真玉橋

真玉橋
現在の真玉橋
基本情報
日本の旗 日本
所在地 沖縄県那覇市豊見城市
交差物件 国場川水系 二級河川 国場川
建設 2002年
座標 北緯26度11分42.6秒 東経127度41分43.2秒 / 北緯26.195167度 東経127.695333度 / 26.195167; 127.695333
構造諸元
形式 アーチ橋
全長 79.6m[1]
30m[1]
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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国場川にかかる石橋・真玉橋(昭和戦前期)

真玉橋(まだんばし)は、沖縄県那覇市豊見城市の間を流れる国場川にかかる橋の名称。また、豊見城市側の地名にもなっている。

真玉橋の歴史[編集]

「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」(沖縄戦で破壊されたが、2000年代に再建された)によれば、真玉橋が最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王1522年である。その目的は1.日常の政治目的(按司などの使用)、2.城(おそらく真玉橋の南側にあった豊見城(とみぐすく))と水(水害)の保護、3.有事の際に島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるため、であり首里と沖縄本島南部(島尻地域)を結ぶ真珠道(まだまみち)の一部として建造された。初代の橋は木造であった[2]

真玉橋が石造橋となったのは第11代尚貞王1708年のことで、5連のアーチ橋が完成した。当時の琉球国内では、1451年に建造された長虹堤に続く石造アーチ橋であったと考えられている[3]。橋長約38m、幅員約4.8mで、両端のアーチ橋は無名だが、中の3つのアーチ橋は南からそれぞれ「世持橋」「雲久橋」「世寄橋」と命名されていた。その後1837年に大改修されて、世寄橋の北に「世済橋」を新たに築いた。琉球王国消滅後も存在していたが、1945年沖縄戦の際退却する日本軍によって破壊された[4]

戦後米軍によって鉄橋が、さらに1963年には琉球政府によってコンクリート橋が架けられていたが、2002年に再びアーチ橋として架橋された。この架橋工事の際に旧アーチ橋の遺構が発見され、現在も国場川の両岸に保存されている。

橋名の「まだま(真玉)」とはおもろ語の褒め言葉であるという[5]。「よもち(世持)」「くもこ(雲久)」「よよせ(世寄)」に関しても、おもろに登場する褒め言葉である[6]

集落としての真玉橋[編集]

17世紀初期には豊見城間切真玉橋村としての記録がある[7]。『琉球国由来記』『遺老説伝』によれば、中国からわたってきた人々が真玉橋の東に定住し、陶窯を設けて瓦器を焼き琉球における最初の焼瓦となったというが、その年代は不明である。明治以降も真玉橋村として存在し、1880年における戸数は62、人口304人だった(県統計概表)。1903年豊見城間切内の嘉数村および根差部村と合併して真嘉部村となり、1908年沖縄県及島嶼町村制施行により豊見城村の一部となった。


言い伝え[編集]

昔、日照りが続き、真玉橋に埋める生け贄を決める為、矢を飛ばして刺さった家の娘を生け贄にしようという事になる。だが、矢が刺さったのは言い出した人の家だったため、その人の娘が生け贄にされ、橋に埋められた。という言い伝えがある。

また、別の言い伝えでは、一人の神女(一説にユタとも)が「子年生まれで、七色の元結を身につけた女を人柱に立てよ」との神託を告げたところ、その神女(ユタ)が正しくその女であり、神託を告げた自分が人柱に立てられることとなり、最期の時、自分の娘に「人より先に口をきいてはいけない」という言葉を遺した、というものもあり[8][9][10]長柄橋の人柱伝説の影響も指摘されている[11]

なお、後者の言い伝えについては、岡本綺堂の戯曲『長良川』をそれに基づいてアレンジした伝説劇、『真玉橋由来記』が作られている。[12]また、芥川賞作家大城立裕も、それに基づいた新作組踊『真珠道(まだまみち)』を作った。[13]

主要施設[編集]

真玉橋
日本
都道府県 沖縄県
市町村 豊見城市
人口
2018年(平成30年)6月30日現在)
 • 合計 4,604人
郵便番号
901-0201

交通[編集]

道路[編集]

路線バス[編集]

当地域を通過する路線バスは、105番豊見城市内一周線、45番与根線、6番那覇おもろまち線がある 45番与根線と6番那覇おもろまち線はそれぞれ朝2本と朝夕1本に豊見城高校経由があるのみで、非常に少ない。

真玉橋地域内にあるバス停[編集]

  • 豊見城高校前
  • 根差部入口
  • 真玉橋入口
  • 嘉数入口(部落内側)
  • 嘉数入口(県道11号)

隣接地域[編集]

豊見城市内[編集]

那覇市[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 久保孝一 (2002年4月). “真玉橋” (PDF). しまたてぃ(一般社団法人沖縄しまたて協会 発行). p. 9. 2011年8月10日閲覧。
  2. ^ 琉球国旧記』による。
  3. ^ 『重修真玉橋碑文』による。真玉橋南詰の真玉橋公民館前に復元されている。
  4. ^ 『沖縄県史』
  5. ^ 東恩納寛惇『南島風土記』
  6. ^ 島村幸一「オモロの美称語」『沖縄文化研究= 沖縄文化研究』第22巻、法政大学沖縄文化研究所、1996年2月、365頁、doi:10.15002/00002608ISSN 1349-4015NAID 1100046532962022年12月27日閲覧 
  7. ^ 『絵図郷村帳』
  8. ^ 豊見城民話 真玉橋の人柱伝説 ― 七色ムーティー - 沖縄県豊見城商工会ホームページ閲覧。
  9. ^ イリヌシーサー編 イリヌシーサー周辺 - もっと沖縄ホームページ閲覧。
  10. ^ [1] 『会報 河川文化第67号』 公益社団法人日本河川協会
  11. ^ [2] 『真玉橋に埋め込まれた祈り -沖縄の人柱伝説が意味するもの-』栗原健 宮城学院女子大学
  12. ^ 沖縄コンパクト事典 「真玉橋由来記」 (まだんばしゆらいき) - 琉球新報ホームページ閲覧。
  13. ^ 公演情報 組踊公演「真珠道」 - 国立劇場おきなわホームページ閲覧。

参考文献[編集]

  • 久保孝一「真玉橋」社団法人沖縄建設弘済会発行「しまたてぃ」No.21、2002年、4-9頁
  • 『日本歴史地名大系四八巻 沖縄県の地名』、平凡社、2002年、ISBN 4582490484

関連項目[編集]