米良重方

 
米良重方
時代 戦国時代
生誕 天文3年(1534年
死没 元亀3年5月4日1572年6月14日
墓所 宮崎県小林市須木下田字坂の下 の一麟寺跡「米良筑後守の墓」(小林市指定史跡)
官位 筑後(受領名)
主君 伊東義祐
氏族 米良氏
父母 父:米良重泰
兄弟 重方矩重
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米良 重方(めら しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代武将日向伊東氏の家臣。日向国諸県郡須木城主。三ツ山地頭。

概要[編集]

須木米良氏は、肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社大宮司職を務める家系。薩摩国島津氏と接する小林村(現・宮崎県小林市真方)に小林城を作るよう命じられ、かつその城主にも任命され須木城と小林城を領有することになる。

永禄9年(1566年)10月26日(永禄10年10月25日説も)、築城中の小林城に島津義久義弘歳久が攻め寄せた際、重方は弟・矩重と共に奮戦。須木城からの援軍を得て、多くの島津軍の将兵を討ち取り、義弘は重傷を負い島津軍は放逐された。
永禄11年(1568年)、飫肥での戦い(第九飫肥役)において、伊東方の代表として島津方の北郷忠顕と戦後交渉を行い、島津軍の撤退と飫肥領の割譲を実現させ、知勇兼備の将と謳われた。この頃に野首城も賜る。
元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いに出陣。加久藤城攻めに失敗した伊東軍の殿軍となり戦死。首は、義弘による首実検の後、米良家の菩提寺である一麟寺に送り届けられた。

備考[編集]

  • 首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、送り届けられた際の首桶は小林市指定・有形文化財になっている。

関連項目[編集]