誘拐 (小説)

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誘拐
著者 高木彬光
発行日 1961年
発行元 光文社
ジャンル 推理小説
日本の旗 日本
言語 日本語
前作 破戒裁判
次作 追跡
ウィキポータル 文学
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誘拐』(ゆうかい)は、高木彬光の長編推理小説。百谷泉一郎弁護士シリーズの代表作。雑誌『宝石1961年昭和36年)3月号から7月号にかけて連載され、8月に光文社より単行本化された。

概要[編集]

本作は、百谷泉一郎弁護士と明子夫人のシリーズとしては通算3作目にあたり、結婚後の物語としては2作目にあたる。ただし、2作目『破戒裁判』が書き下ろしで発表されたのは1961年6月なので、両者の結婚後の描写が最初に掲載された作品である[1]

本作の誕生にはかなりの苦渋と難航のあとが見られる。前年の秋から数か月、連載予告が掲載されていたが、果たせず、「愚作を書くつもりで初めては」という江戸川乱歩の励ましによって、ようやく筆をとることができたという。その際に作者の念頭にあったのは、犯人を「彼」と記述するアイデアのみであった[2]

本作発表の前に、高木彬光は雅樹ちゃん誘拐殺人事件の審理を、初回をのぞいて毎回傍聴している。この事件は1960年5月16日に発生したもので、この種の捜査とマスコミ報道のありかたに大きな波紋を投げかけた。作品の「第一部」で「彼」が傍聴している裁判は、この事件をモチーフに描かれている[3]。そのため、本作は、誘拐事件を扱ったものであると同時に、法廷小説の側面も見せている。

著者である高木彬光はこの作を単行本として刊行した際に、以下のような言葉を添えている。

私は、本格派とか、社会派とかいう世間の分類に一種の疑惑を感じている。作者は本来、自分のもっとも興味を抱いているテーマに、はじめて情熱を傾けられるのだ。ここで私は『誘拐』という犯罪を徹底的に描き出そうと思っただけである。だから、この作品は、社会派的か、サスペンス派的かわからない。ただ私はこの一作に、推理小説の技巧と情熱のすべてをつぎこめたような気がする。その意味で、この作品は、私にとっても会心の作といえるであろう。

著者の、自身に課せられた「本格派」から脱皮すると同時に、流行を極めつつあった「社会派」にも飽きたらず、両派を超越しようとする気魄を持って、この作を記したことが窺われる一文である[4]

あらすじ[編集]

戦史マニアの「彼」は、犯罪を計画していた。その参考となる事例として、木村事件という現実の「誘拐」事件があり、犯人逮捕によって失敗に終わったその事例から、「彼」は自分の犯罪への教訓を得ようと、毎回裁判傍聴に通うことにした。

期せずして、目黒区駒場町の井上家にて8歳の一人息子が誘拐される。井上家は金融業を経営しており、誘拐された子供は、井上雷蔵と、年の離れた後妻、妙子との息子、節夫であった。早速捜査本部が設置され、犯人からの電話の探知が行われるが、その中で井上家のさまざまな問題が発覚してゆく。犯人逮捕の最大のチャンスが、身代金引き渡しの瞬間とにらんだ捜査陣は、その瞬間を狙おうとするが、偶然に近いような僥倖が犯人に味方し、出し抜かれてしまう。

新進気鋭の弁護士、百谷泉一郎はあるきっかけで、この事件に関与するようになる。事件解決のために、泉一郎・明子夫妻のとった奇抜な手段とは、そして、誘拐事件の真相とは?

登場人物[編集]

  • 「彼」 - 戦史マニアで、犯罪を計画している。
  • 木村繁房(山本五郎) - 30歳。誘拐事件を目論見、失敗して逮捕され、裁判にかけられている。
  • 井上雷蔵 - 67歳。「井上金融」という金融業を営んでいる。
  • 井上妙子 - 33歳。雷蔵の後妻。
  • 井上節夫 - 井上雷蔵・妙子の一人息子。
  • 井上卓二 - 雷蔵の腹違いの弟。
  • 島崎光子 - 井上家の女中。妙子の妹。
  • 島崎もと子 - 妙子・光子の母親。
  • 広津保富 - 光子の婚約者。百谷の友人。
  • 河守良夫 - 「井上金融」の社員。
  • 谷岡友義 - 「井上金融」の社員。身代金運送役。
  • 朝比奈隆一 - 雷蔵の秘書。
  • 丸根(米村)欽司 - 雷蔵・卓二の再従兄弟。「井上金融」の金を横領して、解雇される。
  • 岡山敏雄 - 建築設計家。欽司の友人。
  • 丘たみ子 - 岡山敏雄の恋人の一人。犯人の罠にかかる。
  • 原浩一 - 画家。欽司の友人。妙子の友人でもある。
  • 浦上正太郎 - 「電話魔」。
  • 時田英子 - 雷蔵の愛人。
  • 水野志津子 - 雷蔵の愛人。
  • 森山敏孝 - 警視庁の捜査一課長。
  • 榎本詮三 - 警視庁の捜査一課の警部補。
  • 宮下 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 菊池 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 深谷 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 加田 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 須藤 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 加藤 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 矢田部 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 千葉 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 今井 - 警視庁の捜査一課の刑事。
  • 百谷泉一郎 - 弁護士。運命論者。
  • 百谷明子 - 旧姓大平。兜町で「女将軍」の異名を持つ。愛称は「ペリ」。
  • 島源四郎 - 「東邦秘密探偵社」[5]の調査部長。
  • 丹下辰夫 - 弁護士。

評価[編集]

推理評論家の中島河太郎は、この作品の犯人が、裁判の傍聴や先例の研究をしておきながら、民事の法律を知らなかった点を批判しており、法律の研究をするならば六法全書を知らなかったということはあり得ないと述べている[6]。これに対し、作者の高木彬光は、以下のように反駁している。

とにかく、批評家のいうことはおかしいですね。たとえば『誘拐』の批評で「これだけ完全犯罪をねらっているのに、民法を勉強しなかったのは、どういうわけだ。読者を馬鹿にしている」とか「法律は六法全書から勉強するはずだ」とかいう批評があったでしょう。

しかし、たとえば検事なら、民法の知識はあまりくわしくありませんよ。弁護士でも、輪姦の場合は被害者の親告を必要としないという基本的な知識を知らなかった例があるんです。(略)
法律を専門に勉強した人間でなければ、どうしても知識はかたよるでしょう。必要なところばかり調べますからね。それをこんな批評をするのは、逆に読者を馬鹿にするものですよ。だいたい、法律を勉強するのも、解説書から入るのがほんとうでしょう。たとえば英語を勉強するとき、英和辞典の研究から入ろうとする阿呆がいますかねえ。
あの作品では、告発する側にトリックがあるでしょう。百谷泉一郎も最初は、そこに気がついていないのですが、批評家は「犯人が何ともいわないのはおかしい」と決めつけるでしょう。
しかし、あそこまで行ったなら、検事は何の躊躇もなく起訴するでしょうね。そういう言分を持ち出せるのは、自分の裁判にならなければ機会がないじゃありませんか。

まあ、作者にしても、人間のことだから、ミスをしていることもあるでしょうが、こういう風に、こっちがそれ以上調べていることを、なまはんかの知識で妙なことをいい出すから、批評家の権威を疑いたくなるのです。

文芸評論家の平野謙は、この作に以下のような推奬文を記している。

……巷間でいうところの(社会派)松本清張以後という新機運に再会して……困惑したのは、本格派の既成作家ではなかったと思う。……むろん、松本清張以後にも仁木悦子戸板康二のような本格的な作風を守る人もあり、鮎川哲也日影丈吉(明治四十一年~)のような自己の円熟した作風を定着した人もいる。しかし、それらのなかでもっとも注目すべきは高木彬光だろう。『人蟻』『白昼の死角』『破戒裁判』『誘拐』とつづく彼の新生面打開の努力だろう。それは一応社会派の作風に屈服したかにみえて、かえって社会派的題材を包摂することによって、新しく本格派の作風をよみがえらせた過程といってもいいだろう。なかでも『破戒裁判』、『誘拐』の二長編は、ガードナーなどとはちがった意味で、法廷推理小説に先鞭をつけた注目すべき作である。ことに近作『誘拐』は雅樹ちゃん殺しの本山事件の公判を傍聴して、その失敗を教訓としながら完全犯罪を目ろむ一犯人の物語で、最近の秀作といっていいだろう。おなじく誘拐事件を題材にした佐野洋の『完全試合』とよみくらべても、真犯人が読者にわかってから、なお二重三重の底がかくされている点など、さすがに本格派らしい厚みをたたえている。ただ大岡昇平も指摘しているように、事件解決のために即座に百万円の出費を決意するようなめぐまれた弁護士は、現実にはいないだけである。そこに高木の近作の根本的な反リアリズムがあるが、『誘拐』のような秀作になると、それも大して気にはならぬのである[7]

これに関連して、著者である高木彬光は朝日新聞のインタヴューに答えて、以下のように語っている。

私が、こうしたリアリズムをめざすのは、これまでロマンチシズムにいきすぎていたからです。日本の推理小説は大体そうで、横溝正史さんの『獄門島』などがロマンチシズムの限界までいった、と思うんです。それから推理小説はリアリズムに移行しますが、松本清張物はまずリッパとしても、亜流のリアリズムだけという作品が横行してはね。またロマンチシズムに帰るんじゃないですか。
私のリアリズムも、あと三、四作でおしまいでしょうよ。アレだって、ガマンにガマンを重ねてリアリズムで押し通そうとしても、結局第四章で本心が出ちまってます。私には神がかりなところがあるもんでね。どうしても……。[8]

前述の中島河太郎は、上記の著者の言葉を、記者の筆録だから委細を伝えているかどうかは分からないが、滔々たる社会派的傾向を万能とせず、その良いところを採用しつつ、なお、本格物の真骨頂を読者に認識させたいとする覇気に満ち溢れていると評している[4]

高木彬光の作品系列において、『刺青殺人事件』を一つの峰とするならば、『誘拐』は二つ目の峰であるといえる。この2つの峰は決して本格派から社会派への転向を意味するものではなく、谷間における模索と実験の過程は、上記の平野謙の見解のように、新しい本格派の作風を生み出すためであり、より高位な段階を窺うためのステップであったとみることもできる、と有村智賀志は述べている[9]

映画[編集]

1962年2月4日公開。93分。配給は大映

スタッフ[編集]

監督:田中徳三、脚本:高岩肇、企画:塚口一雄、撮影:小林節雄、美術:仲美喜雄、音楽:塚原晢夫、録音:西井憲一、照明:渡辺長治、スチル:宮崎忠男

キャスト[編集]

百谷泉一郎:宇津井健、百谷明子:万里昌代、井上庄蔵:小沢栄太郎、井上妙子:中田康子、井上卓二:川崎敬三、島崎光子:渋沢詩子、山本稲:倉田マユミ、山本定夫:当銀長次郎、広津保富:大瀬康一、朝比奈:友田輝、谷岡:春本富士夫、河守:中田勉、森山課長:伊東光一、榎本警部補:高松英郎、深谷刑事:原田玄、矢田部刑事:藤山浩二、加藤刑事:此木透、宮下刑事:小原利之、今井刑事:井上信彦、菊地刑事:石井竜一、須貝刑事:網中一郎、原浩一:北原義郎、岡山敏雄:片山明彦、丸根欽司:村上不二夫、丘たみ子:八潮悠子、荒巻裁判長:遠藤哲平、高岡検事:根上淳、木村繁房:杉田康、尾山たか:瀧花久子、尾山敏幸:仲村隆、時田英子:市田ひろみ、近藤巡査:花野富夫、吉田:飛田喜佐夫など

脚注[編集]

  1. ^ 同様の例としては、江戸川乱歩の『魔術師』が『講談倶楽部』誌連載中に、『黄金仮面』の連載が『キング』誌で始まり、後者の方に明智小五郎の開化アパートの住居の描写が先に掲載された、というのもある。
  2. ^ 角川文庫『誘拐』解説、1973年、文-夏樹静子
  3. ^ 光文社文庫『誘拐』解説、1994年、文-山前譲
  4. ^ a b 光文社『高木彬光長編推理小説全集8 誘拐・失踪』「解説」1973年、文-中島河太郎。
  5. ^ 作品によっては、「東京秘密探偵社」になっている(『破戒裁判』など。七作目『脅迫』では『誘拐』と同じ「東邦秘密探偵社」になっている。)。
  6. ^ 『宝石』「今月の創作評」座談会・昭和36年
  7. ^ 毎日新聞・昭和36年8月21日刊より
  8. ^ 朝日新聞・昭和36年9月15日より
  9. ^ 『ミステリーの魔術師 高木彬光・人と作品』北の街社より「第6章 社会派推理への挑戦」p216

外部リンク[編集]