930頁(天水町,2005)
  • 『日本病院史』福永肇 2014年 Pilar Press, ISBN 978-4-86194-073-6