遠山直道

遠山 直道
名前
カタカナ トオヤマ ナオミチ
ラテン文字 TOYAMA Naomichi
基本情報
生年月日 1925年12月3日
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府
没年月日 (1973-03-05) 1973年3月5日(47歳没)
フランスの旗 フランス ナント
選手情報
ポジション FW
ユース
府立高校
1944-1948 東京帝国大学 / 東京大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1946 東大LB
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

遠山 直道(とおやま なおみち、1925年12月3日 - 1973年3月5日)は、東京府出身の実業家、サッカー選手。ダヴィッド社社長、日興證券(現:SMBC日興証券)副社長、日本出版クラブ評議員を歴任した。

人物・経歴[編集]

日興證券創業者の遠山元一の三男。旧制府立高校時代よりサッカー選手としてプレーし、1944年東京帝国大学経済学部に入学した[1]。なお、入学当初は太平洋戦争中でサッカーを禁止されていた時期であり、ア式蹴球部(サッカー部)の活動は出来ない有様であったが、戦後ア式蹴球部を復活させて主将も務めた。なお、遠山は兵役は免れたとされる[1]。1946年5月に開催された復興第1回全日本サッカー選手権大会東大LBの一員として優勝した。

1948年に大学を卒業し、同年ダヴィッド社を創立し、社長に就任。1954年11月、日興證券に入社して取締役秘書役。同年、新東宝映画『美しい人』(三好十郎原作)を製作。1955年12月、日興證券債権部付となった。その後、常務および専務を経て、1966年に日興証券の副社長に就任。将来は日興証券の社長に就くと目されていた[2]。また、1965年度に日本青年会議所の会頭(任期1年)を務めた。

1973年3月5日、マヨルカ島からロンドンに向かうためにイベリア航空504便(DC-9-30、機体記号EC-BII)に搭乗中にフランスナント上空で衝突事故(1973年ナント空中衝突事故)に遭遇して死亡した[2]

1974年、ダヴィッド社から追悼本『遠山直道』(遠山直道追想録刊行会編)が刊行された。

家族[編集]

妻の美代子は中央信託銀行会長日本銀行第24代大阪支店長を務めた白根清香の三女、音楽評論家遠山一行が長兄、指揮者遠山信二が次兄に当たる。また、3人の子がおり、長男は慶應義塾大学准教授の遠山元道、次男は実業家遠山正道である。

脚注[編集]

  1. ^ a b 東大サッカー部誌第三号 (PDF) 」p.91-92、1974年、2014年9月30日閲覧
  2. ^ a b 毎日新聞夕刊、1973年3月6日、2016年6月17日閲覧