皆川定之

皆川 定之
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県
生年月日 1919年10月9日
没年月日 (1986-12-11) 1986年12月11日(67歳没)
身長
体重
156[1] cm
60 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1937年
初出場 1937年
最終出場 1952年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 急映フライヤーズ (1948)
  • 河合楽器

皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は、群馬県出身の元プロ野球選手、コーチ、監督

プロ野球選手の皆川康夫は子。

来歴・人物[編集]

旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)時代には、第13回選抜中等学校野球大会第20回全国中等学校優勝野球大会第21回全国中等学校優勝野球大会第22回全国中等学校優勝野球大会の4回の甲子園に出場した。チームメイトに大阪タイガースでも同僚になる青木正一(投手)、後に近鉄のスカウトになる塚越源市(捕手)がいた。

1937年に大阪タイガースに入団した。入団の経緯は、チームメイトでエースの青木を獲得に行ったタイガースの早川渉外に、桐生中監督の稲川東一郎が「青木よりいい」と紹介したことから始まる。戦前とはいえ、身長156cmの皆川は特に小柄で、同年春シーズンに公式戦初出場した際、球審を務めていた二出川延明は皆川をバットボーイと勘違いし「坊や、向こうへいけ」と言ったという話が伝わっている[1]

1938年秋季シーズンから出場数が増え始める。11月16日の対イーグルス戦では、2回表、8番に入った青木正一の打席で、9番の皆川が打順を間違えて打席に入り、皆川はライトフライに倒れる。すぐに打順間違いをイーグルスに指摘され、記録上は皆川の打席は青木が打った事になった。続く打席で皆川が再び入り、四球を選んでいる。これは日本プロ野球史上初となる、打順間違いの事例となった[2]

1939年には88試合、1940年には101試合に出場した。

39年~41年にかけては東西対抗にも出場。1941年オフに戦争の影響で退団。退団後は全桐生に所属し都市対抗野球にも出場していた。

1948年急映フライヤーズに入団しプロ復帰。同年途中より苅田久徳に代わって代理監督も兼務した。

その後、大生相互銀行全前橋河合楽器を渡り歩き、河合楽器の監督に就任した。

選手としての特徴[編集]

皆川の選手としての特徴は、その守備にあった[1]。タイガースで同僚だった松木謙治郎は、後に皆川について「守備だけなら吉田以上」と書いている[1]

その一方で、打撃は打率が2割5分を超えたことがない、そもそも2割を切るシーズンもある上、シーズン最多三振を記録する(1951年)など難があった。しかし、その一方で選球眼に優れており、四球を数多く選んでいる。1949年シーズンは、リーグ最多の80四球を選んでおり、打率.178ながら、出塁率.295を記録している。出塁率3割を超えているシーズンも多い。また、犠打も多用しており、シーズン最多犠打を3シーズン記録している(1941年1948年1951年)。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1937 大阪
阪神
10 31 29 4 5 0 0 0 5 2 1 -- 0 -- 2 -- 0 5 -- .172 .226 .172 .398
1937 10 20 18 1 3 0 1 0 5 0 0 -- 1 -- 1 -- 0 4 -- .167 .211 .278 .488
1938 7 18 14 4 3 0 0 0 3 2 0 -- 0 -- 3 -- 1 4 -- .214 .389 .214 .603
1938 27 101 79 18 18 1 0 0 19 5 3 -- 3 -- 18 -- 1 13 -- .228 .378 .241 .618
1939 88 324 267 40 61 6 1 0 69 20 10 -- 13 1 42 -- 1 40 -- .228 .335 .258 .594
1940 104 466 390 56 73 12 4 0 93 26 13 -- 15 0 60 -- 0 50 -- .187 .296 .238 .534
1941 84 369 295 16 52 9 1 0 63 16 5 -- 21 -- 50 -- 3 39 -- .176 .302 .214 .515
1948 急映
東急
134 575 494 61 104 13 3 1 126 28 14 9 21 -- 60 -- 0 53 -- .211 .296 .255 .551
1949 138 596 505 80 90 17 1 6 127 30 11 7 6 -- 80 -- 4 70 -- .178 .295 .251 .547
1950 116 491 425 62 95 12 2 6 129 33 23 2 8 -- 55 -- 3 73 7 .224 .317 .304 .620
1951 102 448 393 55 91 11 4 7 131 32 10 7 22 -- 30 -- 3 63 3 .232 .291 .333 .624
1952 75 224 181 13 35 7 0 1 45 14 5 3 20 -- 21 -- 2 29 2 .193 .284 .249 .533
通算:10年 895 3663 3090 410 630 88 17 21 815 208 95 28 130 1 422 -- 18 443 12 .204 .303 .264 .567
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
  • 急映(急映フライヤーズ)は、1949年東急(東急フライヤーズ)に球団名を変更

背番号[編集]

  • 29 (1937年 - 1941年)
  • 6 (1948年 - 1952年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “猛虎人国記(7)~群馬県~ 初代勝利打点王の人間性豊かな佐野仙好”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918870.html 2013年4月3日閲覧。 
  2. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」501ページ

関連項目[編集]