藤原北家

藤原北家
家紋
下り藤(代表的な家紋
※ 各、藤原氏によって異なる。
本姓 藤原朝臣
家祖 藤原房前
種別 神別天神
出身地 大和国
主な根拠地 大和国
山城国
著名な人物 藤原冬嗣
藤原良房
藤原基経
藤原時平
藤原敦忠
藤原道綱母
藤原伊尹
藤原義孝
藤原佐理
藤原行成
藤原公任
藤原実方
藤原道雅
藤原定頼
藤原家隆
藤原道長
藤原頼通
藤原基俊
藤原定方
藤原朝忠
藤原忠通
藤原定長
藤原敦頼
藤原清輔
藤原長方
伊勢
紫式部
殷富門院大輔 など
支流、分家 五摂関家公家
松殿流(公家)
閑院流(公家)
日野流(公家)
四条家(公家)
中御門流(公家)
勧修寺流(公家)
御子左流(公家)
魚名流(公家)
世尊寺流(公家)
花山院流(公家)
法性寺流(公家)
小野宮流(公家)
小一条流(公家)
水無瀬流(公家)
道綱流(公家)など
凡例 / Category:日本の氏族

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が、藤原南家の祖である兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。

概要[編集]

藤原北家は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期~平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手魚名左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱連座して失脚したこともあり、南家式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房清和天皇の、そしてその養子(甥)基経朱雀天皇村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流藤氏長者摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家道兼流宇都宮氏小田氏長家流那須氏勧修寺流上杉氏山蔭流伊達氏利仁流斎藤氏加藤氏秀郷流奥州藤原氏藤姓足利氏小山氏結城氏佐野氏小野崎氏など、主に関東北陸東北に勢力基盤をもった多くの武家氏族が藤原北家の末裔と称した。また、土佐一条氏伊予西園寺氏飛騨国司姉小路家なども北家の裔にあたる。

一族[編集]

嫡流[編集]

主な傍流[編集]

ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など)。

系譜[編集]

凡例 太線は実子。(なお、嫡流を書き連ねることとし、傍系は下記の系図の下に記載する。また養子はあえて記載せず。) 

北家本流(摂関家流)[編集]

魚名流[編集]

利仁流[編集]

  →(斎藤氏#藤原北家利仁流斎藤氏を参照のこと) 

山蔭流[編集]

末茂流(六条藤家、善勝寺流、四条家流)[編集]

秀郷流[編集]

兼光流[編集]

房前裔諸流[編集]

楓麻呂流[編集]

真永流[編集]

真夏流(日野流)[編集]

  →(日野家を参照のこと) 

内麻呂裔諸流[編集]

長良流(法性寺流)[編集]

良門流[編集]

  →(勧修寺流を参照のこと) 

高藤流(勧修寺流)[編集]

  →(勧修寺流を参照のこと) 

冬嗣裔諸流[編集]

時平流[編集]

実頼流(小野宮流)[編集]

  →(小野宮流を参照のこと) 

師尹流(小一条家流)[編集]

伊尹流(世尊寺流)[編集]

  →(世尊寺家を参照のこと) 

兼通流[編集]

為光流[編集]