金子堅太郎

金子 堅太郎
かねこ けんたろう
生年月日 1853年3月13日
嘉永6年2月4日
出生地 日本の旗 日本筑前国早良郡鳥飼村
(現:福岡県福岡市中央区鳥飼
没年月日 (1942-05-16) 1942年5月16日(89歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府
出身校 修猷館
ハーバード大学
称号 従一位
大勲位菊花大綬章
伯爵
配偶者 金子弥寿子
子女 長女:川崎キヨ
長男:金子武麿
次女:金子文子
次男:金子直忠
親族 父:金子直道
娘婿:川崎肇
妹婿:團琢磨

日本の旗 第10代 司法大臣
内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年10月19日 - 1901年6月2日

日本の旗 第14代 農商務大臣
内閣 第3次伊藤内閣
在任期間 1898年4月26日 - 1898年6月30日
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金子 堅太郎[1](かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日1853年3月13日〉 - 1942年昭和17年〉5月16日[2])は、日本官僚政治家大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵

概説[編集]

大日本帝国憲法皇室典範を筆頭に近代日本の諸法典を整備した。明治元勲として、司法大臣農商務大臣枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。教育者としては帝国大学法科大学慶應義塾で法学を講じ、日本法律学校(現・日本大学)初代校長、二松學舍舎長などを務めた。

日米関係に大きく貢献した。福岡藩修猷館を経て、目賀田種太郎相馬永胤と時を同じくアメリカに留学し、ハーバード大学ロー・スクールで法律を学ぶ。帰国後、帝国大学の初代行政法講座初代担当者となる(1886年から1888年まで)。日露戦争においては、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行った。ほか、日米協会日米同志会などの会長を務めた。

生涯[編集]

誕生[編集]

嘉永6年(1853年)2月4日、福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村字四反田(現在の福岡市中央区鳥飼)に生まれる。幼名は徳太郎。

万延元年(1860年)より金山和蔵、次いで翌年より正木昌陽に師事し、漢学修行に入る。文久3年(1863年)1月、藩校・修猷館に学ぶ。慶応4年(1868年)4月、父・清蔵を亡くし、家督を相続するが、清蔵は1代限りの生涯士分であったため、士籍を失い銃手組に編入され、鉄砲大頭役所使番、1か月後に中番、次いで勘定所給仕となる。銃手組の株を購入、4人扶持12石を得る。明治維新後、修猷館での成績が優秀であることから永代士分に列せられ、秋月藩へ遊学を命ぜられ、さらに家老から東京遊学を命ぜられて元昌平黌中博士で松山藩大参事藤野正啓の漢学塾に所属。

留学[編集]

ハーバード大学在学中の金子堅太郎(中央)(親友の栗野慎一郎(右)、團琢磨(左)と)

明治4年(1871年)、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。はじめはボストンの小学校(グラマー・スクール)に入学、飛び級で卒業し中学校(ハイスクールに)入学、中途退学後、ハーバード大学ロースクールに入学。ハーバード入学前に、ボストンの弁護士オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(後にハーバード大学教授、連邦最高裁判事)に師事し、ヘンリー・スイフトラスル・クレイの共同法律事務所に通い勉強する。ホームズの指示で、ブラックストンの『英法注解』、メインの『古代法』、カトルファージュの『古代都市』、モルガンの『古代社会』を読む。ハーバード入学後、小村壽太郎と同宿し勉学に励む。

在学時代、やはりホームズの指示でハミルトンマディソンジェイらの『ザ・フェデラリスト』、ハラムの『英国憲法史』、ルイースの『哲学史』、ラボックの『文化史』を学ぶ。またジョン・フィスク(ハーバード大学哲学教授)にも個人的に教示を受け、ハーバード・スペンサーについて学んでいる。

学外では著名な政治家・議員・文学者・哲学者・ジャーナリスト等の知識人と交際。在学中に大学のOBである、セオドア・ルーズベルトと面識を得る。また、上院議員チャールズ・サムナーの発言からエドマンド・バークの存在を知り、サムナーの愛読書でもあったバークの著作に親しむようになった。

ハーバード大学を卒業し、Bachelor of Laws学位を受領。

帰国後[編集]

金子堅太郎(1905年頃)

都市民権政社の社員となる。この頃、小野梓馬場辰猪らと「共存同衆」に所属して、英米法制度に関する論文作成、陪審員制度の提案、憲法私案の作成、演説会・講演会などをして活発に自由民権運動を行う。 1880年(明治13年)、嚶鳴社の同志・河津祐之沼間守一の紹介で元老院に出仕。同年、青森県令山田秀典の次女・弥寿子と結婚。

当時のルソー的な自由民権派に対抗する保守漸進の理論がないか元老院副議長の佐々木高行から質問があり、これに答えてエドマンド・バークの名を挙げ、その著作のうち『フランス革命の省察』『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』の2書を名著として紹介する。やがてこれが元田永孚の目を経て、明治天皇に奉呈される。また毎週日曜に参議山田顕義にバークについて講義する。後にこの2書を抄訳し、保守主義の政治思想をまとめた『政治論略』を刊行する。

元老院権閣の総理秘書官に就任、のちに大書記官に昇格。この頃、北海道視察の後に開拓に関する建白書を政府に建議。建白書では、網走集治監網走刑務所)の囚人(思想犯多数)を開拓や道路建設に従事させるように提案した[3]

元老院総理秘書官ののち、太政官権大書記官兼元老院権大書記官、次いで制度取調局御用掛となる。

伊藤博文内閣のもとで[編集]

1910年頃

1885年以降、内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法皇室典範、諸法典の起草にあたる[注釈 1]

1887年(明治20年)12月には、福澤諭吉とともにアメリカ・ユニテリアン協会からアーサー・メイ・ナップ牧師を招聘し、ユニテリアン主義の布教ミッションのための調査活動開始を支援した[4]

1889年(明治22年)から翌年にかけて、欧米諸国を視察した。帰国後、日本法律学校(現在の日本大学)初代校長就任。貴族院勅選議員、初代貴族院書記官長。さらに、国際公法学会会員としてスイスジュネーヴでの国際会議に出席。

それからは、第2次伊藤内閣農商務次官第3次伊藤内閣農商務大臣第4次伊藤内閣司法大臣を歴任。農商務次官在任中に製鉄事業調査会の委員長を務め、官営八幡製鐵所の設置を決めている[5]

日露戦争時の日米友好親善[編集]

1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米[注釈 2]、ルーズベルト大統領に常に接触するのみならず、全米各地で講演を行い、アメリカ世論に日本の立場を訴えた。

「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来は世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させる希望を日本人は抱いている」

1905年(明治38年)8月、ポーツマス会議(第7回本会議)において、償金問題と樺太割譲問題で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあった小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見してその援助を求め、講和の成立に貢献している[6]。金子が帰国したのは、同年10月のことであった。

晩年[編集]

1906年(明治39年)には枢密顧問官に任じられ、自ら「憲法の番人」と称した[7]

日露戦争後は、枢密顧問官のほか、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長を歴任。この間、子爵に叙爵される。また、後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁、帝室編纂局総裁などを歴任し、『明治天皇紀』完成の功により伯爵に昇爵[8]、さらに『維新史』を奉呈する。東京上野日本美術協会大橋翠石百幅展の発起人として開催する。勲一等旭日桐花大綬章を受ける。

生涯にわたり、日米友好のために尽力しており、上述のジュネーヴ国際会議出席後はアメリカを経て帰国しており、帰国後、渡米中に調査したことをまとめて「トラストの利害」「米国経済と日本興業銀行」等を発表。日本において憲法制定の功により男爵となった後、ハーバード大学から憲法制定等の功績により名誉法学博士号(L.L.D)を受けている。米友協会会長、日米協会会長を歴任した後、賀川豊彦松田竹千代三木武夫らとともに「日米同志会」を立ち上げて会長となる。晩年には日米開戦を憂慮していた。

1942年(昭和17年)5月16日、腎盂膀胱炎のため療養先の神奈川県の葉山別邸、恩賜松荘にて死去。享年90。葬儀は同月20日、築地本願寺原嘉道(枢密院議長)が葬儀委員長となって行われた[9]。墓所は青山霊園(1ロ7-5)。

年譜[編集]

※日付は明治5年までは旧暦

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族[編集]

  • 長女:キヨ(1888年 - 1923年) - 川崎肇と結婚、関東大震災で死去
  • 長男:武麿(1897年 - 1959年) - 爵位相続、伯爵
  • 次女:文子(1918年 - ?)
  • 次男:直忠(1923年 - ?)
  • 妹:ヨシ(1864年 - 1938年) - 團琢磨と結婚[41]


 
 
 
 
 
 
 
 
服部金太郎
 
服部玄三
 
服部禮次郎
 
服部譲二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上野季三郎
 
英子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美智子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
團琢磨
 
 
 
 
 
 
團伊玖磨
 
團紀彦
 
團遥香
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
團伊能
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
芳子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金子堅太郎
 
金子武麿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キヨ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なか
 
川崎肇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代川崎八右衛門
 
 
2代目川崎八右衛門
 
川崎守之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

逸話[編集]

  • 金子は、留学当初は海軍軍人を目指しており、アナポリス海軍兵学校への入学を志望していた。病臥の折り、米国人医師から、とくに身体が頑強というわけではないので海軍軍人の家柄でないのならばやめた方がいいと忠告され、法学に針路を変え、ハーバードに入学したという[注釈 3]。1889年(明治22年)から翌年にかけての外遊で、欧米名士に面会の際、大日本帝国憲法と日本の議会運営についての意見を求めると同時に、日本海軍についての意見を聴取し、帰国後、報告しているのは、留学時代の当初の希望だった海軍への関心が持続していることを示す[42]。ボストンを発ち帰国の途に就く際、同地で直前に出版されたアルフレッド・セイヤー・マハン海上権力史論』原書初版を購入し、持ち帰った。これが、マハンのシーパワー論が日本に紹介される発端となった[43]
  • 1877年ハーバード大学の時事問題討論会において、アイリッシュ系学生が盛んに中国人を攻撃し、中国人を米国から追放すると主張したのに対して、「同じく東亜同種の人として憤慨に堪へざれば起立し支那人逐放法は米支条約違反なるのみならず、人道に背き米国建国の主義に反する」としてその理由を詳細に陳述したという[44]。このころ米国で排華運動が高まっており、1880年には中国人の米国移住が停止され、1882年に中国人排斥法が制定された。
  • 日露戦争中、世界的にも海軍戦術論の大家として知られる敵将ステパン・マカロフの戦死を知った金子は、演説の中でその死に触れて哀悼の意を表した。そのコメントが新聞に取り上げられたことで、アメリカ世論からの広範な日本への支持を取り付けることに成功した[45][46]
  • 留学中にアレクサンダー・グラハム・ベル電話を発明したことを聞きつけ伊沢修二と共にグラハム下宿先を訪問した。グラハムは電話の実用化に向けてスポンサーを探しており、外国人が興味を持ったことを喜んで2人に通話を体験させた。なお金子の回想によると英語以外の通話としてもこれが初だと説明を受けたという。日露戦争時に金子が外貨獲得に動いた際、グラハムはアメリカの要人に金子と伊沢から聞いた日本の実情を説明し募債に協力している[47]
  • ハーバード大学を同年に卒業したアーネスト・フェノロサが日本の美術に興味を持つきっかけを作り、フェロノサから本格的に日本美術を研究するには誰に師事すべきか質問され、黒川真頼小中村清矩に学ぶことを推薦し、フェロノサは二人に学ぶこととなった[48]
  • 主著に『政治論略』がある。これはエドマンド・バークの日本語初訳である。他に、福岡藩祖黒田孝高を顕彰した『黒田如水傳』など。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『本邦法令摘要』弘道書院、1885年2月。NDLJP:788106 
  • 『議院建築意見』金子堅太郎、1891年2月。NDLJP:846196 
  • 『予算費額増加ノ得失』金子堅太郎、1892年6月。NDLJP:903756 
  • 『欧洲ニ於ケル日本米』望月正利、1895年11月。NDLJP:901190 
  • 『戦後経済の方針及機関』金子堅太郎、1895年12月。NDLJP:799445 
  • 『農商工高等会議ニ於テ海外貿易ニ関スル金子農商務次官ノ演説』農商工高等会議、1896年11月。NDLJP:901349 
  • 『巴里万国大博覧会に対する方針』臨時博覧会事務局、1897年2月。NDLJP:801815 
  • 『貴族ノ財産維持法』鈴木重雄、1897年6月。NDLJP:799659 
  • 『貴族論』鈴木重雄、1899年6月。NDLJP:798439 
  • 『米国経済事情と日本興業銀行』小椙吉次郎、1899年11月。NDLJP:799539 
  • 『遊米見聞録』水上梅彦記述、八尾書店、1900年3月。NDLJP:767449 
  • 『織物に関する演説』中央織物協会、1900年6月。NDLJP:847782 
  • 『経済政策』大倉書店、1902年11月。NDLJP:799208 
  • 『日本教育之将来』弘道館、1906年5月。NDLJP:809136 
  • 『国家存立の原則』白鳥斯文閣、1907年6月。NDLJP:783104 
  • 『日本大博覧会経営ノ方針』日本大博覧会事務局、1908年1月。NDLJP:801803 
  • 『黒田如水伝』博文館、1916年3月。NDLJP:950970 NDLJP:1917589 
    • 『黒田如水伝』文献出版、1976年11月。 
  • 『日露戦役に関する金子子爵の講演』佐多猛、1926年9月。NDLJP:918221 
  • 『日露戦役秘録』博文館、1929年1月。 
    • 石塚正英 編『日露戦争・日米外交秘録 金子堅太郎・回顧録』(改題新版)長崎出版、1986年4月。ISBN 9784930695437 
  • 『憲法上の統帥権に就て』海軍大学校、1932年12月。 
  • 『日本モンロー主義と満洲』啓明会事務所〈紀要 第13号〉、1932年12月。 
  • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』文部省、1935年8月。NDLJP:1272164 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』東京日日新聞発行所大阪毎日新聞社、1935年9月。NDLJP:1269948 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』皇道会出版部、1935年9月。NDLJP:1269950 NDLJP:1280131 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』大日本図書、1935年9月。NDLJP:1275218 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』青年教育普及会、1935年9月。NDLJP:1280125 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』講演の友社、1935年9月。NDLJP:1282169 
    • 『帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論』京都府教育会、1935年10月。NDLJP:1274201 
  • 『帝国憲法制定の精神』青年教育普及会〈国民精神総動員叢書 第2輯〉、1935年9月。 
  • 『帝国憲法制定の精神』選挙粛正中央聯盟、1936年2月。NDLJP:1278177 
  • 『青年に対する希望』文友堂書店、1936年11月。NDLJP:1096554 
  • 『教育勅語の由来と海外に於ける感化』大阪市、1936年11月。 
  • 『東洋の平和は亜細亜モンロー主義にあり』皇輝会、1937年11月。NDLJP:1456020 
  • 『憲法制定と欧米人の評論』日本青年館、1937年11月。 
    • 『憲法制定と欧米人の評論』金子伯爵功績顕彰会、1938年8月。 
    • 『憲法制定と欧米人の評論』(復刻初版)呉PASS出版〈呉PASS復刻選書 26〉、2017年8月。ISBN 9784908182426 
  • 『憲法発布五十年を回顧して』日本青年館、1938年3月。NDLJP:1270370 
  • 平塚篤 編『伊藤公を語る』興文社、1939年10月。 
  • 『日本に還る』興亜日本社、1941年6月。NDLJP:1459091 
  • 『欧米議院制度取調巡回記』尚友倶楽部〈憲政資料シリーズ〉、1998年12月。 
  • 『金子堅太郎自叙伝 第1集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 11〉、2003年3月。 
    • 『金子堅太郎自叙伝 第2集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 12〉、2004年3月。 

翻訳[編集]

校閲[編集]

  • ホワード・ビンセント 著、佐藤覚四郎 訳『讒謗法論』佐藤覚四郎、1883年5月。NDLJP:793998 
  • クレーン 著、石原健三・木下新三郎 訳『政治学』冨山房、1891年5月。NDLJP: 
  • 交通学館編纂 編『日本帝国交通集覧』渡辺書店、1897年1月。NDLJP:805517 

共著[編集]

  • 藤波言忠、金子堅太郎『明治天皇の御事蹟と帝国憲法の制定』東京市〈社会教育叢書〉、1922年7月。 
  • 金子堅太郎『戊辰秘話』東京講演会〈講演 no.31〉、1928年2月。NDLJP:1094470 

著作集[編集]

  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第1集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 3〉、1995年3月。 
  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第2集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 4〉、1996年3月。 
  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第3集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 5〉、1997年3月。 
  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第4集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 7〉、1999年3月。 
  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第5集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 13〉、2005年3月。 
  • 高瀬暢彦編集 編『初代校長金子堅太郎著作集 第6集』日本大学精神文化研究所〈日本大学精神文化研究所研究叢書 14〉、2006年3月。 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ のちに憲法制定の功績により男爵となる。
  2. ^ 金子がそのような重大な使命は果たせないと固辞すると、伊藤は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と説き、金子はその気迫に感銘を受けて渡米を決意したといわれる。猪木(1995)p.36
  3. ^ 塩崎智『アメリカ「知日派」の起源---明治の留学生交流譚』平凡社、2001年、188頁。「金子堅太郎自叙伝(2)」(日本大学精神文化研究所紀要第28集、1997年3月、106頁)に、「余は日本か海国なるか故に海軍兵学校に入学せんと欲し医師に就き相談したれは、医師曰く『診察する所に依れは別に不適当なる場合はなけれとも餘に頑強なる身体とも見へさるに付貴下か海軍に従事する家柄てなけれは他の専門科を選みては如何』と注意せられたるに依り、父か筑前の藩政に関係したる縁故を以て法科大学に入学することに決定したり」と記されている。

出典[編集]

  1. ^ 金子堅太郎 ポーツマス講和会議 明治38年(1905年)
  2. ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去及卒去」『官報』第4604号、昭和17年5月19日、p.614
  3. ^ a b 囚徒ヲ従事セシメントス”. 幕別町史. 幕別町. 2012年5月28日閲覧。
  4. ^ 友愛労働歴史館「ユニテリアン・ミッションのスタートから130年、明治22年10月!」。2022年10月30日閲覧。
  5. ^ 読売新聞社西部本社 編『福岡百年』上,209頁,浪速社,1967.
  6. ^ 猪木(1995)p.61
  7. ^ 佐々木(2004)
  8. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、487頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  9. ^ 帝国憲法起草者の一人、死去(昭和17年5月17日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p68 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  10. ^ 青山霊園に眠る偉人・著名人一覧 金子堅太郎詳細
  11. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  12. ^ 『官報』第2517号、明治24年11月18日。
  13. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
  14. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
  15. ^ 松本佐太郎 1929.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 金子堅太郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181400 
  17. ^ 『官報』第322号「叙任及辞令」1884年7月25日。
  18. ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
  19. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  20. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  21. ^ 『官報』第4456号「叙任及辞令」1898年5月11日。
  22. ^ 『官報』第8649号「叙任及辞令」1912年4月22日。
  23. ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
  24. ^ a b 『官報』第4604号「叙任及辞令」1942年5月19日。
  25. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  26. ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
  27. ^ 『官報』第2313号「叙任及辞令」1891年3月19日。
  28. ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
  29. ^ 『官報』第3823号「叙任及辞令」1896年3月31日。
  30. ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
  31. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  32. ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
  33. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  34. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  35. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  36. ^ 『官報』第1510号「宮廷録事-恩賜」1932年1月15日。
  37. ^ 『官報』第2101号「叙任及辞令」1934年1月6日。
  38. ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」1937年12月28日。
  39. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  40. ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。
  41. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、442頁。下巻、87頁。
  42. ^ 金子堅太郎『欧米議院制度取調巡回記』大淵和憲校訂、信山社<日本憲法史叢書6>、2001年、ISBN 4-7972-5047-X
  43. ^ マハン著、水上梅彦訳『太平洋海権論』(小林又七、1899年)巻頭、金子堅太郎「序文」。麻田貞雄「歴史に及ぼしたマハンの影響---海外膨張論を中心に」、麻田訳『アメリカ古典文庫 8 アルフレッド・T・マハン』研究社、1977年、7-8頁。
  44. ^ 容應萸、「19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触」 『アジア研究』 2016年 62巻 2号 p.37-60, doi:10.11479/asianstudies.62.2_37
  45. ^ 濱田浩一郎『日本人はこうして戦争をしてきた』青林堂、2012年 ISBN 4792604540
  46. ^ 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』扶桑社、2016年 ISBN 4594075681
  47. ^ 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935)
  48. ^ 梅沢精一 著『芳崖と雅邦』,第六フエノロサ 78~81頁,純正美術社,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献[編集]

関連項目[編集]

関係人物

外部リンク[編集]

公職
先代
井上馨
日本の旗 維新史料編纂会総裁
1915年 - 1942年
次代
(廃止)
先代
田中光顕(→欠員)
日本の旗 臨時帝室編修局総裁
1922年 - 1933年
次代
(廃止)
先代
(新設→欠員)
日本の旗 臨時帝室編修局副総裁
1916年 - 1922年
臨時編修局副総裁
1915年 - 1916年
次代
藤波言忠
先代
末吉忠晴
東京市会議長
1901年 - 1902年
次代
仁杉英
先代
斎藤修一郎
日本の旗 農商務次官
1894年 - 1897年
次代
大石正巳
先代
斎藤修一郎
日本の旗 臨時製鉄事業調査委員会委員長
1894年
次代
(廃止)
先代
(新設)
日本の旗 貴族院書記官長
1890年 - 1894年
次代
中根重一
その他の役職
先代
榎本武揚
大日本窯業協会会頭
1909年 - 1942年
次代
黒田泰造
会長
先代
土方久元
日本美術協会会頭
1919年 - 1942年
次代
中田敬義
先代
渋沢栄一
財団法人二松學舍長
1932年 - 1942年
次代
吉田茂
先代
花房義質
大日本織物協会会頭
1906年 - 1924年
次代
吉武栄之進
理事長
先代
(新設)
日米協会会長
1917年 - 1924年
次代
徳川家達
先代
大江卓
東京株式取引所理事長
1899年 - 1900年
次代
中野武営
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
金子(堅太郎)家初代
1934年 - 1942年
次代
金子武麿
先代
陞爵
子爵
金子(堅太郎)家初代
1907年 - 1934年
次代
陞爵
先代
叙爵
男爵
金子(堅太郎)家初代
1900年 - 1907年
次代
陞爵