(ぎょう)は、中国の歴史的地名。後趙冉魏前燕東魏北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市安陽県にまたがっている。

概要[編集]

春秋時代桓公が城塞都市を建設したのが始まりとされる。戦国時代にはに属し、『史記』で知られる西門豹が治め、黄河漳河から運河を引く灌漑の大事業を行い大いに栄えた。紀元前239年に魏は鄴をに割譲する[1]。しかし、紀元前236年の将軍の王翦桓齮楊端和らが攻略して以降は秦の領地となる[2]

後漢末期から軍事的に重要となり、群雄の一人の袁紹の本拠地であったが、204年建安9年)に曹操が侵攻して拠点となり、後に曹操が魏公に任ぜられると魏国の国都と定め、銅雀台などの壮麗な宮殿を造営した。王朝成立後は首都は洛陽に移ったが、その後も魏の主要都市として発展し、南北朝時代には再び国都になった。

北魏から分裂した東魏を建国させた権臣の高歓は鄴を都に定め、540年興和2年)頃に新しい宮殿が完成した。高歓の子の高洋が建国した北斉でも引き続き都となった。

北斉が北周に滅ぼされたあと、580年大象2年)には尉遅迥が帝位を簒奪する勢いの楊堅に反抗して挙兵、鄴に拠って抗戦したが敗北、その後、鄴城は焼き払われた。

河北省邯鄲市臨漳県に遺跡が残る。2.4km×1.7kmに及ぶ大城址であり、民国時代から調査されていたが、1983年に大規模な発掘調査が行なわれ、城壁や街路など当時の都市設計の概要が明らかになっている。1988年に鄴城遺址は全国重点文物保護単位に指定された。

脚注[編集]

  1. ^ 司馬遷史記』「趙世家」悼襄王六年
  2. ^ 司馬遷『史記』「六国年表

関連項目[編集]