能代潟錦作

能代潟 錦作
基礎情報
四股名 能代潟 錦作
本名 石田 岩松
愛称 今様実盛・廻し叩き・にぎりや
生年月日 1895年4月5日
没年月日 (1973-06-08) 1973年6月8日(78歳没)
出身 秋田県山本郡藤里町
身長 170cm
体重 124kg
BMI 42.91
所属部屋 錦島部屋
得意技 左四つ、寄り、捻り、押し
成績
現在の番付 引退
最高位大関
生涯戦歴 292勝198敗10分5預43休(57場所)
幕内戦歴 230勝171敗9分1預43休(43場所)
優勝 幕内最高優勝1回
十両優勝1回
データ
初土俵 1915年1月場所(幕下付出
入幕 1921年5月場所
引退 1936年5月場所
備考
金星1個(玉錦三右エ門
2015年9月7日現在

能代潟 錦作(のしろがた きんさく、1895年4月5日 - 1973年6月8日)は、秋田県山本郡藤里町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は石田 岩松(いしだ いわまつ)。最高位は東大関

来歴[編集]

1895年4月5日秋田県山本郡藤里町で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から力が強く、家業である農業の合間に太良鉱山鉱石と鉛塊を運ぶ作業に従事し、ある時は馬でさえ運べなかった100貫もの荷を担いだこともあった。相撲も元々好きだったことから周囲から「田舎大関」と呼ばれていた。1914年の春に太良鉱山山神祭が行われた際に、田舎大関の実力を発揮しようと飛び入り三番勝負へ参加したが全く歯が立たず、それが元で力士を志すようになった。そんな中、同年夏に同郷の大蛇潟粂藏一行が巡業でやって来たことで日本相撲協会の目代を介して面会し、大蛇潟の風格に憧れたことで入門を志願すると許可されたので、一行の巡業に帯同し、同年暮に錦島部屋へ正式に入門した。最初の四股名は「突山」で、生家が東方の高山(388.4m)から地鳴りとともに、突き出してできたという突山の上にあったため、そこから名付けた。

1915年1月場所において、土地相撲の実績と部屋の稽古によって幕下付出予定者に勝利した実力を買われて幕下付出から初土俵を踏むが、1勝4敗に止まり当時の規定によって序二段まで降格された。

1921年5月場所で新入幕を果たすが、その場所で虫垂炎を発症させて全休、一場所で十両陥落となってしまった。それでも1922年5月場所で再入幕を果たすと順調に番付を上げていき、1925年1月場所では小結を通り越して一気に関脇へ昇進した。関脇では好成績が続き、1926年5月場所終了後に大関昇進が決定した。ちょうどこの頃に大坂相撲との東西合併が行われることになり、合併による番付の編成がやり直される事態が発生するが、能代潟は予定通り1927年1月場所において新大関となった。短躯だが前述のように怪力で腰が重く下半身も磐石で、腰を落として左四つで組んでから相手の一瞬の隙を突いて少しずつ土俵際へ寄って行く取り口だった。

大関昇進後の1927年10月場所は10勝1敗(優勝同点)、1928年3月場所では10勝1分で初優勝を果たすなど好成績の場所もあったが、前後の場所はいずれも負け越しに終わるなどムラが大きく、大関らしからぬ成績を残すことになった。その後も勝ち越しと負け越しを繰り返していたが、1930年5月場所では4勝7敗とまたも負け越したことでついに大関の座を陥落することとなった。1931年1月場所ですぐに大関復帰を果たすものの、勝ち越しても6勝5敗ばかりで、横綱昇進どころか大関の地位を守るほうが厳しい状況が続く。

同年5月場所10日目(1931年5月21日)では天竜三郎と対戦するが、引き分けを嫌って決着を勝負検査役へ申し出たことで、異例となる2日後(1931年5月23日)の中入り後・後半戦の開始前に再戦することが決まった。再戦では能代潟が吊り出しで敗れるが、天竜も能代潟も、その後に行われた正規の取り組み(能代潟は武藏山武戦、天竜は玉錦三右エ門戦)では既に力を出し切ってしまったことによる疲労から両者とも呆気なく敗れた。しかし、この両者の姿勢が敢闘精神とされて日本相撲協会から両者揃って特別表彰と金一封をもらった。

1932年1月6日春秋園事件が勃発した際は協会脱退組(革新力士団へ参入する力士)から勧誘されるが、「ワシは紙屑拾いになってでも師匠を養う。どんなことがあっても師匠の側に居るのだ」と発言して脱退組力士を追い返し、師匠を喜ばせた。この話は非常に有名で、のちに新国劇がこの一件を「錦島三太夫」として芝居にしたほどである。1933年1月場所では大関から再度陥落、このときには小結の地位に置かれ、これは大関が直接小結まで陥落した最後の例、また大関が勝ち越しながら関脇以下へ陥落した最後の例となっている。同年5月場所ではさらに平幕まで陥落するが、玉錦三右エ門から金星を奪うなど6勝5敗と勝ち越し、同年5月場所でも7勝4敗の好成績で関脇に返り咲いた。しかし、初土俵から21年目を数えるベテラン力士となっていたことで喘息神経痛に悩まされ、1936年5月場所(前頭7枚目)を全休したのを最後に現役を引退した。

引退後は年寄・立田山を襲名したのち、枩浦潟達也を引き連れて独立、立田山部屋を創立したが、1945年3月10日に発生した東京大空襲によって枩浦潟が戦災死したことで部屋を閉鎖、錦島部屋へ戻った。戦前~戦中まで大横綱だった双葉山定次には稽古を付けて指導したことで後々まで親交が深く、双葉山相撲道場が設立されると傘下に入って一門の相談役に就任した。

1961年に日本相撲協会へ停年制が導入されると、その時に停年退職、1973年6月8日に死去、78歳没。

人物[編集]

土俵に上がる、仕切り直す、水を含んで吐き出す、塩を撒く時に、力を入れて自身の廻しを叩く仕草を見せた。その叩き方が力のこもった音で、「ワシの強さを見よ」と言っているかのようだと伝わる。相撲を心から愛し、悠々たる態度は土俵態度・取り口として立派なものだった。

非常に几帳面で、飲酒しても自身で決めた一定量以上は、何があっても絶対に飲まなかった。

主な成績[編集]

  • 通算成績:292勝198敗10分5預43休 勝率.596
  • 幕内成績:230勝171敗9分1預43休 勝率.574
  • 大関成績:122勝104敗2分10休 勝率.540
  • 現役在位:48場所
  • 幕内在位:43場所
  • 大関在位:23場所
  • 三役在位:10場所(関脇7場所、小結3場所)
  • 優勝旗手:1回
  • 金星:1個(玉錦三右エ門
    • 大関陥落後に獲得。
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:1回(1928年3月場所)
    • 十両優勝:1回(1922年1月場所)

場所別成績[編集]

能代潟 錦作
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1915年
(大正4年)
幕下付出
1–4 
x 西序二段100枚目
3–0
2預
 
x
1916年
(大正5年)
西序二段50枚目
5–0 
x 西序二段5枚目
3–2 
x
1917年
(大正6年)
西三段目55枚目
2–2
1預
 
x 東三段目45枚目
3–2 
x
1918年
(大正7年)
西三段目22枚目
4–1 
x 西幕下39枚目
3–0
1分1預
 
x
1919年
(大正8年)
東幕下10枚目
4–1 
x 東十両9枚目
4–1 
x
1920年
(大正9年)
西十両筆頭
5–4 
x 東十両筆頭
5–5 
x
1921年
(大正10年)
西十両3枚目
5–2 
x 西前頭15枚目
0–0–10 
x
1922年
(大正11年)
西十両4枚目
優勝
7–1
x 東前頭14枚目
5–5 
x
1923年
(大正12年)
西前頭11枚目
7–2
(1分)
 
x 東前頭4枚目
7–1–1
(2分)
 
x
1924年
(大正13年)
東前頭筆頭
2–7
(1分)
 
x 西前頭6枚目
8–2
(1分)
 
x
1925年
(大正14年)
西関脇
6–3
(1分)(1預)
 
x 東張出関脇
8–2
(1分)旗手
 
x
1926年
(大正15年)
東関脇
8–3 
x 西関脇
8–3 
x
1927年
(昭和2年)
東大関
8–3 
東大関
4–1–6 
東大関
3–8 
西大関
10–1 
1928年
(昭和3年)
西張出大関
3–8 
東大関
10–0
(1分)
 
東張出大関
4–7 
東張出大関
9–2 
1929年
(昭和4年)
西張出大関
7–4 
西張出大関
4–3–4[1] 
西張出大関
8–3 
西張出大関
4–7 
1930年
(昭和5年)
西張出大関
5–6 
西張出大関
4–7 
西関脇
6–5[2] 
西関脇
8–3 
1931年
(昭和6年)
東張出大関
6–5 
東張出大関
4–7 
西張出大関
6–5 
西張出大関
6–5 
1932年
(昭和7年)
東大関2
3–5 
東大関2
5–5 
西張出大関
3–7
(1分)
 
西張出大関
6–5 
1933年
(昭和8年)
東小結
5–6 
x 西前頭筆頭
6–5
x
1934年
(昭和9年)
東小結
7–4 
x 東関脇
5–6 
x
1935年
(昭和10年)
東前頭筆頭
4–7 
x 東前頭5枚目
8–3 
x
1936年
(昭和11年)
西張出小結
0–0–11[3] 
x 東前頭7枚目
引退
0–0–11[3]
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 1923年5月場所の1休は相手力士の休場によるもの

脚注[編集]

  1. ^ 喘息により2日目から途中休場、7日目から再出場
  2. ^ 関脇陥落
  3. ^ a b 喘息・神経痛により全休

関連項目[編集]