藤原資季

 
藤原資季
時代 鎌倉時代前期 - 後期
生誕 承元元年(1207年
死没 正応2年1月20日1289年2月11日
改名 資季→了心(法名)
別名 二条
官位 正二位権大納言
主君 後鳥羽上皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原北家道綱流楊梅庶流
父母 父:藤原資家 (従三位)、母:九条光長
資氏
養子:資高藤原資藤、女子(大炊御門冬忠の室か[1]
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藤原 資季(ふじわら の すけすえ)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿二条資季とも。藤原北家道綱流、藤原資家 (従三位)の長男。官位正二位権大納言二条と号す。

経歴[編集]

承元元年(1207年)、従三位藤原資家の息男として誕生。

母は参議九条光長の娘(宜秋門院帥)。琵琶で名高い二条大納言藤原定能の孫。歌人として知られる内大臣衣笠家良は定能の娘が母であり、資季とは従兄弟同士である。

子・資氏弘安7年(1284年)に病により出家したので、孫・資高を子として跡を継がせたという[2]

日記『荒涼記』(資季卿記)を残した。残欠日記である『荒涼記』(資季卿記)は延応2年から正元元年までの記事が部分的に残っており、改元の際の勘申の様子や亀山天皇即位時の様子などが詳しく記されている。

官歴[編集]

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

『徒然草』第135段の資季[編集]

資季は『徒然草』第135段に登場する。「お前が質問してくる程度のことだったら、何でも答えてやろう」と源具氏に持ちかけたところ、『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう』というなぞなぞを問いかけられた。この難問に答えられず歯ぎしりしてしまう様が描かれていて、資季は具氏にごちそうをふるまうことになったのである。資季は具氏に「わぬし」と声をかけており、比較的親しい関係であったと推測できる。資季は具氏の父通氏よりも少し年長なのである。

資季の母[編集]

資季の母は九条光長女とされているが、『尊卑分脈』甘露寺家の系譜を見ると、海住山長房の子女の中に藤原資家の室となり藤原資季の母となった女子の記述がある。いずれが正しいか検討の余地がある。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『尊卑分脈』大炊御門家の系譜では大炊御門冬忠の息男冬輔の注記に生母が藤原資季の女とある。
  2. ^ 『尊卑分脈』道綱流二条家の項。
  3. ^ 嘉陽門院合爵
  4. ^ 父資家が中将を止めて挙任。
  5. ^ 寛元4年に春日大社への行幸に奉仕した賞。
  6. ^ 『尊卑分脈』によれば信覚とする説もある。

出典[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 暦仁元年(1238年)に資季が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「藤原資季」の項。
  • 新訂『徒然草』、西尾実・安良岡康作 校注、岩波文庫
  • 増鏡』全訳注、井上宗雄、講談社学術文庫
  • 荒涼記』(資季卿記)(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)