蟹工船

  1. 工船漁船のうち、水産物を缶詰などに加工する設備を船内に有するもの)のうち、缶詰の製造を目的にするもの。本記事の「現実の蟹工船」で詳述する。
  2. 小林多喜二小説。1.が作中の舞台となっている。本記事の「蟹工船(小説)」で詳述する。

現実の蟹工船[編集]

実際の蟹工船。「北洋の監獄部屋[1]」、「監獄船[2]」、「地獄船[3]」、「海のタコ部屋[3]」などと呼ばれていた。

蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。八木亀三郎率いる八木商店は蟹工船で大きな利益を上げ愛媛県で一番の高額納税者になった。

夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。

1926年大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している[4]。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何か月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた。

小説発表後も1930年昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件も起きている[5]。1930年9月19日の出漁中、漁夫に20時間労働を強制し、死者十数人を出した蟹工船エトロフ丸が函館に入港し、首謀者が検挙された。富山県警察部の取り調べでは、虐殺の事実はないものの漁夫、雑夫に暴行を加えた事実はあったこと。死亡者は16人、罹病者は約130人(主に胃腸病、脚気)であったことが発表されている[6]。なお死亡診断書を書いていた船医は無資格者であることが判明し、後に医師法違反で起訴、略式命令で罰金200円に処された[7]

1929年(昭和4年)頃から蟹缶詰の生産量が余剰になり始めた。1929年には4隻だったソビエト連邦の蟹工船が1930年(昭和5年)には10隻に増え、日本も生産量が増え続けた結果、同年には大量の売れ残りが発生して市場価格が下がった悪影響で経営環境が悪化した。1931年(昭和6年)には業界全体で減産を決めたが守られず過剰生産による価格暴落により赤字を出すことになり、1932年(昭和7年)1月29日に日本で蟹工船を運用していた日本工船、昭和工船、東工船、林兼の四社が合併して日本合同工船株式会社が設立され蟹工船は単一企業が運用するようになった。日本合同工船株式会社は1936年(昭和11年)に共同漁業(現在のニッスイ)に吸収合併された。[8]その後、戦争により1938年(昭和13年)を最後に1953年(昭和28年)まで中断期間に入った。

蟹工船形式の操業は1953年から再開している、1970年代200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。

漁業の許可に関しては1923年の大正12年3月13日農商務省令第5号工船蟹漁業取締規則[9]による規制を受ける許可制であった。1934年(昭和9年)からは農林省令第19号母船式漁業取締規則[10]の適用を受け、戦後は蟹工船が再開される直前に出された昭和27年農林省令第30号母船式漁業取締規則[11]の適用を受けた。これらの法規は漁業許可に関する物で労働環境については何も定めていない。

戦後に労働基準法ができた後も蟹工船の労働者は労働基準法第41条第1号の労働時間・休憩・休日規定の適用が除外される労働者として扱われ、労働基準法の適用を受けられるようになるには1968年の昭和43年運輸省令第四十九号「指定漁船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令」まで待たなければならなず、蟹工船の労働者は終焉直前まで工場法の適用を受ける工員でもなければ船員法の適用を受ける船員でもなく労働基準法の適用を受けない漁師として扱われていた。

ソビエト連邦の蟹工船[編集]

ウラジオストクに停泊しているブシェボロド・シビルツェフ
ウラジオストク港に停泊しているソドルジェストボ

ソビエト連邦(ソ連)における蟹工船は日本からの技術移転によって始まった漁業コルホーズの一つだった。

蟹の缶詰だけを生産しているわけではないが、日本の蟹工船の技術移転によって始まった経緯からソ連では洋上工場全般を蟹工船(краболов)と呼んでいた。

1928年2月にドゥドニク、アレクサンドル・イグナチエビッチが大阪に来て日本の船「大洋丸」を35万ルーブルで買い取り第一蟹工船«Первый краболов»[12]と命名されソ連で初めての蟹工船になった。第二次大戦後にアレクサンドロフ・アキモビッチ・イシュコフ水産大臣が主導して大型カニ缶工場(Большая крабо-рыбоконсервная плавбаза)という船の建造計画を立ち上げ、1971年12月30日に世界最大の蟹工船であるボストーク(Р-743Д Восток)が完成した。ボストークは排水量:32,096トン、全長:179.2m、乗組員:600人、14隻の小型漁船と2機のヘリコプターを運用でき、カニ缶詰を1日25万缶生産できる能力を持っていた[13]。この船はウラジオストクを母港として日本の蟹工船の漁場と隣接するソ連の領海で操業していた。その後1988年から1989年にかけてフィンランドの造船所で大型蟹工船「ソドルジェストヴォ」「ピョートル・ジトニコフ」「フセヴォロド・シビルツェフ」が建造されウラジオストクを母港として極東地域で操業されている。

これらの蟹工船はソ連崩壊後はペレストロイカによる民営化で誕生したウラジオストクにある水産会社ダリモレプロドクトが保有していたが、ソドルジェストヴォは2013年12月3日に売却され、中国で解体された。

ソ連では蟹工船と同様のニシン、タラ、キャビアなどの缶詰を製造する工船も建造して運用している。食料品以外にも海産物からリンと窒素が豊富な魚粉肥料を調達する役目も担っていた。

ソ連では、農業生産と牧畜生産に失敗して食糧難になっていた時代でも、水産資源の生産には比較的余裕があったため魚を食べることが推奨された。そのため内陸部まで運べる魚の缶詰の生産が奨励され、輸出商品としても価値の高い蟹缶詰を生産する蟹工船への期待は非常に大きかった。蟹工船の成功は、イシュコフ水産大臣が長期間にわたって権力を維持する原動力になっていた。このため、蟹工船の労働者の中にはソビエト連邦共産党から表彰された人物も多く、イグナチエビッチのようにレーニン勲章を授与された船長もいる。ソ連で優れたプロレタリアートとして共産党から表彰された者は、日本の文学の中で悪として描かれた、労働者を虐待して過酷な労働を強いてノルマを達成させた監督側の人々だった。

バルト海でニシン、タラ工船として活動した船は、東ドイツロストックにあるネプチューン造船所で建造され、1945 - 1955年の戦後復興期にソ連からの投資により東ドイツの造船業を6倍以上の規模に急成長させている。

蟹工船(小説)[編集]

蟹工船
著者 小林多喜二
発行日 1929
発行元戦旗』5月号(pp. 141-171)・6月号(pp. 128-157)
ジャンル 中編小説
日本
言語 日本語
形態 文芸誌
ページ数 61
コード ISBN 978-4-10-603631-6
ウィキポータル 文学
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蟹工船』(かにこうせん)は、文芸誌戦旗』で1929年昭和4年)に発表された小林多喜二の小説である。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されている。

1929年3月30日に完成し、『戦旗』5月号・6月号に発表。「昭和4(1929)年上半期の最高傑作」と評された[14]。『蟹工船』の初出となった『戦旗』では検閲に配慮し、全体に伏字があった[15]。6月号の編が新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分[15]。1930年7月、小林は『蟹工船』で不敬罪の追起訴となる。作中、献上品のカニ缶詰めに対する「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」という記述が対象であった[16]戦後1968年、ほぼ完全な内容を収めた『定本 小林多喜二全集』(新日本出版社)が刊行された。

この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。

あらすじ[編集]

おい地獄さ行(え)ぐんだで!

蟹工船とは、戦前にオホーツク海カムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。

蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法[注釈 1] は適用されず、危険な老朽船を改造して投入された。また工場でもないので、労働法規も適用されなかった[注釈 2]

そのため蟹工船は法規の空白域であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。

情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。ある時転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで、労働者達は異国の人も同じ人間と感じるようになり、中国人の通訳も通じ、「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と知らされるが、船長がそれを「赤化」とみなす。学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記録」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕され、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切る。

再脚光[編集]

再脚光のきっかけは作者の没後75年にあたる2008年平成20年)、毎日新聞東京本社版1月9日付の朝刊文化面に掲載された高橋源一郎雨宮処凛との対談といわれる[17][18]。同年、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が古典としては異例の40万部が上半期で増刷され例年の100倍の勢いで売れた。5月2日付の読売新聞夕刊一面に掲載[19]。読者層は幅広いが、特に若年層に人気がある[20]毎日新聞等では、日本共産党党員が近年増加しているのは蟹工船等の影響もあるのではないかと論じられた[21]。2008年の新語・流行語大賞で流行語トップ10に「蟹工船(ブーム)」が選ばれた[22]2006年(平成18年)以降、イタリア語版、韓国語新訳版、台湾からの中国語新訳版、大陸での中国語旧訳再版、「マンガ蟹工船」と合本の中国語新訳版、フランス語版、スペイン語版などが各地で出版されている。

舞台版[編集]

漫画版[編集]

画像外部リンク
マンガ蟹工船を閲覧する
「マンガ蟹工船」 - 白樺文学館 多喜二ライブラリー (作画: 藤生ゴオ、解説: 島村輝)

映画[編集]

映画『蟹工船』の山村聡。

1953年[編集]

山村聡主演・初監督の作品。1953年(昭和28年)9月10日に公開。芸術祭参加作品。

製作[編集]
出演者[編集]

2009年[編集]

映像外部リンク
YouTube
映画「蟹工船」SABU監督インタビュー (EnterJam、2010年2月10日)
「蟹工船」で映画初出演、お笑いコンビTKO語る (朝日新聞社、2009年7月1日)

2009年平成21年)7月4日に公開。DVDは2010年(平成22年)1月21日発売。

主題歌はNICO Touches the Wallsの「風人」。

スタッフ[編集]
キャスト[編集]

読書感想文(2008年)[編集]

2007年(平成19年)、白樺文学館主催で蟹工船の読書感想文コンテストが行われた。特色として、漫画版の感想文でも可とした点、当時話題となっていた「ネットカフェ難民」に因みインターネットカフェからの感想文応募部門が設けられた点が挙げられる。2008年(平成20年)2月20日に小樽で授賞式が行われた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 航海法という法律は小説内の創作で、日本には存在しない。また船舶安全法が出来たのは作者の死後である。
  2. ^ 当時、労働者保護法制として工場法がかろうじて存在はしていたが、同法は(仮に適用されたとしても)成人男子に対する就業時間制限すらないなど、戦後の労働基準法と比較して著しく低い保護水準であった。

出典[編集]

  1. ^ 第3回 蟹工船(小林多喜二著)”. 小説を旅する. 北海道マガジン「カイ」 (2016年7月6日). 2017年3月27日閲覧。
  2. ^ 今西一『蟹工船』とマイノリティ」『小樽小林多喜二国際シンポジウム報告集』2012年、211-220頁、NAID 120005255455 
  3. ^ a b 臥牛山”. 函館新聞電子版 (2008年6月). 2017年3月27日閲覧。
  4. ^ 「高谷幸一さんの話」宇佐美昇三『蟹工船興亡史』凱風社、2013年、100頁
  5. ^ 函館市史デジタル版 > 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 > 蟹工船事件 - 函館市/函館市中央図書館(更新日不明)2018年2月1日閲覧
  6. ^ 「富山県警察本部が調査結果を発表」『東京朝日新聞』1930年9月27日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編 毎日コミュニケーションズ、1994年、p.40に転載)
  7. ^ 「船医が医師法違反で罰金刑に」『東京朝日新聞』1930年12月5日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編 毎日コミュニケーションズ、1994年、p.41に転載)
  8. ^ 『伊予が生んだ実業界の巨人 八木龜三郎』創風社出版、2019年6月25日、213頁。ISBN 978-4860372767 
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『官報』”. 国立国会図書館. 2022年11月5日閲覧。
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『官報』”. 国立国会図書館. 2022年11月5日閲覧。
  11. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『官報』”. 国立国会図書館. 2022年11月5日閲覧。
  12. ^ Крабоконсервный завод "Первый Краболов"”. 2022年9月24日閲覧。
  13. ^ カニ魚缶詰母船ボストーク”. 2022年1月25日閲覧。
  14. ^ 155・小林多喜二『蟹工船』 - 安曇野を歩く”. 市民タイムス. 2017年3月27日閲覧。
  15. ^ a b 大滝則忠 (2011年2月18日). “4.発禁本の現在を探して 小林多喜二著『蟹工船』の場合”. 千代田図書館トークイベント 戦前期の発禁本のゆくえ. NPO法人 神田雑学大学. 2017年3月27日閲覧。
  16. ^ 弁護士会の読書:小林 多喜二”. 福岡県弁護士会 (2008年10月30日). 2017年3月27日閲覧。
  17. ^ プロレタリア文学:名作『蟹工船』異例の売れ行き(毎日新聞、2008年5月14日付) - 毎日jp(毎日新聞)[リンク切れ]
  18. ^ 週刊現代、2008年6月7日号 48頁-49頁
  19. ^ 「蟹工船」悲しき再脚光 異例の増刷、売り上げ5倍 (読売新聞・本よみうり堂・出版トピック、2008年5月2日付)[リンク切れ]アーカイブ 2008/05/11
  20. ^ 「蟹工船」重なる現代 小林多喜二、没後75年朝日新聞、2008年2月14日付)、今、若者にウケる「蟹工船」 貧困に負けぬ強さが魅力? (朝日新聞、2008年5月12日付)、【断 佐々木譲】蟹工船の次に読むもの産経新聞、2008年5月25日付)[リンク切れ]アーカイブ 2008/05/29
  21. ^ 共産党:新党員2万人確保 中央委総会で方針(毎日新聞、2008年7月13日付)[リンク切れ]共産党、新規党員増加 「蟹工船」「資本論」ブームで? (産経新聞、2008年8月3日付)[リンク切れ]アーカイブ 2008/08/06
  22. ^ “08流行語大賞/「蟹工船」入賞/名ばかり管理職・後期高齢者も”. しんぶん赤旗. (2008年12月2日). https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-02/2008120201_02_0.html 
  23. ^ 白樺文学館多喜二ライブラリー 『マンガ蟹工船』を無料公開!! 2007年9月27日

外部リンク[編集]