金羊毛騎士団

金羊毛勲章
金羊毛勲章(頸飾)
火口金と火打石の意匠が連なり、中央に羊が吊るされている
スペイン国王およびハプスブルク家家長による栄典
種別 騎士団勲章
標語 Pretium Laborum Non Vile
我らの働きに報償に値しないものはない
創設者 フィリップ3世
状態 存続
主権者(西) フェリペ6世
主権者(墺) カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
地位 騎士
歴史・統計
創立 1430年 (594年前) (1430)

金羊毛騎士団(きんようもうきしだん、フランス語: Ordre de la Toison d'orスペイン語: Orden del Toisón de Oroドイツ語: Orden vom Goldenen Vliesオランダ語: Orde van het Gulden Vlies英語: Order of the Golden Fleece)は、ブルゴーニュ公フィリップ3世によって創設された世俗騎士団スペイン王国最高位の騎士団勲章として現存し、オーストリアでもハプスブルク家による名誉として存続している。

英語に基づいてゴールデン・フリース騎士団、フランス語に基づいてトワゾン・ドール騎士団とも呼ばれる。

概要[編集]

創設者フィリップ善良公騎士たち

1430年に、フィリップ善良公(ル・ボン)がポルトガル王女イザベルと結婚する際に、イングランドガーター騎士団に倣って作られた。聖アンデレ(サン・タンドレ)を守護聖人とし、異端を排除してカトリックを守護することを目的の1つにしており、宗教改革時にはメンバーをカトリックのみに限定していた。騎士団集会が開催された際には、当時の騎士団員全員の紋章を描いた板絵が描かれている。これはフランデレン地方を中心として複数の教会に残されており、金羊毛騎士団はブルゴーニュ貴族の身分、地位及びアイデンティティの象徴となった[1]

フィリップ善良公の孫娘で、ヴァロワ=ブルゴーニュ家最後の君主となったマリー女公ハプスブルク家マクシミリアン(後、神聖ローマ皇帝)と結婚したことで、同家の君主が騎士団主権者となった。16世紀にかけてハプスブルク家の勢力拡大により、権威が増大していった[2]

ハプスブルク家は、スペインとオーストリアに分かれ、1700年にカルロス2世が崩御してスペイン・ハプスブルク家が断絶する。スペイン継承戦争を経て、王朝がブルボン朝に代わったため、騎士団もまたスペインオーストリアに分かれた[3]

スペインとオーストリアで、勲章の形が異なる。スペインは君主制廃止と王政復古を繰り返しつつ、今日も同国最高位の勲章として存続している。一方、オーストリアは第1次世界大戦後のオーストリア革命により帝政が廃止され、金羊毛騎士団の地位や勲章は政府や君主公認ではなくなった。しかし、最後の皇帝カール1世の子孫が引き続き主権者を務め、カトリック諸国での権威を保っている[3]

標語と意匠[編集]

モットーは「Pretium Laborum Non Vile(我らの働きに報償に値しないものはない)

名称はギリシア神話イアソンの物語(金羊毛)と、旧約聖書士師記ギデオンの物語に由来している[4][5]。これはフィリップ善良公が、十字軍を想定していたからである[1]。当初はイアソンのみだったが、ギリシャ神話、すなわち、カトリック教会から見て異教を由来にしていることが好ましくないとされ、後からギデオンの物語が理由づけされた[6]

なお「金羊毛皮」は錬金術の達人の象徴でもある。ただし、善良公が何故、金羊毛を意匠に定めたかは、騎士団規約にも記載がない[注釈 1][8]

衣装は、銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された[9]。この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公(サン・プール)より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する[10]

騎士団規約と集会[編集]

騎士団規約は、1431年11月30日の第1回騎士団集会に先立つ11月27日に公表された。当初は全103条から成り、騎士団の構成や、団員の義務をはじめ組織の運営に必要な事項が示されている[11]。これは紙の本として、団員に配布された[11]。1446年に発布された新規約は、特に大きな改定がなされている[11]。全94条になり、66条の団員・団長の規定と28条の役職者の規定の二部構成になった[11]

金羊毛騎士団の旧規約と、同時代のガーター騎士団の規約を比較すると、組織の枠組み等に類似点が見られる[12]。一方、相互扶助や総会、団員選出等については、独自性が見られる[12]

騎士団規約に基づき、聖アンデレの祝日である11月30日に団長が指名する都市で、『騎士団集会(総会)』(chapitre)が開かれる[4]。後に、3年毎5月2日に変更された[4]。宗教行事を中心に、騎士団の査問、裁判、新団員選出が1週間から1か月にわたって行われ、ブルゴーニュ公国の壮大華麗な儀式の一つとなった[4]。集会は公国の他の催し事と並行して開かれることもしばしばで、その華麗さは欧州諸侯の羨望の的であったという[13]

歴史[編集]

創設の背景[編集]

国内情勢[編集]

1424年ブルゴーニュ公国の若き君主フィリップ善良公は、エノー、ホラント、ゼーラントの3伯領を巡り、カンブレー二重結婚を根拠として継承を主張した。その結果、ジャクリーヌ・ド・エノー及びその夫グロスター公ハンフリーと抗争が起こる。1428年にフィリップによる継承が承認され、1432年にジャクリーヌが地位と領土を放棄した。

ブルゴーニュ公国は政治的な対立を内包し集権力は弱かったため[14]、騎士団の設立は、ブルゴーニュ及び周辺諸国の諸侯を儀礼体系に組み込む、外交的な意図があったとも指摘されている[15]

国外情勢とガーター勲章[編集]

百年戦争では、ブルゴーニュ公国はイングランドと組み、ブルゴーニュ派と王太子を擁するアルマニャック派とで対立していた。善良公の姉妹も、ヘンリー6世の叔父に嫁ぎ、善良公もイングランドと姻戚関係にあるポルトガル王女イザベル[注釈 2]と再再婚する。しかし前節の経緯から、イングランドとの関係も円満ではなく、1429年にジャンヌ・ダルクが登場して戦局が急変すると、1431年にブルゴーニュはフランスと休戦する。

百年戦争の最初期、1348年(または1344年)にイングランドではガーター騎士団が結成された。『アーサー王伝説』に由来し、対仏戦争の士気を高揚させる目的があった[16]。同勲章は1400年に初めて外国人に授与され[17]、外交上の意義を持つようになる。1422年にはフィリップ善良公へも授与が打診されたが辞退している[18][19]

他方、東欧情勢では、オスマン帝国(トルコ)がオスマン・東ローマ戦争の渦中であり、メフメト1世(在位:1413年 - 1421年)とムラト2世(在位:1421年 - 1444年)によって再統一され、再び国力を増していた。

黎明期[編集]

イザベルフィリップ善良公ヘント市立美術館収蔵)

1430年1月10日、フィリップ善良公とポルトガル王女イザベルとの婚礼の祝宴の中で、創設が発表された[13][20]

創設前後の記録は、紋章院長官であるジャン・ルフェーブル・ド・サン=レミ英語版の『年代記』に詳細に残されている[14]。創設目的のひとつに「キリスト教信仰の擁護」が掲げられ、フィリップ善良公の構想に十字軍があったことを示している[21]。また、ガーター騎士団への対抗意識から構成されたことも指摘されている[19][22]

第1回集会は、聖アンデレの祝日である1431年11月30日に、リール(現・フランス)で開催された[13][23]。集会直前の11月27日に公表された騎士団規約で、団員数は団長であるブルゴーニュ公1名と騎士30名の、計31名と定められ、第1回集会までに25名が選出された[13][9]

1443年11月30日、ディジョンで第3回集会が開催された[24]。直前の11月10日に誕生した、フィリップ善良公の嫡男シャルルの騎士団参加を容易にするため、この時に定員を25名(主権者と団員24名)から31名としたとする説もある[25]

後、百年戦争におけるアジャンクールの戦い(1415年)以来捕虜となっていたオルレアン公シャルルについて、フィリップ善良公がその解放に尽力した縁で、オルレアン公シャルルとマリー・ド・クレーヴの結婚を成立させた[26]。二人の結婚式の直後、1440年11月30日に開催された、第6回目の集会でオルレアン公シャルルは38番目の騎士となった[27]

オスマン帝国の脅威が迫るにつれ、1451年の騎士団集会ではシャロン大司教ジャン・ジェルマン(Jean Germain)が十字軍結成の熱烈な演説を行った[28]1453年コンスタンティノープル陥落による東ローマ帝国滅亡を受け、フィリップ善良公は1454年に十字軍集会を開催し、参列者に十字軍宣誓(雉の宣誓)を行わせた[29]。これは、ブルゴーニュ宮廷で行われた最も華麗な宴会として記録されている[30]。食事などその場で消費される経費だけでなく、出席者の衣装までもが善良公による支出だった[31]。ただし、余興の出演者の呼びかけで善良公以下が次々に行う演出がかった宣誓は、あらかじめ「不可抗力により実行不可能」になることも想定されているものだった[32]

1456年ローマ教皇カリストゥス3世が十字軍結成を欧州諸侯に呼びかけると、フィリップ善良公は遠征計画を作成し、同年6月、金羊毛騎士団の第9回集会で、フランス国王に対し十字軍宣誓に応じ、遠征を行うよう要請した[33][34]。また、この第9回集会では、かつての十字軍国家であるアンティオキア公国の名目上の君主ジョアン・デ・コインブラが騎士団員となった[35]。ただし、この十字軍は、西ヨーロッパ情勢や善良公自身の健康問題から、実現しなかった[1][36]

1467年6月、フィリップ善良公が逝去し、シャルル突進公(ル・テメレール)が団長となる。シャルル突進公は1468年4月末から5月に開催された第19回騎士団会議で、政敵であるクロワ一族3名を大逆罪で告発する[37]。君主として司法裁判にかけ死刑とすることも可能だったが、騎士団としては名誉のみを扱うとし、彼らは領外追放となった[38]

1468年、イングランド王国薔薇戦争でブルゴーニュの支援を受けるため[注釈 3]、イングランド王エドワード4世の妹、マーガレットとシャルル突進公が結婚した。この際にエドワード4世とシャルルは、ガーター勲章と金羊毛勲章を互いに授与しており、創設40年未満ですでに金羊毛騎士団が国際的な重要性を帯びるようになっていた[39]

1477年にシャルル突進公が戦死し、一人娘のマリーハプスブルク家マクシミリアンと結婚した[7]。それに伴い、公位もハプスブルク家に継承され、騎士団規約に基づきマクシミリアンが主権者となった[40]。ハプスブルク家は16世紀に飛躍的に勢力を伸ばし、それに伴って金羊毛騎士団の地位も上昇した[7]。当初31名とされていた定員は、領土の拡大に伴い神聖ローマ皇帝カール5世により51名に増員。その後も増員されている。

スペイン、オーストリアの分裂[編集]

神聖ローマ皇帝カール6世

カール5世は、スペイン及びネーデルラントを長男フェリペ2世に、オーストリアハンガリー及びボヘミアを弟フェルディナント1世に継承させたため、ハプスブルク家はオーストリア本家とスペイン系(アブスブルゴ家)の2系統に分かれた。ブルゴーニュ公位並びに金羊毛騎士団の地位もフェリペ2世が受け継いだ。フェリペ2世は、ローマ教皇グレゴリウス13世の許可を得て、騎士団集会での選出以外に、騎士団長のみの叙任ができるようにした[41]

その後、近親婚も原因で、カルロス2世は先天的に虚弱であり、スペイン・ハプスブルク家は断絶する。この際、カルロスの異母姉でフランス王妃マリー・テレーズの孫であるアンジュー公フィリップが後継者指名を受けていたが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は末子のカール大公(後、神聖ローマ皇帝カール6世)を推したためスペイン継承戦争が勃発した。最終的に、フィリップが『フェリペ5世』となることで決着し、今日まで続くスペイン・ブルボン家(ボルボン家)が興る。一方、ネーデルラントとブルゴーニュ公位はオーストリア領ネーデルラントとして、オーストリア側に移った。

その結果、18世紀初頭以降、スペイン及びオーストリアの双方から叙任(授与)される騎士団勲章となった[7][3]。分裂後、騎士団勲章をオーストリアに定着させた点において、オーストリア金羊毛騎士団の初代主権者となったカール6世を第2の創設者と評価する見方もある[42]

オーストリア宮廷においての騎士団勲章は、ブルゴーニュ公国時代からの伝統に基づく壮麗な儀式[43]に加え、様々な儀式や式典で皇帝に近い席を与えられるなど、名誉と特権を可視化し、高い地位を維持し続けた[42]1740年のカール6世崩御後、長女のマリア・テレジアが実質的な『女帝』としてハプスブルク君主国を継承。騎士団主権者は、夫である皇帝フランツ・シュテファンが継承したが、運営には女帝自身も深く関与した[44]。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争七年戦争の勝利を目指し、ハウクヴィッツ伯爵を抜擢して内政改革等に取り組んだ。女帝はハウクヴィッツ伯爵を信頼し重用したが、この改革は高位の貴族からの反発も大きかった[45]

金羊毛騎士団勲章には、団員選出の基準に明確な功労が定められておらず、高位貴族のみのステータスシンボルとして捉えられている面もあった[44]。しかし、女帝は夫を通じて、アーヘンの和約後にカウニッツ伯爵を、士官学校創設後にダウン将軍をそれぞれ金羊毛騎士に叙任させ、その功労に報いている[44]。1759年11月29日、フランツ・シュテファンの推薦を得た他の2名の貴族とともに、ハウクヴィッツ伯爵は騎士に叙任された[46]。騎士団員を多数輩出してきた家系の貴族は、明らかな反発を示した[46]。次代のヨーゼフ2世は、騎士団による宗教行事等の規模を大幅に縮小した[43]

近現代[編集]

2014年撮影、スペイン国王フアン・カルロス1世フェリペ王太子

オーストリア[編集]

オーストリアでは、カトリックの男性王侯貴族に限定して授与が行われた。ただし、ナポレオン戦争後に、非カトリック教徒である英国のジョージ摂政王太子(のちに国王ジョージ4世)に対し、外交的理由から例外的に授与している[注釈 4]第一次世界大戦後にオーストリア革命により、ハプスブルク家のカール1世が帝位を失い、国家や君主による騎士団勲章としては消滅した[2]。しかし、騎士団主権者をベルギーアルベール1世が受け継ぐという提案がスペインの反対でつぶれたため、元皇太子オットーを経て、その長男カールへと騎士団主権者が受け継がれ、今日もハプスブルク家による「栄誉」として存続している。

スペイン[編集]

スペインでは、王家の授与する最高位の勲章として存在している。かつては女性は授与されておらず、例えばヴィクトリア女王は金羊毛勲章に次ぐカルロス3世勲章英語版の受章に留まり、代わってアルバート王配が金羊毛勲章を受けている[47]

しかし現在は、授与対象はカトリック教徒及び男性に限定されず、日本では明治天皇以降第125代天皇(現・明仁上皇)まで、近代以降、明治から平成まで四代の天皇がスペイン金羊毛勲章を受章している。

また、スペイン君主の称号英語版の一つに「ブルゴーニュ公」や「金羊毛騎士団総長(グランドマスター)」が含まれている。

徽章[編集]

2006年撮影、スペイン国王フアン・カルロス1世プーチン露大統領。国王は中綬を佩用。
2018年撮影、スペイン国王フェリペ6世アストゥリアス女公レオノール王女。二人とも、左胸に小綬を佩用している。
正装に佩用した頸飾と中綬の位置
頸飾(西墺共通)
スペイン金羊毛勲章 オーストリア金羊毛勲章
主権者用綬章 団員用綬章 綬章

綬章については、大きさにバリエーションがあるが、首の中央につける中綬が肖像画及び写真に多く残されている(#騎士団員を参照)。

ギャラリー[編集]

勲章[編集]

会議・式典[編集]

紋章[編集]

主権者[編集]

分裂以前
オーストリア
スペイン

騎士団員[編集]

分裂以前
オーストリア
スペイン

現在のスペイン金羊毛騎士団員[編集]

主権者[編集]

画像 紋章 君主号
名前
(生年)
(在位)
叙任日 備考
スペイン国王
フェリペ6世
1968年生まれ)
2014年即位 - 在位中)
1981年 2014年から騎士団主権者

その他の騎士団員[編集]

画像 紋章 君主号・爵位
名前
(生年)
(君主の場合の在位期間)
叙任日 備考
前スペイン国王
フアン・カルロス1世
1938年生まれ)
1975年即位 - 2014年退位)
1941年 前主権者
スウェーデン国王
カール16世グスタフ
1946年生まれ)
1973年即位 - 在位中)
1983年
日本天皇
明仁上皇
1933年生まれ)
1989年即位 - 2019年退位)
1985年 叙任当時は皇太子
前オランダ女王
ベアトリクス
1938年生まれ)
1980年即位 - 2013年退位)
1985年
デンマーク女王
マルグレーテ2世
1940年生まれ)
1972年即位 - 在位中)
1985年
前ベルギー国王
アルベール2世
1934年生まれ)
1993年即位 - 2013年退位)
1994年
ノルウェー国王
ハーラル5世
1937年生まれ)
1991年即位 - 在位中)
1995年
元ブルガリア国王
シメオン2世
1937年生まれ)
1943年即位 - 1946年廃位)
2004年 1946年にブルガリア王位廃位
ブルガリア首相(2001-2005)
ルクセンブルク大公
アンリ
1955年生まれ)
2000年即位 - 在位中)
2007年[48]
ハビエル・ソラナ
1942年生まれ)
2010年[48] スペインの政治家
ヴィクター・ガルシア・デ・ラ・コンチャスペイン語版
1934年生まれ)
2010年[49] スペインの文献学者
前アンドラ共同大公(前フランス大統領
ニコラ・サルコジ
1955年生まれ)
2007年即位 - 2012年退位)
2011年[50]
エンリケ5世・イグレシアススペイン語版
1930年生まれ)
2014年[51] ウルグアイ・スペインの経済学者・政治家
アストゥリアス女公
レオノール・デ・ボルボン
2005年生まれ)
2015年
10月30日[52]
フェリペ6世の長女
推定相続人

現在のオーストリア金羊毛騎士団員[編集]

現在もハプスブルク家が主催するオーストリア金羊毛騎士団は、ハプスブルク一族、旧ドイツ諸侯家などを団員としている。現役国家元首としては、ベルギー国王、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン侯が在籍する。前述の通り、ベルギー国王、ルクセンブルク大公はスペイン金羊毛騎士団員でもある。

帝政時代から今日に至るまで、団員資格をカトリック教徒の男性に限定している。そのため日本の皇室のみならず、同じヨーロッパの王侯でも非カトリック教徒が団員となることは原則として無い。ただし、ナポレオン戦争期に英国のジョージ摂政王太子(のちに国王)[注釈 4]が例外的に受章した。オーストリア金羊毛勲章を受けることは、現在でもドイツ系の王侯貴族の間では格式ある名誉とされる。

主権者[編集]

画像 名前
(生年)
叙任日 番号 備考
ハプスブルク家家長
カール・フォン・ハプスブルク
1961年生まれ)
1961年 1269 2000年から騎士団主権者

その他の騎士団員(一部)[編集]

画像 名前
(生年)
叙任日 番号 備考
ヴィッテルスバッハ家家長
フランツ・フォン・バイエルン
1933年生まれ)
1960年 1262
ベルギー国王
アルベール2世
1934年生まれ)
1962年 1274 叙任当時はリエージュ公
アンドレアス・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1936年生まれ)
1972年 1277 フーベルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナの次男
カール・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1936年生まれ)
1972年 1278 テオドール・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナフランツ・サルヴァトール大公の三男)の息子
オーストリア=エステ大公
ローレンツ・フォン・エスターライヒ=エステ
1955年生まれ)
1977年 1290 妻はベルギー王女アストリッド
ミヒャエル・コロマン・ハプスブルク=ロートリンゲン
1942年生まれ)
1980年 1296 ヨーゼフ・フランツ大公の四男。駐バチカン・ハンガリー大使エドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲンの父
ミヒャエル・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1949年生まれ)
1980年 1297 フーベルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナの五男
リヒテンシュタイン侯
ハンス・アダム2世
1945年生まれ)
1981年 1300
ブラガンサ家家長
ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ
1945年生まれ)
1982年 1302
ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン
1964年生まれ)
1987年 1306 オーストリア元皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの次男
カール・クリスティアン・ハプスブルク=ロートリンゲンフランス語版
1954年生まれ)
1991年 1308 カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲンの次男
シュヴァルツェンベルク家英語版家長
カレル・シュヴァルツェンベルク
1937年生まれ)
1991年 1309 チェコの政治家
ヨーゼフ・ハプスブルク=ロートリンゲン
1960年生まれ)
1992年 1310
レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク家家長
アロイス・コンスタンティン・ツー・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルクドイツ語版
1941年生まれ)
1996年 1314
ヴィンディシュ=グレーツ家ドイツ語版家長
マリアーノ・フーゴ・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ英語版
1955年生まれ)
2000年 1318
シュターレンベルク家ドイツ語版家長
ゲオルク・アダム・シュターレンベルク
1961年生まれ)
2001年 1323
シェーンブルク=ハルテンシュタイン家ドイツ語版家長
アレクサンダー・シェーンブルク=ハルテンシュタイン
1930年生まれ)
2002年 1325
クブラト・サクスコブルクゴツキ
1965年生まれ)
2002年 1326 ブルガリア王国最後の国王シメオン2世の第3王子
ルクセンブルク大公
アンリ
1955年生まれ)
2006年 1328
ベルギー国王
フィリップ
1960年生まれ)
2008年 叙任当時はブラバント公
リーニュ家家長
ミシェル・ド・リーニュ英語版
1951年生まれ)
2011年
フェルディナント・ズヴォニミル・ハプスブルク=ロートリンゲン
1997年生まれ)
2011年 ハプスブルク家嗣子
ニコラウス・フォン・リヒテンシュタイン
1947年生まれ)
2011年 リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ2世の三男
フェルディナント・トラウトマンスドルフ英語版
1950年生まれ)
2011年 駐プラハ:オーストリア大使、旧伯爵家
ザクセン=ゲッサフェ家英語版家長
アレクサンダー・フォン・ザクセン=ゲッサフェ英語版
1954年生まれ)
2012年
エドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲン
1967年生まれ)
2016年 ハンガリーの駐バチカン・マルタ騎士団大使
エマヌエル・ツー・ザルム=ザルムドイツ語版
1961年生まれ)
2016年
シェムイェーン・ジョルトハンガリー語版
1962年生まれ)
2022年 ハンガリー副首相(2022年 - )

日本との関わり[編集]

日本人からは明治天皇から第125代天皇だった明仁上皇までの4代の天皇のみがスペイン王国の金羊毛勲章を授与されている[53]。明治天皇は1883年明治16年)、大正天皇は皇太子時代の1896年(明治29年)[54]、昭和天皇は1928年昭和3年)[55]、明仁上皇は、皇太子時代の1985年(昭和60年)に授与された[56]

1994年(平成6年)10月、当時の明仁天皇が美智子皇后(現:上皇后)とともにスペインを訪問した際、宮内庁職員が金羊毛勲章の携行を忘れ、現地での晩餐会では同国より借用して佩用し、さらに日本から急遽送付した勲章を紛失する不祥事があった[56]。この件についての参議院議員村上正邦の質問に対する当時の宮内庁長官藤森昭一の答弁によると、細部は次の通り[56]

  • 担当者が、肩から佩用する綬、胸部に佩用する副章、首から佩用する頸飾の3つからなる1980年(昭和55年)授与のカルロス3世勲章スペイン語版だけを用意し、頸飾だけの金羊毛勲章を失念していた。結果、現地へはカルロス3世勲章のみを携行していく事態となった。
  • 10月7日、現地でスペイン当局と10月13日の国王主宰の晩餐会についての打ち合わせをした時、金羊毛勲章の話が話題にのぼった。この時、明仁天皇はフランス・トゥールーズにいたが、スペイン大使館から現地に随行している担当者に金羊毛勲章を持参してきているか念のため照会があった。侍従職と担当者が調べると金羊毛勲章を持参してきていないのに気づいた。
  • 宮内庁及び外務省の担当者の協議の結果、10月10日に「機長託送」により日本から急送することになった。日本航空の仲介でイベリア航空に「機長託送」でマドリードまで送ってもらう手はずをつけ、侍従職からも直接イベリア航空に連絡して「機長託送」を依頼した。しかし中身が勲章であることは告げず「貴重品」として預けた。その結果、紛失した。
  • 日本の外務省はスペイン政府に対して遺憾の意を表明するとともに、スペイン捜査当局に勲章の捜索について協力をお願いした。また宮内庁もスペインの王宮府長官に対して十分遺憾の意を表した。

村上のなぜ責任ある立場の者に直接持っていかせなかったのかという追及に対して藤森は職員が持っていくと出国の手続きに時間が取られること、またこの直前に明仁天皇からフランスのミッテラン大統領への贈り物が「機長託送」でパリに贈られていたことから「機長託送」なら安全に早く送れると担当者が考えたようであると答弁している。また村上のなぜ中身が勲章であることを告げなかったのかという追及に対して藤森は「勲章は天皇陛下の直接の御所有物であり、また機長に託したことから」と答弁している。

答弁の中で官房長官・五十嵐広三は「このたびの問題につきましては、天皇陛下、スペイン政府に大変御迷惑をおかけいたしましたことをまことに遺憾に思っている次第であります。この後、もちろん二度とこのような問題が起こらないように万全の措置をとるよう関係者に厳しく指示をしてまいりたいと、このように思う次第であります。」と謝罪した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一説に、ブルゴーニュの豊かさの源である毛織物交易の暗喩として金羊毛が用いられたとするものがある[7]
  2. ^ フィリパランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘。百年戦争で善良公と共闘した、ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターとは、祖父ジョン・オブ・ゴーントを同じくする従兄妹同士となる。
  3. ^ イングランドでは、1455年5月に薔薇戦争が勃発。ランカスター家ヨーク家の抗争の中、1461年にヨーク公エドワードが推戴されて国王エドワード4世となっており、ブルゴーニュ公国の支援を背景にヨーク側の勢力を維持しようとしていた。
  4. ^ a b c ナポレオン戦争後の1814年に主要国の要人をロンドンで歓待した際に、ジョージ摂政王太子は各国の最高勲章を受章した(オーストリアからは皇帝の代理としてメッテルニヒ宰相が訪英)。英国摂政王太子としての期間が長く、すでに主要国の君主より年長だったことと、ナポレオン戦争で英国が重要な役割を果たしたことから、異例の受章となった。(君塚 2014 p.70-75)
  5. ^ 頸飾はエストニアテッラ・マリアナ十字勲章を佩用

出典[編集]

  1. ^ a b c 河原 2006, p.148
  2. ^ a b 君塚 2014 p.35
  3. ^ a b c “【世界勲章物語】金羊毛勲章 「欧州最高の格式」の数奇な運命 関東学院大教授・君塚直隆”. 産経ニュース. (2016年7月21日). https://www.sankei.com/article/20160721-TSTLTGOVINKB5DKYZGBWZI277E/ 2017年10月20日閲覧。 
  4. ^ a b c d 黒木 2006 p.238
  5. ^ 河原 2006, p.147
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  10. ^ 掘越 1996, p.186-187
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  13. ^ a b c d スレイター (2019), p. 148.
  14. ^ a b 近藤 1996 p.130
  15. ^ 掘越 1996, p.198
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  17. ^ 君塚 2014 p.36
  18. ^ 君塚 2014 p.38
  19. ^ a b カルメット (2023), p. 297.
  20. ^ 近藤 1996 p.131
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  29. ^ 掘越 1996, p.178-179
  30. ^ カルメット (2023), p. 447.
  31. ^ カルメット (2023), p. 449.
  32. ^ カルメット (2023), pp. 447–449.
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  50. ^ iafrica.com | news | world news | Sarkozy to get Golden Fleece”. News.iafrica.com (2011年11月25日). 2012年5月3日閲覧。
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  54. ^ Herold, Stephen. “CHEVALIERS DE LA TOISON D'OR TOISON ESPAGNOLE (SPANISH FLEECE) 19th Century” (英語). Confrérie Amicale de la Toison d'Or. 2020年5月23日閲覧。
  55. ^ Herold, Stephen. “CHEVALIERS DE LA TOISON D'OR TOISON ESPAGNOLE (SPANISH FLEECE) 20th Century” (英語). Confrérie Amicale de la Toison d'Or. 2020年5月23日閲覧。
  56. ^ a b c 第131回国会 参議院内閣委員会会議録第7号(平成6年11月24日) [5]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

他国の世俗騎士団に由来した勲章