銚子市

ちょうしし ウィキデータを編集
銚子市
銚子市旗 銚子市章
1934年(昭和9年)1月15日告示
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 千葉県
市町村コード 12202-5
法人番号 6000020122025 ウィキデータを編集
面積 84.12km2
総人口 53,871[編集]
推計人口、2024年3月1日)
人口密度 640人/km2
隣接自治体 旭市香取郡東庄町
茨城県神栖市
市の木 サザンカ
市の花 オオマツヨイグサ
市の魚 イワシ
銚子市役所
市長 越川信一
所在地 288-8601
千葉県銚子市若宮町1-1
北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 / 35.73464; 140.82678
地図
市庁舎位置
外部リンク 公式ウェブサイト

銚子市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキプロジェクト

銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の関東最東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。日本屈指の水揚量を誇る銚子漁港を擁する国内最大規模の水産都市[1][2]江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり[3]ヤマサ醤油ヒゲタ醤油を中心に醤油産業の一大集積地を形成している。1933年昭和8年)に市制施行した東総地域の中核都市である[4]

概要[編集]

犬吠埼からの日の出

太平洋に突き出した半島状の地形をなし、三方を海に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 2]関東地方の最東端であり、江戸時代には「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」の句が詠まれた[5]。北側には日本最大の流域面積を持つ大河利根川が流れ、銚子から太平洋に注いでいる[6]。沖合は南からの黒潮と北からの親潮が交わる好漁場であり[7]、世界三大漁場の一つに数えられている[8]。太平洋に臨む巨大な外港を備える銚子漁港特定第3種漁港)は、全国各地から多数の漁船が入港して活況を呈し、水産物流通基地として揺るぎない地位を確立しており[9]、日本屈指の水揚量を誇っている[1]。広大な後背地には、卸売市場、水産会社、水産加工場、水産缶詰工場、冷凍冷蔵施設、製氷貯氷施設、関連運送業者・鉄工所・造船所、水産物・加工品販売施設等が集積し、国内最大規模の冷凍・冷蔵能力を有しており[2]、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[9]、名実共に日本随一の水産都市として発展している。銚子沖で手釣りによって漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された高級魚である[10]。魚市場周辺の商店街には、鮮魚店や老舗寿司店が点在している[11]。江戸時代元和年間に創始され、関東風濃口醤油が発祥した醤油の銘醸地でもあり[3]、街の中心部には、全国トップクラスの大手醤油メーカーであるヤマサ醤油(業界2位[12])、ヒゲタ醤油(業界4位[12])の主力工場が立地操業し、製造品出荷額800億円を超える醤油産業の一大集積地を形成している[13]。各社では、蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品化成品等の研究開発を進めている[14]明治時代から東総地域の中核都市として発展を続けており[4]公共交通ネットワークの拠点である銚子駅を中心として、国・県の出先機関金融機関の本店・支店、商業・業務施設等の高次都市機能が集積し、千葉県東部で最大規模の人口集中地区を形成している[15]。市の財政力指数は0.61(令和3年度)であり、県東部地域において最も高い財政力を有している[16]

銚子半島に人が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、海上台地の密林を背景に三方を太平洋に臨むこの地では、数千年の間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれ[17]、市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器骨角器が出土している[18]歴史時代に入ってから、半島に続く広大な下総丘陵一帯は下海上国造の所領として繁栄し、その区域は香取郡南半から匝瑳郡の大部に及んでいた。後に郡郷時代となっても、海上郡は15郡の大郡であった[17]。下って平安時代末期、武士が勃興する頃になると、中央貴族桓武平氏の末孫で房総の大族となった千葉氏の支流、東氏・海上氏が銚子地方を領有するようになり[17]、船木郷には海上氏の居城として中島城が築城された[18]。海岸の犬岩や千騎ヶ岩には、源義経(九郎判官義経)にまつわる伝説が残されている[18]

江戸時代、東廻り海運と利根川水運の中継港となったことで、海運関連業を中心に、上方から紀州移民によって伝えられた鰯漁や醤油醸造、各種商工業が盛んとなり、東国屈指の河港都市として繁栄した[19]坂東三十三観音札所である飯沼観音を中心として、花街や興行街も発達した[17]。利根川河口の航海の難所を望む川口明神は、銚子港の守り神として漁民の信仰を集め、付近の丘には漁船遭難の犠牲者を供養した千人塚が築かれた[20]。幕末、豊漁を祝って川口明神に奉納された「銚子大漁節」は、銚子を代表する民謡として広く喧伝されている[21]明治維新後は、文明開化が急速に進展する中で、犬吠埼灯台銚子測候所銚子無線電信局が相次いで開設した[17]。利根川には蒸気船が就航し、次いで総武本線銚子遊覧鉄道成田線の各鉄道が開通した[17]。都市の発展に伴って多くの企業・銀行が設立され、図書館映画館カフェー等の文化娯楽施設も充実した[19]大正時代末期からは銚子築港工事が開始され、銚子港は天然の泊地から東洋一の近代漁港へと大きく転換することとなった[19]。築港促進運動の中、各町村の協力一致による大銚子市建設の機運が高まり、1933年昭和8年)2月11日銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行し、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が発足した[18]1937年(昭和12年)には、高神村海上村の合併が実現した[19]

太平洋戦争末期、B29の大規模空襲により、市街地は壊滅的な被害を受けた[19]。戦後は戦災復興都市計画事業に基づく土地区画整理と道路・公園等の整備が実施され、近代都市としての都市基盤施設の整備が進められた[19]。さらに船木村椎柴村豊里村豊岡村の編入により、市域・人口規模は大幅に拡大した[19]高度経済成長期には、銚子大橋の開通、銚子漁港の総合漁業基地化、外川漁港の改修、名洗港臨海工業用地の造成、食品加工産業の発展、海岸地域の観光開発、豊里ニュータウンの建設等が進んだ[19]平成に入ってからは「総合保養地域整備法」に基づく「房総リゾート地域整備構想」の重点整備地区に指定され、観光拠点施設や広域幹線道路の整備が推進された[19]。銚子駅から飯沼観音に至る主要商店街の景観整備も順次実施された[19]。名洗港(地方港湾)は国の「海洋性レクリエーション拠点港湾」の指定を受け、千葉県内最大の収容能力[22]を有する「銚子マリーナ」を中心とした滞在型マリンリゾートとして開発され、あわせて隣接地に海浜緑地公園や海水浴場が整備された[19]。西部地区には風力発電施設が多数建設され、関東最大規模のウィンドファームを形成している[23]。近年は、子育て支援サービスの充実に加え、多極ネットワーク型コンパクトシティの構築等による持続可能な都市づくりが推進されている[24][25]

銚子半島の海岸一帯は水郷筑波国定公園の中心的地域であり、太平洋に臨んで白亜の灯台が屹立する犬吠埼英国ドーバー海峡ホワイト・クリフ)になぞらえて「東洋のドーバー」と称される[26]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦日本の渚百選に選定された白砂青松の君ヶ浜、地球の丸く見える丘展望館が建つ北総最高峰の愛宕山等、風光明媚な景勝地を有する千葉県随一の観光都市である。歴史文化遺産が多数存在する古都でもあり[23]、外川の歴史的町並みや伝統工芸品、漁業にまつわる祭祀や信仰は日本遺産に登録されている[27]。犬吠埼には化石海水源泉が湧出し[28]、海岸沿いに温泉宿が建ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している。毎年8月には、銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約5000発の花火が打ち上げられる花火大会[29]、約1000人の担ぎ手による銚子銀座通りの神輿渡御、伝統芸能「はね太鼓」の演舞が行われて銚子の街は祭り一色となる。年間を通じて約250万人の観光客で賑わい、東京・銚子間には特急列車しおさい」が運行されている[21]。港町の佇まいや海岸風景は多くの映画ドラマのロケ地となっており、「銚子フィルムコミッション」による積極的な支援活動が行われている[30]。市では、豊富な地域資源や立地条件を活用したシティプロモーションの展開により、移住・定住や長期滞在・交流型ワーケーションを促進している[31]

現役の西洋型第1等灯台の中では日本最古の灯台である犬吠埼灯台は、1866年慶応2年)に江戸幕府が英仏蘭米4国と締結した江戸条約に基づき、横浜北米間航路の重要な灯台として、その設置が明治政府と米国公使の間で商議されたのが最初であった[17]1872年(明治5年)、工部省招聘の英国人技師ブラントンの設計施行のもとに起工され、1874年(明治7年)に完成・初点灯し、文明開化の先駆けとなった[19]。造営にあたっては国産煉瓦約19万枚が使用され、耐震性を高めるため世界的に珍しい二重壁構造が採用された[32]。レンズはフランス製のフレネル式第1等8面閃光レンズであった[19]1910年(明治43年)に建設された霧信号所は、鉄造ヴォールト屋根の霧笛舎としては当時最大規模を誇り[32]、20馬力の吸入瓦斯発動機を原動力としてサイレンを吹鳴した[17]。歴史的価値の高さから国の重要文化財近代化産業遺産に指定され[32]世界灯台100選日本の灯台50選にも選定されている[19]。参観者数は国内の灯台の中で最多である[33]

銚子半島は奇岩怪石・断崖絶壁・白砂青松・怒涛等、変化に富んだ海岸美を有し、江戸時代の文化文政期には江戸在住の文人墨客が相次いで銚子の磯巡りに訪れ、和歌・俳諧・漢詩等に雅趣を述べている[17]。明治時代に鉄道が開通して以降は避暑客や海水浴客が増加し、東京近郊の別荘地として発展を遂げた[21]1905年(明治38年)、宮内省により犬吠埼に伏見宮貞愛親王御用邸「瑞鶴荘」が造営され、親王は毎年避暑・避寒にこの地を訪れた[34]。また、著名な知識人や国内外の文学者も避暑に訪れ、海辺の旅館や貸別荘に滞在して執筆活動を行った[35]竹久夢二の代表詩「宵待草」は、明治末期、海鹿島海岸で出逢った女性・長谷川カタへの悲恋を詠ったものである[36]財団法人公正会(濱口梧洞設立)の活動拠点となった公正会館は、公正図書館や公正学院を備え、銚子を中心とした文化の殿堂として発展した。公正会が主催した講演会や音楽会には各界の文化人が招かれ、銚子の文化的風土が形成されている[19]。文豪・国木田独歩の出生地であり[37]、海鹿島海岸の松林には「独歩吟」の一節である「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」を刻んだ碑が建てられている[38]

銚子は古くから野球が盛んであり、関根知雄田中達彦木樽正明杉山茂町田公雄渡辺進根本隆篠塚和典八木政義石毛博史窪田淳澤井良輔榊原翼等、数多くのプロ野球選手を輩出している。1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持する高校野球の名門校であり[39]1965年(昭和40年)と1995年(平成7年)に準優勝、1974年(昭和49年)に全国優勝を果たしている[40]。「黒潮打線」の異名を持ち、相馬御風作詞の校歌は広く全国に知られる[35]

銚子は千葉県唯一のジオパーク認定地であり、日本列島の地質構造を大きく二分する東北日本西南日本の境界断層付近に位置している[21]。銚子半島は愛宕山を中心として局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界基盤岩が露出している[21]。愛宕山・犬岩・千騎ヶ岩を構成する愛宕山層群は、中生代ジュラ紀に形成された砂岩泥岩からなる付加体で、千葉県最古の地質時代の岩石である[21]。愛宕山層群の上部には白亜系の銚子層群があり、アンモナイトトリゴニア等の恐竜時代化石を多産する[21]。犬吠埼周辺は漣痕化石等の浅海特有の堆積構造や生痕化石が観察できる場所として貴重であり[19]、国の天然記念物に指定されている[41]。さらに、愛宕山層群と銚子層群を覆う中新統が川口・黒生・長崎に分布しており、日本列島が形成された時代の古銅輝石安山岩からなる溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ヶ鼻層に二分される[21]。長崎の礫岩層からは、鮫の歯、鯨の骨、象の臼歯等の多様な化石が発見されている[21]。銚子半島南側の海岸線に広がる屏風ヶ浦の海食崖は、下総台地の地下構造が観察可能で、下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層に区分される[21]。屏風ヶ浦は江戸時代から景勝地として親しまれ、地質学上、また観賞上の価値が高く、国の名勝及び天然記念物に指定されている[42]

銚子の年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後であり、夏涼しく冬暖かい快適な気候である[43]。多くの自然が残る緑豊かな土地であり、人手の加わっていない極相林や多種多様な海岸植物が見られる[21]。君ヶ浜国有林は「銚子ジオパークの森」として、林野庁と銚子ジオパーク推進協議会の共同による保全・活用の取り組みが進められている[44]。近海には20種を超える野生のイルカクジラが生息しているほか、利根川河口付近は世界有数のカモメ探鳥地となっている[21]ミネラルを豊富に含んだ土壌と温暖な気候を生かした農業も盛んであり、主にキャベツダイコン等の露地野菜が栽培され、首都圏における生鮮野菜の供給基地となっている[45]。銚子の春キャベツは「灯台キャベツ」と名付けられたブランド野菜であり、生産量は全国1位である[45]。また、銚子メロンは糖度の高いことで知られ[4]、品質等が市場や消費者から高く評価されて、第16回日本農業賞を受賞している[19]

2020年(令和2年)7月、「海洋再生可能エネルギー発電設備の整備に係る海域の利用の促進に関する法律」(再エネ海域利用法)に基づき、銚子沖が洋上風力発電事業を推進するための促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として三菱商事等の共同事業体「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された[46]。促進区域内には13メガワットの大型風車31基が建設され、2028年(令和10年)9月に運転を開始する計画であり[24]、漁場実態調査や名洗港の建設補助・維持管理拠点港湾としての整備が進められている[47][48]。市は2021年(令和3年)2月、2050年(令和32年)までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることを目指す「ゼロカーボンシティ」を表明し、官民協働で再生可能エネルギーの導入を促進している[49]。市では、「銚子市ゼロカーボンビジョン」に基づき、地域新電力「銚子電力株式会社」と連携した再生可能エネルギーの地産地消システム(マイクログリッド)の構築、ICTを活用した漁場の可視化や藻場の育成による海洋環境の保全、AI(人工知能)やロボットを活用したスマート農業の推進、災害時の移動電源としても活用されるEVPHEVFCVの市内導入、都市緑化やブルーカーボン生態系による二酸化炭素吸収源対策等を進め[49]、豊かな自然環境と共生したエネルギー産業の先端都市の実現を目指している[50]

地理[編集]

利根川河口と銚子市街地

本市は千葉県北東端、関東平野の最東端に位置する。市域は東西に約16.2キロメートル、南北に約12.8キロメートルへと広がり、面積は84.20平方キロメートルである。市域の北部は利根川を経て茨城県と相対し、東と南側は太平洋、南西側は九十九里平野に続いている。東京から約100キロメートル、千葉市からは約70キロメートルの距離である。地形は、平坦な台地とそれを刻む谷津、利根川沿岸の段丘化した低地からなっており、太平洋に突き出した半島部分は、千葉県内で最も古い中生代ジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。太平洋に面した海岸は海食崖と砂浜が繰り返され、屏風ヶ浦等の海岸美がみられる。東端の海食崖上には犬吠埼灯台が設置されている。気候は海洋性気候であるため多雨で、夏涼しく冬暖かい[4]

海洋性の温暖で湿潤な気候、下総台地と利根川低地、更に海食と堆積による複維な海岸地形をもち、太平洋の沖合に好漁場が存在することが、本市の産業を特徴づけてきた。たとえば太平洋に面して温暖な台地上には野菜の特産地が形成された。また、海岸観光は本市の観光の中心となっている。土地利用を見ると、海岸の防風林や台地縁の斜面林等の山林を除けば、市域の約7割が農地及び宅地となっている。産業は、農業漁業醤油製造・水産加工を主とする製造業商業サービス業がそれぞれバランスよく成立している[4]。銚子は近世に東北地方江戸を結ぶ東廻り海運と利根川水運の中継港となり、紀州から移住した漁民や醸造業者によって都市が形成された。1933年昭和8年)には、銚子町本銚子町西銚子町豊浦村の3町1村が合併して市制を施行した。千葉市に次いで千葉県内で2番目の市制施行であった。更に1937年(昭和12年)に高神村海上村の2村が合併し、1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)にかけて船木村椎柴村豊里村豊岡村の4村を編入した。漁港・商工業地として千葉県下有数の都市となった本市は、千葉県東部全域から茨城県南部に及ぶ広大な地域を勢力圏内に含め、東総地域の中核都市としての強い独立性をもって発展してきた。古くから本市と茨城県鹿島郡波崎町を結ぶ利根川渡船が運航され、1962年(昭和37年)には銚子大橋が開通した[4]

銚子半島は、拳のような形で北側の鹿島灘と南側の九十九里浜とを分けるように太平洋に突き出している。鹿島灘の海岸と九十九里浜のいずれも緩やかな曲線を描く砂浜が、銚子半島では屈曲のある海岸線に変わり、短い砂浜と、切り立った海食崖の組み合わせがこの半島を特徴づけている。地形地質的には、海岸部が複雑で、その後方の利根川と九十九里浜とに挟まれた内陸地は、標高40から50メートルの関東ローム層を載せた平坦な第四紀層の台地とそれを刻む谷津、利根川に沿う低地とで成り立っている。市内で最高地点である愛宕山(73.6メートル)の丘陵及び海岸の所々にある岬と島には、千葉県内でも最古の中生代のジュラ紀から白亜紀の地層が露出している。これらの地層は硬く海食が進まず、複維な海岸線による海岸美が生み出された。銚子半島が中ほどでくびれた形になっているのは、突端部が全体として浸食されにくかったからである。住宅地のほとんどは利根川沿いの低地に連なり、また、本市の海岸観光は、複雑な海岸線と地形をその資源としている[4]

地勢[編集]

本市の地勢の特性は、丘陵性台地の発達と、これに伴う小規模の坂と谷との錯綜である。西方より延び来たった下総台地は、名洗・新生を結ぶ半島くびれ部の低地帯に終末を告げるが、先端部には最高73.5メートル(愛宕山)の34.5メートル(笠上町西端)内外の丘陵が連亘して、一帯の高台を形づくっている。この台地の飯沼に接する辺は、和田山・浅間山・前鬼山等の高地となり、清水坂・浅間坂等の傾斜を見せている[17]

一方利根川に沿う低地帯は、安是ノ海時代の名残りを思わせるような砂地で、松本・本城から松岸・余山にかけてのあたりには砂丘が残存する。これに対し、南方に急崖をなして迫る海上台地は50メートル内外の高原をなしているため、至るところに急坂が見られる。そしてこれらの台地の諸処に、浸食によってできた細い谷が帯のように深く入り込んでおり、いずれも耕作水田が営まれている。水田に恵まれない当地方にあっては、これらの谷が利根川沿いの地帯に次ぐ重要な米作地であり、最大限に利用せざるを得なかったのである[17]

南北狭小な地形のため、利根川以外にはこれといった河川は見られず、僅かに各々の谷から流入する細流があるだけである。その小川も太平洋側に流れるものは少なく、ほとんど利根川に注いでいる。半島で太平洋に入るものは、屏風ヶ浦の通蓮洞に注ぐ磯見川と、名洗から海に流れ出る小畑川の2川だけである。利根川に流入する河川は、東より滑川、清水川、八幡川、高田川、忍川等であるが、流路最長の高田川でも僅か7〜8キロメートルの長さである[17]

地形[編集]

屏風ヶ浦

本市の地形は台地と低地に分類され、更に台地は東側の半島部と西側の本土部に分けられる。半島部の西の端は名洗の谷と呼ばれ[43]、幅が狭く、くびれて低い谷部に連なり、谷は更に延びて本土部とのつねぎとなっている。本土部の三角形の北辺の利根川に沿ったJR総武本線までの幅約1.5キロメートルにわたる沖積地一帯は標高10メートル以下の平坦な低地帯で、ここに市街地が形成され市の中枢地帯となっている[43]

半島部は西から東に向かって突き出した拳のような形をなし、東西3.5キロメートル、南北6キロメートルの低い平坦な台地状をなしている。平坦上には残丘状の愛宕山が中央南寄りにあり、海抜73.6メートルの高さをもつ。飯沼観音を経て黒生に至る道路に沿った35.7メートルの高地が愛宕山に次いで高いところである。これは大きく見れば台地平坦面の一部であるが、愛宕山と共に銚子半島を東と西に分ける脊梁のようなものである。これより東は太平洋に向かってゆるく傾斜し、西は名洗の谷を隔て、本土の方の台地へ面している。太平洋に向かう部分は、元来25メートルから30メートルの高さであった平坦な台地が浸蝕されて、ゆるい谷が出来たものと考えられる。半島の西半、即ち榊町の平坦台地は関東地方一帯によく発達している段丘地形と全く同じ性質のもので、海抜25メートルから30メートルある。この台地は海の浸蝕作用によって出来た平坦面上に、成田層(砂礫層)及び関東ローム層(火山灰)が堆積したもので、広く千葉・東京・茨城方面に広がる武蔵野段丘の一部である。高神原町及び名洗町の北には、この段丘を浸蝕してできた新しい谷があり、泥炭を含む沖積層を堆積し、水田として耕作されている。谷に面し、少し低くなった段丘の端には、旧石器時代の人類遺跡がある。武蔵野段丘の生成は成田層を被うローム層によって示されるように洪積世後期であり、新しい谷が出来たのは沖積世である[17]。半島部の犬若から名洗を経て本土部に続く海岸線は高さ40メートルから58メートルの屏風ヶ浦の絶壁で、太平洋の波浪の海蝕作用により海岸線が大きく後退したものである[43]

名洗より西方は、本土部の関東平野の東端にあたり、九十九里浜と利根川に挟まれて三角に広がっている。利根川南岸に沿う幅1.5キロメートルの間は、幅10メートル以下の沖積平野であるが、それ以外に大部分は武蔵野段丘に相当する極めて平坦な台地である。この台地は半島西半の台地と全く同時代に、同じ成因によって出来たものであるにもかかわらず、その平均の高度が半島部よりも高い。かつ太平洋側の急激な海蝕作用のために、屏風ヶ浦が陸地に向かって後退するため、利根川と屏風ヶ浦との間の分水嶺は著しく南に偏っている。したがって、台地上の最高点は屏風ヶ浦の崖に接する[17]

半島東海岸の夫婦ヶ鼻から長崎に至る海岸は安山岩や白亜紀の砂岩古生代粘板岩等に保護されているため、第三紀の軟らかい地層の南海岸のように海蝕が著しくはないが、やはり険しい崖が発達している。武蔵野段丘形成後の河蝕は、利根川に向かうものと太平洋に向かうものの2系統に分かれる。谷壁は急傾斜の段丘崖を形成し、川と川の間には広い平坦面が残されており、武蔵野段丘を浸蝕しはじめた幼年期の地形を示している。この浸蝕作用が始まって間もなく陸地が沈降したために谷の下流の部分が沈水し、沖積層が堆積して、谷ごとに低い細長い平野が出来ている。愛宕山山麓の小畑池は、谷の下流が君ヶ浜の砂丘の発達によってせきとめられて出来たもので、昔は小畑・小畑池・君ヶ浜という方向に流れていたものである[17]

銚子半島沖では、海底の傾斜は60分の1内外であるが、陸岸から約4キロメートル離れた深さ20〜50メートルの部分に、直径2〜5センチメートルで丸く滑らかに水磨された礫が存在する。これよりも岸に近寄った部分には細砂ばかりの地帯が幅3キロメートルも続いているが、沖合遙かにはこのような礫や細かい砂がある。すなわちこれらの礫や粗砂は、波浪や海流等で現在の海岸から運搬されてきたものではなく、過去の産物が沈水したものである[17]

地質[編集]

犬吠埼 砂岩泥岩互層

銚子は地質研究の宝庫と呼ばれる[51]ほど、各時代の地層が市内随所に見られる。愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、この境界の東端はまだ確定していないため銚子の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている[21]。太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦等の地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している[21]

本市は地質学的にみても、東の半島部と西の本土部に分けられる。すなわち半島部には、古生代二畳紀層・中生代白亜紀及び頑火輝石安山岩を基底とする新生代第三紀層並びに第四紀層が存在するが、本土に属する部分には、新生代の地層以外には古い地層の露出が知られていない。愛宕山を中心として残っている古生層は、白亜紀の地層を堆積する時にその物質を供給し、更に新生代の地層が堆積を始めた時には、この古生層が白亜紀層と共に島のような形をしてそびえていた。本土方面の第三紀層は、この昔の島の西側に堆積し、非常にゆるやかな傾斜をもって西方に傾き、漸次上位に地層を重ねている[17]

愛宕山や犬岩、千騎ヶ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体である。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩砂岩泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイト等の化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は「銚子石」と呼ばれ、古くから建材等に利用されてきた。銚子の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分され、いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ヶ鼻層は本市北東端の夫婦ヶ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、銚子漁港建設工事により銚子ポートタワー下にわずか6メートル程度が露出するのみとなっている[21]

下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。本市の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝および天然記念物として指定されている[21]

土地利用[編集]

銚子大橋前交差点

本市の主要な市街地は2020年令和2年)国勢調査による人口集中地区がほぼこれにあたり、利根川沿いに銚子駅・飯沼観音・銚子漁港を中心として形成された地区で、面積9.6平方キロメートル、人口31947人(総人口の約50パーセント)、人口密度1平方キロメートル当たり3338.2人となっている[52]。市南部の外川漁港を中心とした地区にも人口が集中している。この2地区を連絡する主要道路・鉄道の沿線には、市街地の周辺部及び高神地区等の集落があり、国道356号沿いとその南側の台地の一部には、海上・船木・椎柴・豊里の各地区の集落が形成されている。また国道126号沿いには市街地の周辺部を経て豊里地区の集落がある。

商業地は市街地内に住居地と混在しているほか、郊外の国道126号沿いに大型商業施設(イオンモール銚子)が立地している。工業地は醤油製造等の工場が内陸部に、造船・機械製造修理・缶詰製造・水産加工等の工場が利根川沿岸及び銚子漁港周辺に立地しているほか、名洗港臨海工業地域、銚子漁港域内の水産物産地流通加工センター及び小浜工業団地等がある。高度経済成長期以降、市街地、特に利根川沿岸の中心市街地が世帯の細分化、産業活動の進展、地価の高騰等を背景に、主に国道126号、国道356号、県道銚子公園線県道外川港線及び銚子電気鉄道線沿線等に沿って拡大している。農業地は、利根川沿岸の平地水田地帯と東部及び南西部の丘陵性台地畑地帯からなり、その面積は2540ヘクタールで、市域面積の約30パーセントを占めている。このうち農振法に基づく農業振興地域は6868ヘクタール、農用地区域は2109ヘクタールである[52]

本市では、2019年(令和元年)策定の「銚子市総合計画基本構想」に土地・周辺海域利用方針が示されており、その基本方針は「まちの賑わいを育み、人や自然にやさしいコンパクトな都市構造への展開と地域の特性を生かした土地利用の推進」とされている[53]。各種の個別法等による規制としては、「自然公園法」に基づいて、川口町から犬吠埼を経て、屏風ヶ浦に至る太平洋沿岸部の陸域・海域一帯と四日市場町から上流の利根川沿いの陸域・水域一帯が水郷筑波国定公園の第二種特別地域第三種特別地域として指定されている。また、「千葉県立自然公園条例」に基づく屏風ヶ浦一帯と七ツ池を含む内陸丘陵部は県立九十九里自然公園普通地域に、猿田神社周辺の森は千葉県郷土環境保存地域に指定されている。愛宕山頂附近は「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」に基づく景観形成地区である。いずれの区域についても法・条例に基づき、すぐれた自然環境の保全・活用を図るために各種開発行為が制限されている[19]

気候[編集]

日本列島近海の海流
1.黒潮 2.黒潮続流 3.黒潮再循環流 4.対馬暖流 5.津軽暖流 6.宗谷暖流 7.親潮 8.リマン寒流

本市は太平洋に突出し三方を海と河に囲まれ、また、沖合が黒潮と親潮が交わる寒暖流の交錯地点であることにより、日夜の気温差は僅少であり、年間平均気温は15度、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい住みよい気候である[43]。湿度は夏に高く冬は低いが、年平均75パーセント前後と内陸方面に比べて相当高い。いわゆる海洋性気候の土地であり、降雪も降霜も少なく、極めて僅かの量である。年間降水量は1700ミリメートル以上あり、冬は晴天が続く。年間の晴曇は相半ばし、降雨日数は平均約127日であり、千葉県内でも雨が多く、雨と黒潮の影響により濃霧の発生する日が多い地域である。この気候が良質の醤油を生んだ素因であり、また、寒暖流の交錯地点である沖合は全国屈指の好漁場となっている。年間を通して比較的風が強く、無風の日は僅かであり、一日の中でも風向の変転が急激である。例えば、春季の風は北東から南東で、午前中は北東から吹き、午後は南東に転じ、夜間は北東に帰る。夏季は南東から南で、午前中は南東より吹き、午後はやや東に偏り、夜間は南東に転ずる。秋季は北東が多く、午前中は北東より吹き午後は東に偏り、夜間は北東となる。冬季は北西から北で、午前中は北と西の間より吹き、午後より日没までは北から北北東に転じ、夜は北西より吹く、といった具合である[43]

外洋に面しているため、東京湾内に比べて干満の差ははるかに小さくなっている。普通は潮の満ち引きは1日2回起こる。銚子では朔と望、すなわち新月と満月の時はそうであるが、上下弦すなわち月が半分に見える時は、1日1回の満ち引きとなる。これを日潮不等と呼ぶ。そして朔望の時が干満の差が大きく、このうち特に干満差の大きいのが大潮である。また二回潮でも、5月から9月までは昼間の方が夜間より干満差が大きく、反対に10月から4月までは夜間の方が大である。大潮は旧5月または6月15日頃、昼間の干満差が最大に達する時で、銚子では旧暦6月15日に盛大な大潮祭りが行われる[17]

銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 23.6
(74.5)
24.0
(75.2)
23.3
(73.9)
25.9
(78.6)
29.5
(85.1)
32.0
(89.6)
34.8
(94.6)
35.3
(95.5)
33.7
(92.7)
30.6
(87.1)
25.4
(77.7)
23.4
(74.1)
35.3
(95.5)
平均最高気温 °C°F 10.1
(50.2)
10.3
(50.5)
12.8
(55)
17.0
(62.6)
20.5
(68.9)
23.0
(73.4)
26.6
(79.9)
28.6
(83.5)
25.9
(78.6)
21.5
(70.7)
17.3
(63.1)
12.7
(54.9)
18.9
(66)
日平均気温 °C°F 6.6
(43.9)
6.9
(44.4)
9.7
(49.5)
13.8
(56.8)
17.4
(63.3)
20.2
(68.4)
23.5
(74.3)
25.5
(77.9)
23.4
(74.1)
19.2
(66.6)
14.4
(57.9)
9.3
(48.7)
15.8
(60.4)
平均最低気温 °C°F 2.9
(37.2)
3.3
(37.9)
6.4
(43.5)
10.7
(51.3)
14.8
(58.6)
17.9
(64.2)
21.2
(70.2)
23.3
(73.9)
21.3
(70.3)
16.8
(62.2)
11.1
(52)
5.7
(42.3)
13.0
(55.4)
最低気温記録 °C°F −6.2
(20.8)
−7.3
(18.9)
−4.3
(24.3)
−0.2
(31.6)
4.3
(39.7)
10.2
(50.4)
13.0
(55.4)
15.9
(60.6)
11.2
(52.2)
4.5
(40.1)
−1.3
(29.7)
−4.6
(23.7)
−7.3
(18.9)
降水量 mm (inch) 105.5
(4.154)
90.5
(3.563)
149.1
(5.87)
127.3
(5.012)
135.8
(5.346)
166.2
(6.543)
128.3
(5.051)
94.9
(3.736)
216.3
(8.516)
272.5
(10.728)
133.2
(5.244)
92.9
(3.657)
1,712.4
(67.417)
降雪量 cm (inch) 0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
平均降水日数 (≥0.5 mm) 8.2 9.1 13.0 12.3 11.3 12.3 10.4 7.4 11.8 13.3 10.6 8.7 128.4
平均降雪日数 4.5 6.0 1.7 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.9 13.1
湿度 62 64 68 74 82 88 90 87 84 77 72 66 76
平均月間日照時間 179.8 159.0 168.9 183.0 188.9 142.3 174.0 221.3 159.0 137.9 140.1 163.7 2,017.8
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[54][55]

植生[編集]

犬吠埼崖地植生群落

本市は海岸一帯を中心に水郷筑波国定公園や千葉県立九十九里自然公園風致地区に指定され、各種法令により開発行為が制限されている。このため比較的多くの自然が残り、貴重な植生や環境に適した変化を遂げた植物を見ることができる。銚子の森は照葉樹林で一年中緑豊かな土地であり、人の手が加わっていない環境の中形成された極相状態にある森林の中で最も広く見られるのは、スダジイタブノキが茂った照葉樹林で、古い寺社の社叢林や丘陵の傾斜地で見ることができる[21]

社叢林のうち「渡海神社の極相林」と「猿田神社の森」が千葉県指定の天然記念物である。南向きの乾きやすい斜面や急な尾根の潮風の影響がやや強い場所はスダジイの林で、林の中にサカキヤブニッケイなど常緑の低木があり、地表にはヤブコウジベニシダ等の草本類が生えている。やや北向きの斜面や深い谷、沢沿いの湿った環境にはタブノキが多く、林の下はアオキが、地表はイノデが主体である。遠望すると青みがかったタブノキの密な樹冠が特徴的である。海岸線の植生も特徴的で、「外洋性海岸砂丘地」の君ヶ浜一帯は、コウボウムギネコノシタハマゴウオオマツヨイグサ等を見ることができる。「犬吠埼崖地植生群落」や「犬若海岸崖地植生群落」では、海岸崖地の厳しい環境下で生育するイソギク、タイトゴメ、ハチジョウススキ、ヒゲスゲ等の植物群落がある。このような「崖地植生」は屏風ヶ浦に面する海食崖付近でも確認できる[21]

利根川の河川敷にはヨシ原が広がり、マコモガマ類、オギ、イソギクカサズゲ等が観察できる。ヨシ原に混じって見られたタチヤナギ群集は、河川改修が進む過程で断片的なものとなっている。利根川沿岸の浜堤上に形成された東光寺には千葉県の県木であるイヌマキがまとまって生育しており、銚子市指定天然記念物である。この地域では、利根川方向から吹く「筑波おろし」の北風を防ぐためにイヌマキを屋敷林として利用する家が数多く見られる[21]

生態系[編集]

銚子海洋研究所

本市には約150種の鳥類が生息している。利根川河口から長崎鼻までの沿岸部は千葉県内有数の渡り鳥の渡来地で、2012年(平成24年)度から千葉県の「銚子鳥獣保護区」に指定されている。利根川河口では冬になると多くの種類のカモメウミネコウミウ、海洋性のカモ等が飛来する。最も多いのはウミネコやセグロカモメで、外洋性のミツユビカモメも時折見ることができ、本市は日本だけでなく国際的にも有数のカモメのバードウォッチングに適したエリアとなっている[21]。黒生海岸や屏風ヶ浦等では、イソヒヨドリハクセキレイ等が周年生息していることが確認され、屏風ヶ浦の上をハヤブサチョウゲンボウ等の猛禽類が飛行している姿が確認されている[21]

冬や春になると、黒潮の流れにのって様々な海洋生物が沿岸を回遊し、1年を通じて20種類以上の野生の鯨類[注 3]キタオットセイ海鳥等が現れる。中にはアカウミガメの様な絶滅危惧種も含まれている[56]。これらの生物を観察するための観光船による屏風ヶ浦等のクルージングも兼ねたホエールウォッチング業が行われている[57]2020年(令和2年)には絶滅危惧種のセミクジラの親子が目撃されており[58]、これは日本列島の沿岸では36年ぶりで3件目の確認例であり、観光ツアーが親子に遭遇した世界初の事例であった[注 4][59][60]。また、絶滅危惧種であるナガスクジラ回遊も確認されており[61]コククジラ[注 5][62]シロナガスクジラ[注 6][63]の様な非常に貴重な種類が出現する可能性もある[56]

陸棲の哺乳類では、千葉県レッドデータブックに掲載されているアカキツネ(重要保護生物)やニホンアナグマ(要保護生物)、カヤネズミニホンジネズミ(一般保護生物)等の貴重な野生哺乳類が生息していることが確認されている[21]

また、後述の通り明治期まではニホンアシカが沿岸に生息しており、犬吠埼[64]や海鹿島[65][17]等の地名の由来にもなったとする説も存在する[注 7][66]

人口[編集]

市人口は1950年代まで増加し、以後は横這いから漸減方向に進んでいる。これは、病気による死亡等の自然減少に加えて、社会増加分を超えて就業や進学等のために転出した社会減少が多かったことによる[19]。世帯数は、共働き世帯の増加、女性の社会進出、核家族の増加等により増加し、近年は2万5000世帯を超えている[52]。通勤通学による流入人口をみると、2020年(令和2年)において本市に流入するのは、茨城県神栖市2516人、旭市2410人、東庄町542人、香取市536人、匝瑳市286人の順で多く、利根川流域、九十九里方面の市町との関連が強い[52]。本市は「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」に基づき、生産基盤の整備、人材育成、創業支援、洋上風力発電施設の誘致、シティプロモーションの推進、移住・定住の促進、子育てサービスの充実、地域包含ケアシステムの構築、長期滞在・交流型ワーケーション推進等の施策を進めており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[68]

  • 年齢区分別人口(令和2年国勢調査
    • 総数(年齢不詳を含む) 58431人
    • 世帯数 25544世帯
    • 年少人口(0〜14歳) 4470人(7.7%)
    • 生産年齢人口(15〜64歳) 31241人(53.5%)
    • 老年人口(65歳以上) 22053人(37.7%)
    • 不詳 667人(1.1%)
  • 15歳以上就業人口(平成27年国勢調査)
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 銚子市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

銚子市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


隣接自治体[編集]

歴史[編集]

地名の由来[編集]

盃と銚子

銚子の地名の起源は、利根川の形状が酒器銚子に似ているところから生じたものである、というのが定説になっている。徳利を銚子と呼ぶようになったのは近世末期あるいは近代に入ってからのことで、銚子と徳利は元は別のものであった。銚子という器と名称は、10世紀に成立した「和名類聚抄」に既に見られるが、それによると日本名では「さしなべ」といった。「さしなべ」とは注ぎ口の付いた鍋のことで、上には握り用の鐶が付いていた。大きさは普通の鍋より小さく、ものを温めるために使われた。中世になると現代でも神前結婚式で使われている酒器を、銚子と称するようになった。これは両口のものと片口のものがある。そして近世になると提子のことも銚子と呼ぶようになった。このように銚子の形は古代、中世、近世と時代が下るに従って変わってきたが、その共通点は、酒をその中に入れる口と、そこから注ぐ口が別になっていることである。銚子の本体は表面積の広い容器で、蓋の有無にかかわらず、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れる。そして杯に酒を注ぐときは、本体に付いている小さな注ぎ口から注ぐ。これが銚子の形の特徴である。なお徳利と同じ形状の酒器を古代に求めれば瓶子があり、瓶子は神事に用いられている。利根川は内部の川幅が非常に広いにもかかわらず、河口付近が極端に狭くなっている。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒が注がれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こった[19]

銚子地方の上古の地名は不明であるが、銚子地方を含むより広い地域名としては、神話時代紀元前のこととして、既に「総ノ国」の名が起こっている。2世紀頃になるとこの総ノ国は10国に分けられ、銚子地方はその一つである「下菟上国」に属することになった。更に6世紀になると、総ノ国は「上総国」と「下総国」に分けられた。また下菟上国は「下海上国」と書かれるようになった。7世紀大化改新によって国郡里の制度が定められると、下海上国は廃されて「海上郡」となった。この時の里名はわからないが、8世紀に里は郷に改められた。そして10世紀に成立した「和名類聚抄」では、銚子地方は「三前郷」となっている。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。三前郷の範囲は、おおよそ戦前の本市の範囲以内である。古代末期から中世初頭に、銚子地方は荘園になり、三前郷は「三崎庄」と呼ばれるようになった。中世の中期以降になると、時として「海上庄」と呼ばれることもあった。また中世になると、庄より小さい地域の地名も史料の上に現れた。飯沼・荒野・本庄(本城)・垣根・野尻・笹本等である。表記は仮名書きであったり、漢字仮名交りであったりして一定していないが、いずれも近世の村名に一致する。近世になると、銚子地方の村の名は全て明確になる。戦前の市域の範囲では、高神・飯沼・新生・荒野・小川戸・辺田・三崎・松本・本城・長塚・松岸・垣根・芝崎・四日市場・余山・三宅・赤塚の諸村である。それにもかかわらず、近世には銚子という地名が存在しており、少なくとも関東においては、これらの村名よりもはるかに世に知られていた[19]

「正保日本図」は、別名「正保古国絵図」ともいわれる。この地図は徳川幕府1644年正保元年)12月諸大名に令して領内の図を献上させ、それを編成したもので、西欧の測量術により一定の縮尺に基づいて作られた、極めて優秀な地図である。その中に銚子の名を見ることができる。すなわち常陸の府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口一里廿四丁」と記されている。このほか、房州小湊付近には「常州銚子湊十八里」とある。以上のことから、1644年(正保元年)当時、既に「銚子口」「銚子湊」の名が起こっていたことがわかる。この時期の「銚子湊」という名称はまだ利根川の内水面の呼称にとどまっていて、その後におけるように、沿岸の陸域をも包含した地名にはなっていなかった。同様に「銚子口」も利根川の河口の名称にすぎなかった。慶長年代には、銚子が既に海運上の要地として注目されていた。そしてこれより早い時期から、海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。常陸・下総両国の岸が迫ってくる河口を通過して中に入ると、豁然と広い水域が展開する光景は、これらの船舶の乗組員や海運業者に強く「銚子口」の実感を与えた。正保・寛文期の銚子は、東廻り海運の確立と並行して、紀州漁民によって開拓されつつあった漁業が発展し始め、農村から港湾都市・産業都市へと大きく飛躍しようとしていた。そこで「銚子口」に始まった「銚子」という名称も、単に「銚子口」「銚子湊」等水域の名称にとどまらず、やがて沿岸の陸地名として定着した。水上を生活の場とする船舶乗組員にとっては、銚子湊の沿岸地域が幾つもの村に分かれ、それぞれ固有の村名をもっていたとしても、これを一括して捉えた方が、簡単で都合の良い場合が多かった。その場合、銚子湊の沿岸だから銚子となるのは当然であった。江戸との交通が頻繁になるにつれて、この呼称が江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地方を下総の銚子として認識するようになった[19]

銚子とは銚子湊の沿岸地域としての港湾機能を有する地域の名であり、さらにこのことを中心として発展した産業都市的機能を有する地域の名である。したがって、銚子の明確な境界はなく、飯沼・新生・荒野・今宮の4村を中心とし、適宜に周辺の村々をも含めて、銚子と称していた。この汎称は、近代に入って1889年明治22年)4月1日に「市制町村制」が施行された時、初めて行政区画名になった。すなわち飯沼村が単独で町制を施行した本銚子町と、新生・荒野・今宮の3村が合併した銚子町である。それから2年後には、松本・本城・長塚3村合併の伊豆原村が西銚子町となった。そして1933年昭和8年)、これら3銚子町と豊浦村(辺田・三崎・小川戸3村合併)が合併して「銚子市」が発足し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て、近代の単一都市名に到達した[19]

原始[編集]

旧石器時代[編集]

銚子半島に人が住むようになったのは旧石器時代であり、初めて人類がこの半島に住みつき、自然採集経済の生活を営むようになった。海上台地の密林を背に、三方を太平洋に臨む銚子は、狩猟に漁労に定めて彼らの豊かな生活を保障していた。早期縄文式土器の破片が屏風ヶ浦断崖地帯に往々発見され、また旧豊岡村小浜にその包含地が見られる。銚子に最も早く人間の生活した舞台は、波浪によって失われた台地上に及んでいた[17]

縄文・弥生時代[編集]

縄文時代の銚子半島

縄文時代前期遺跡は愛宕山・西小川町荒野台に、また前期より中期にまたがる遺跡として南小川町粟島台遺跡があり、後期より晩期に続くものとして余山貝塚が挙げられる。台地より低地帯へと下降する縄文人の通則は、銚子においても当てはまっている。前記の遺跡中、粟島台遺跡と余山貝塚は、銚子の先史時代遺跡として重要なばかりでなく、日本考古学上からも特筆される著名な遺跡である[17]

粟島台遺跡は南小川町・県立銚子高等学校の南方、海抜15メートルの台地で、前期から中期にかけての諸遺物を包含する遺跡である。1933年(昭和8年)3月、下総地方の遺物採取をして歩いた好古家吉田文俊が乱掘して、石器土器多数を得たのが最初である。その場所は北側の徳兵衛所有地であったが、当時の遺物は全く所在不明で、僅かに一部が市内に残存している。この地にまず住みついた前期縄文人は、台地の高所に住居を営んだが、当時はその近くまで海水が侵入して、貝類の棲息に適していた。そして当時はまだ台地の西南方には集落の存在が認められなかった。しかしそれから若干の年代を経た前期末から中期初頭にかけては漸次西南方へと居を遷していき、その一部は台地下方の低地に集落を営んだものもあった。本地方にあっては、対岸鹿島郡の砂丘陵地帯にも後期遺跡の分布を見る。古典にいう安是ノ海は浅瀬ノ海の意で、砂洲の発達と利根沿岸の沖積地化は、彼らの生活適地をもたらしていた。したがって集落は相当に発達し、作られた土器や石製品にも豊かな生活が反映されている。粟島台遺跡から採取された石器のうち、硬玉製飾石と琥珀製飾石は異色あるものである。琥珀はこの地に近い外川の石切場からも発掘され、また海岸においても往々採取されており、粟島台は石器時代における琥珀の原産地の一つであった。この地方の縄文人はこれを活用して各種の資源を他からも獲取しており、黒曜石や硬玉が琥珀との交易品であった。イルカクジラの乾肉も、近隣の集落や遠い山手の人々との物々交換材料となった。このように、粟島人は満ち足りた生活を繰り返しながら、数百年を経過していった[17]

みみずく土偶(余山貝塚出土)

余山貝塚は高田川に面し国道と成田線鉄路に挟まれた一帯の貝塚で、日本考古学上、大森貝塚東京都品川区大田区)と並んで最も古くから知られ発掘された遺跡である。1897年(明治30年)頃に江見水蔭大野雲外(延太郎)・和田千吉・松村瞭等の来訪発掘が相次ぎ、特に江見水蔭は前後5回にわたって発掘、多くの遺物を採取して帰ったが、その時の模様を「地中の秘密」に著している。また大野雲外も1907年(明治40年)頃2回ほど発掘し、その著「土中の文化」の中に記録している。この風潮は地元にも及び、旧成田町大野市平(旅館主)・吉野長太郎(銚子商業学校教諭)等のマニアを生んだ。両名が余山から発掘採取した遺物は相当量に及ぶも、散逸して明らかでない。吉野は「コロポッグル喰ひ遺したり四千年」の一句を余山原頭コンクリート製の標柱に止めてこの世を去っている。上述の2遺跡は、銚子の縄文時代の二大集落の廃墟であり、一面にまた中期から後期・晩期にかけて大集落が発達し、それ以前には散在生活していたことを示している[17]

次いで西日本より波及してきた農耕文化に同化融合され、弥生式土器時代に入った。銚子には未だこの顕著な遺跡は発見されていないが、その石器と土器片は台地並びに周辺各所から採集されている。これは沃壌の農耕適地に乏しい半島の丘陵地帯のためで、銚子地方の弥生式文化は、絢爛たる花を咲かせることなく、ほどなく次の時代に移っていった[17]

古代[編集]

古墳時代[編集]

和名類聚抄


-下総国
-東海道

古墳時代には、いわゆる東国開拓と称されて記紀に載る外来東漸の大氏族が各々進出して逐次勢力を拡大するにつれ、土着の小氏族・住民はその傘下に統合されていった。下総は早くから東国に進出していた武蔵国造を中心とする出雲族の勢力下にあり、常総境辺には香取鹿島両神宮を中心に天神系の中臣が控え、これに安房より北上した忌部氏が繁栄していた。常陸の東南隅のこの地帯は、行政区割が茨城県となっても実質は千葉県銚子に依存してきたが、これが原始時代にあっては下総との相関は更に密なるものがあった。縄文時代の遺跡の分布は利根川西岸及び屏風ヶ浦沿岸から、粟島台遺跡に近い東端部にも及んでいるが、古墳の存在は東端部にほとんどなく、松岸付近以西と旧豊岡村に多く存在する。また集落遺跡として相当に面積の広いところは、三崎町付近と松岸駅付近、旧鹿島郡矢田部若松両村に認められる。「和名類聚抄」に見える三前郷・三宅郷・船木郷は、いずれもそれらの古代集落を基として起こったもので、後の銚子港は三前郷の津として発達し、銚子の起源となっている。各所に散在する土師器散列地は集落すなわち庶民の生活遺跡を示しており、安是ノ海(後の利根川)沿岸の低地帯が庶民生活の舞台であり、鹿島台地と海上丘陵の高燥地は首長の占拠するところであった[17]

古語拾遺」によれば、1世紀余には総ノ国開発は相当に進み、 135年成務天皇5年)には印波武社上菟上・下菟上・菊間・馬来田・須恵・伊甚長狭安房の10国に分けられ、各国造が置かれた。海上郡はこのうち下菟上国にあたり、印波・下菟上両国が後の下総である。下菟上は後に下海上と書かれ、東は安是ノ海を隔てた常陸国鹿島郡南部(茨城県)、北は香取郡の大部、西は匝瑳郡全部、それに海上郡を加えたもので、ほとんど東下総の大半であった。南の方、太平洋に面しては房総第2の大湖「椿海」(江戸期末に干拓されるまでは印旛沼に次ぐ海瀉湖)と湿潤地帯があったが、屏風ヶ浦海上にはまだ浸蝕海没しない陸地が存在していた。銚子の地はこれら海没した集落に北接する農漁村として、下海上国の東隅に偏在していた[17]

飛鳥・奈良・平安時代[編集]

大化改新に際し、中央集権を確固たるものにするために諸国には国司、諸郡には郡司が任命された。海上国造が廃されて海上郡司が置かれたのもこの時であった。海上郡家は海上台地に設けられ、葛飾郡の下総国府に属した。郡郷の秩序が備わって地方制度が確立してから、奈良時代の東下総は海上郡15郷、匝瑳郡18郷、香取郡6郷となった。上代の海上郡は旧大倉村あたりから銚子半島へかけて15郷を統轄した上郡であったが、銚子半島の古郷は、大体、石田・石井・橘川・横根・三前・三宅・船木の7郷があてられる[17]

銚子半島は上海上国造の都邑をへだてること東方10里、その中枢から離れていたが、豊かな水産物を供給する重要な経済地帯としてその統治下にあった。西方は椿海(当時は既に淡水であった)に面する農業集落、石井・須賀・横根の各郷が連なり、東方は安是ノ海(後の利根川であるが、当時は全く海水であった)に沿う漁業を主とする集落が多く、その間に皇室直轄の三宅や特殊職業に従う船木部の郷が交じっていた。したがってこれらと交渉がある中央政府(大和)や地方官衙の役人の来訪もあり、文化の波及も全くの僻地農漁村とは違っていた[17]

  • 三前郷 - 本市東半部が該当する。市内に三崎町があり、旧豊浦村大字三崎の後身で、その遺名である。半島の地形によって上代より名付けられたものであり、中世に三崎庄55郷を包括していた。安是ノ海に面した半農半漁の集落に端を発し、後には三崎ノ津としての機能も加わって発展した[17]
  • 三宅郷 - 本市三宅町(旧海上村大字三宅)が遺称で、屯倉より起こった地名である。王朝時代に海上国造が大和朝廷に帰属した際、すぐにここに皇室御料の収納倉庫が置かれた。以後、鎌倉時代に至ってもここは中央貴族の所領であった[17]
  • 船木郷 - 船木町(船木村大字船木台)・小船木町(椎柴村大字小船木)が遺称で、両村一帯がその故地であった。相接する旧豊岡村大字塙に船木権現と呼ぶ古社があり、そのあたりまで域内であった。内海、外洋に面し、造船の用材を扱う船木部の旧地で、他の諸国にも多い地名である。光仁天皇紀に、776年宝亀7年)、安房・上総・下総・常陸4か国に命じ、軍船50隻を造らせて陸奥に送るとあり、この時この船木部は大いに活躍した[17]

万葉集」には、常陸の国司高橋虫麻呂が中央から派遣されてきた検税使大伴卿を送って、常陸鹿島郡刈野橋に別れる時詠んだ歌がある。その歌に三宅滷とあるのは、当時この沿岸は海に面して干潟が諸所にあり、その一つの三宅郷につづく干潟を指称したものである。これが常陸への渡津となっており、更には常陸から遠く蝦夷地陸奥への要津ともなっていた。そのため造船も行われ、船木部の集落が栄えていた。三前・三宅・船木の3郷が市域に該当し、奈良朝の残存戸籍に基づいて銚子付近3郷の人口を算定すると、3900人と推定される。松岸町に土師器を伴う貝塚が多く、また各所に遺物が発見されているが、これらの庶民の生活した集落の面影を止めるものである。また旧船木村内に散在する小古墳や横穴は、船木部の首長との関連を示している[17]

平安朝に入った頃の銚子には、まだ仏寺らしいものはなく、ようやく中世以降から現れ、当初は天台宗系寺院であった。常世田の常燈寺新義真言宗であるが、当初は天台系であり、東下総最古の藤原時代作になる木造阿弥陀如来坐像を伝えている。常世田は常陸から安是ノ海を渡って三宅・三前各郷を通り、横根郷から匝瑳へ行く枢要な往還の中間に位置し、相当繁昌していた微証をのこしている。市内切っての古刹円福寺や野尻の東光寺等も、その頃前後してできた天台系の仏寺であり、平安朝から鎌倉へかけては念仏道場として殷盛を極めた。両寺が新義真言宗となっているのは、中世の真言宗振興活動による改宗の結果である[17]

中世[編集]

鎌倉・室町時代[編集]

千葉常胤

1185年文治元年)、源頼朝は各地に守護地頭を設置し、以後の各時代の封建制度の基礎をなした。この時代に、下総国守護として銚子地方に君臨した武士は、千葉常胤であった。常胤は鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣であり、頼朝の信任が厚かった。彼は6人の子を下総各地に分封したが、その子孫は後世までながく房総の名族となっている。それは全く頼朝との緊密な主従関係の賜物である。本地方は東ノ庄に属する海上ノ庄(旧三崎庄)に該当するが、6男胤頼がこの庄を拠点として東氏を称し、その孫胤方が海上ノ庄を与えられて海上郡船木郷中島城を居城に海上氏を名乗り、それぞれ権威を振っている。いずれも鎌倉幕府にひときわ忠勤した重臣で、「吾妻鏡」に散見するところによって、いかに頼朝の信任が厚かったかを知ることができる[17]

海上氏の信仰であるが、彼らはこの地を領すると、まず海上八幡を崇敬し、社殿を営み神田を寄せて海上50余郷の総鎮守とした。鎌倉時代の武家信奉の神社は、特に関東にあって八幡宮が多い。これは頼朝が石清水八幡宮を勧請して、鎌倉鎮守鶴岡ヶ八幡とした関係から、麾下の武将が競って領内の八幡宮を盛んにし、あるいは勧請したためである。千葉氏は祖宗以来妙見信仰を奉じ、その一族は必ず城内邸地にその祠を置く慣習となっていたが、海上氏もその例に洩れない。本城町の海上氏館址には妙見宮が遺存して、字名も妙見の称となっている。妙見を氏神として、別に八幡宮を領内鎮守としたのは、鎌倉との関係によるものである。千葉氏は早くから時宗の熱心な帰依者であったが、後には一族に禅宗を信じる者も多くなったのも、鎌倉の影響によるものである。海上氏についても、その微証が認められる。岡野台等覚寺付近から発掘された金銅経筒は、海上胤方が悲母禅尼のため埋納したもので、彼の母も禅宗の帰依者であった事実を示している。胤方が禅宗を信奉していたかどうかは不明であるが、平安期に盛行し鎌倉時代に全く衰微した埋経思想が下総の一隅に遺っていたことがわかる[17]

社会不安に帰趨を失った農、庶民の心を捉え、その精神生活の拠りどころとなったのは、折しも勃興した新仏教の浄土思想であった。阿弥陀観音勢至の来迎三尊をはじめ、薬師地蔵等の現世利益の思想は村から村へ広まり、これらを安置する仏堂も各所に設けられ、人々はこれを中心としてを結ぶようになった。この講は村落結合の地域団体として、その後の村生活の改革向上に寄与するところが大であった。銚子に伝わる各種講のうち、念仏講等はこの時の名残りである。浄土教は鎌倉時代に入って法然一派の弥陀浄土極楽思想によってますます隆盛となり、下総各所に遺る在銘無銘の当該時代三尊は20数躯に達している。銚子にあっても野尻の東光寺が著しい例で、室町時代末期に真言宗に改宗するまでは、阿弥陀信仰の念仏道場としてこの地方の中心をなしていた。東光寺の支配下にあった真言宗円福寺も、同じく念仏道場として栄えていた。東光寺では、真言宗になってから江戸期にいたるもなお盛んに弥陀念仏が行われていた。当代の仏像として現存するものには、長塚の円勝寺に木造薬師如来像があり、鎌倉期の製作として優秀である。その頃の衆庶の信仰礼拝する薬師堂にあったものが、後世に遺留されて円勝寺に伝わったと見られる[17]

こうした信仰の所産として鎌倉中期から供養塔婆の造立が盛んとなり、武蔵の青石塔婆と並んで下総地方に銚子産硬砂岩の板碑が盛行したが、これは武士や土豪等の上層階級に止まった。次の室町時代末頃からは庶民の共同造立が現れてくる。この下総式板碑は鎌倉時代中頃から香取郡を中心に、北限は利根川沿いに印旛郡下に及び、また西は匝瑳郡にわたって分布している。海上・香取・印旛・東葛飾の各郡では、この石材を使った組立式石棺あるいは石槨が盛んに発掘されている。下総の古墳や板碑に使われている黒色の砂岩は、中生代白亜紀の生成で、黒生の銚子寄りの産である。かつての黒生瓦の原料砂土は、この岩石の風化土壌であった。石に恵まれない東下総一帯において、岩石に富む銚子半島は重要視され、早くからこの方面で採石されたものが舟や筏によって水辺沿いの東下総地帯に供給されていた。下総式板碑はこれら古墳の材石と全く同じもので、これを利用した可能性も高い。同じ砂岩でも赤褐色の軟砂岩(これも白亜紀砂岩でこの方は化石を伴う)は、後も盛んに発掘されていた。この石は、室町末期から江戸時代にかけて、五輪塔宝篋印塔に盛んに使われている。海上・香取・匝瑳の郡下各寺院に、その遺品は夥しくあって、当時の銚子にはこの石工に携わるものが相当あり、一つの大きな産業となっていた。かつては犬吠埼灯台の付近一帯からもこの石が切り出されていたが、昭和初め以降は風致保全のために禁止となり、諸所に採掘跡をのこすだけとなっている[17]

この時代の民衆信仰と銚子について特筆されることは、坂東三十三観音霊場が新設され、第27番札所に銚子の飯沼観音が指定されたことであった。その理由は、鎌倉幕府に重きをなした東氏・海上氏の支持するところであるのみならず、その推挙があったためである。飯沼観音に巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると、門前町は次第に活況を呈し、まず発達したのは旅宿と遊女屋であった。そしてこれまで他からの影響感化をほとんど受けることがなかった水辺の村が、外来者による影響を受け、その生活の上にも変化を来たしていった。第26番の常陸国筑波清滝寺から十数里の行程であり、陸路によるも水路によるここに一泊を余儀なくされた。またここから第28番の滑川観音へも十数里と恰好の仲継宿であり、これが銚子市街の起源となった[17]

銚子の地形から、交通運輸の路線は水上と陸路の両者にあった。鹿島郡軽野あたりは下海上国に属し、この地への安是ノ海を渡る交通路が早くから開けていた。この交通路は野尻の渡津から古道が一つは西へ香取神宮から香取郡家の方面へ、他の一つは海上郡家(香取郡東庄町今郡)より海上国造の地(同郡旧古城村から大寺あたり)へ、更にもう一つは猿田から常世田を通って横根(旧飯岡町)を経て匝瑳郡家(旧八日市場市生尾から中村方面)へと通じていた。また一方、常陸国府石岡市)や板来(潮来)方面への水上交通も相当盛んであった。降って鎌倉時代に入ると、関東地方には鎌倉幕府直参や恩顧の武将豪族が割拠しており、いわゆるいざ鎌倉の時に馳せ参ずる鎌倉街道が放射状に各地に達していた。頼朝の忠臣千葉常胤の6男胤頼に始まる東氏と、その分流海上氏は永くこの地方を領有して鎌倉幕府譜代に功臣であり、鎌倉指しての往来も繁かった。当時この地方の鎌倉街道は、匝瑳・山武市原の3郡下を抜けて君津郡木更津市に至り、そこの渡海面と遺名ある津から金沢に渡って鎌倉に入っていた。市原から君津郡下にかけては、鎌倉みちと呼ぶ古道が断続しつつも何本か遺っており、八日市場・成東・東金・士気等の古い宿場を通って、それらの古道と連絡していた。垣根に長者伝説があり、四日市場の遺名があるのは、古い交通路に由縁している。次にこの時代に坂東三十三観音霊場が撰定され、銚子の飯沼観音が第27番札所に加えられたことは、当地方の交通史上に特筆される。これによって信仰庶民すなわち順礼者の往来が盛んになり、26番札所常陸筑波山大御堂から当地へ、当地から28番札所滑川観音への交通路が栄えた。この経路は多く水上を利用したが、物資の交流もまた遠隔地とはほとんど水路によっていた。当時輸送するものは、漁獲物と犬吠埼特産の銚子石が主たるものであり、他から仰ぐものは、衣食住の足らざるものという程度であった。水上交通機関としては古く独木舟が使われたが、歴史時代に入ってからは木造船技術の進歩に伴って、それぞれの用途による様々な船が造られるようになった。銚子石のような重量物は、小形のものは車や馬背によって運搬されたが、大形の場合は筏を組んでこれに載せて運んでいた。古墳石室の巨石や大型下総式板碑の分布が、利根川や印旛沼沿いの地帯に限られているのは、こうした物理的必然からの事情を反映するものである[17]

安是ノ海と呼ばれた入海時代の漁業が盛んであったことは、香取神宮に伝えられる古記が示している。漁獲物は、少なからざる部分が香取神宮関係の需要を充たしていた。まず特筆されるのは、神宮祭事と漁獲物の関係である。1207年建永2年)の神宮御下文によると、年中行事は90余度と見えており、これに附属の小祠や末社の祭祀を加算した場合、年間百数十度に及び、これらの祭典に要した供進した海の幸は莫大であった。10月30日の大饗祭に備える苴敷鮫・鮭ノ鳥羽盛・鯖ノすいり・筋子・肴大根等に見るも、往古の需要を偲ぶに足るが、またこれらが内海から銚子にかけての漁業を維持していた。香取神宮の大禰宜家は、その漁業権を掌握して子孫相伝の財産としていた。「香取文書」の1368年応安元年)の海夫註文に、飯沼くわうやの津(飯沼知行)・かきねの津(海上知行)がみえ、沿岸随所には漁夫居住の津があり、註文の対象となっていた。海夫は海人とも書き漁夫を指す。海夫の註文というのは、漁業の運上を香取神宮に祭典に料に納めさせたことである。当初は神宮の経費に充当するための運上であったが、次第にこれが大禰宜家の私有財産として世襲されるようになった。銚子の場合、飯沼荒野の漁業権は飯沼氏、垣根の漁業権は海上氏が知行していたが、その他の水上は香取神宮の大禰宜の領有であった。しかし、武士の勢力が増大するにしたがってこれはその手中に侵略収奪されるようになり、「金沢文庫古文書」は、これが武士の知行となったことを示している。それによれば、利根川沿岸を入海浦と呼び、その漁業権が千葉支族である東盛義の私有財産となっている。また1400年応永7年)の「香取文書」は、海上筑後入道が神宮漁業権横領を企つと、時の政府に訴えている。海上筑後入道とは、当時の本地方豪族で兼ねて円福寺別当職か、あるいは大檀那であるが、これは香取神宮と円福寺の間の勢力争いでもあった。この頃の円福寺は、海上氏最大の氏寺として半島最大の大地主であった。銚子の漁業は内海の豊富な漁獲に始まり、その拠点は飯沼・荒野と垣根より利根上流に至る沿岸にあった。怒濤さかまく外海に出漁して近海漁業の開拓に第一歩を記したのは、江戸時代初期の紀州漁民の東漸であった[17]

藤原定家

「和名類聚抄」の海上郡三前郷は、鎌倉時代に三崎荘という荘園となり、片岡常春荘官となって支配していた。これは殿下御領とあって、実際は関白近衛基通になっていたが、1186年(文治2年)3月12日年貢を納めないで催促されている。事由が争乱による農地疲弊のための不作か、荘官の横領によるかは明らかでない。片岡常春が支配したのは、このうち船木・横根であったが、三崎庄全体としては他に本城・松本・今宮・荒野・新生・飯沼・高神・小川戸・辺田から猿田、飯岡の一部にわたる一帯が包括されていた。そして頭書の2ヶ所も、後に片岡常春の手を離れて、全域が千葉常胤の領有に帰してからは、西方に東ノ庄(初めは橘庄といった)、半島部に三崎庄(後に海上庄とも呼ばれ両者は混称されている)と自ら2庄に分かれて対立し、一族が分領してこの地方に栄えたものである。すなわち東ノ庄の東氏、海上庄の海上氏、いずれも千葉常胤の裔である。「千葉系図」(鏑木本)に「文治元年頼朝卿下総国海上郡三崎庄五十五郷を常胤に賜う、是を以て胤頼に授く」とある。胤頼は常胤の第6子で、東氏・海上氏の祖である。ところが「明月記1199年正治元年)7月の条には、「下総国三崎庄を賜う。政所御下文種々の恩を蒙る。是奉公之本意也」と見えて、近衛基通の所領を納めて藤原定家に賜ったように記されている。邨岡良弼の「下総荘園考」は、これを「定家は将軍実朝卿の和歌の師なれば特に此事ありしか。胤朝も定家に学びて子孫世々歌学に深く、其後常縁に至りて所謂る古今伝授を奏上せしなど、必ず縁由ある事と知らる。」と考証している。次いで同書に「また建長二年の関白道家荘園処分記に、新御領下総国三崎庄地頭請所と見ゆ。この頃は再び関白家に属せしなり。香取神宮寛元元年の御造営記に、宣旨に依り作料を支配せる国中の庄々、並に済否の事。(中略)三崎庄八十斛、同加納横根八十斛、同加納須加三郷七十斛、先例を勤仕せず云々対捍とあるは、権門の私威を仮りて御造営の作料を出さざりし者と見ゆ」とあって、その変遷ははげしかった。「千学集」には、「海上庄は三郷なり、舟木郷千貫、本庄郷千貫、横根郷千貫、以上三千郷の所を海上庄といふ。本庄三郎常高、海上太郎常幹の弟なり。本庄郷に住する故、本庄殿と申也、此時海上三郷第一の人といはれし」とある。本庄郷は庄の中心地(本郷)で早くより開け、土地も広く人口も多かった。海上氏はこの本庄郷を基盤として栄え、室町時代にその一族支流が付近一帯の各地を分領して繁栄した。鎌倉時代から室町へかけての古文書を多く所蔵することにおいて円福寺は房総有数であるが、それはほとんど海上氏との特殊の連関を物語っている。寺領は本庄・辺田・高上等、同族の所領にわたり、半島沃地の相当広い面積を領有した大地主として、本庄氏が最も権威があった[17]

当地方はいち早く王政の地方制度衰微を見、武家の支配するところとなり、荘園の発達は著しかった。またこれを地方文化中心の移動という点から考えると、奈良朝まで上海上国造の居地として栄えた旧古城豊和両村の文化は、次いで旧橘村今郡の地域に移り、後に香取神宮を中心とする地帯に転じている。鎌倉時代に武家文化の余波は、海上庄を中心として銚子にも及んだが、東下総の中枢をなすまでには至らなかった。ただ飯沼観音の門前町と、本城の海上氏居館を中心とする武家屋敷・商家が、街衢らしい景観を呈していた。銚子が地方文化史上、特異な発展の緒に就いたのは江戸時代以降のことである。このように見れば、東下総の文化の中心は東漸を続けて、ようやく銚子地方に至ったといえる[17]

群雄割拠して天下の乱れた戦国時代は、房総にあっても各処で武将が鎬をけずって戦乱に明け暮れていた。その兵乱は、豊臣秀吉の全国統一前をもって最高潮に達し、海上・香取の地方にあっても遠く上総夷隅郡正木氏に侵略蹂躙されている。「海上郡誌」に「永禄九年里見義弘の家臣正木時忠下総を侵す。海上城(海上郡椎柴村)見広城(同郡鶴巻村)伊達城(同郡豊岡村)中島城(同郡船木村)共に陥落す。猿田神社亦兵火み係る」とあるのは、猿田神社社伝にも見える。正木時忠の下総侵略の具体的事実を示す史料として、「香取文書纂」巻五に収録されている香取神宮大禰宜置文が挙げられ、猿田神社の社殿が海上城攻略の折に焼かれたことが見える[17]

近世[編集]

安土桃山時代[編集]

海上氏は応仁の乱の頃まで有力な武将であったが、これより20〜30年経過する頃から次第に凋落していき、「千葉伝考記」や「鎌倉大草子」は飯沼落城のことを記している。すなわち1479年文明11年)正月、千葉孝胤太田道灌の戦に千葉側の諸城が相次いで落ちたが、その中に臼井・庁南と並んで「下総国飯沼も落城して海上備中守も亦降参したり」と「千葉伝考記」に見える。松戸市小金城は千葉氏の分流高城氏の拠ったところであるが、その旧記として伝わる「高城家由来記」には海上氏の名が散見し、室町末期の同地方争乱に参加していることが知られる。特に小田原城総攻撃には、北条方に馳せ参じて敗滅の運命を負ったが、これは宗家の千葉氏が籠城軍であった関係からも宿命的なものであった。千葉氏の滅亡については、諸書の伝えるところに異同があり、ただ小田原北条氏に加担していたことを主因とする点は一致している。鎌倉以来、下総各地に繁栄した千葉氏の宗家も、またその支流末葉も、多くはこの戦をもって没落した。永い間、銚子半島に権威を振った海上氏も、こうして終焉を告げた。その居城は船木村大字中島にあったが、城跡の畑に要害の小字名が伝えられている。「海上郡誌」に、中島城址として「天正十八年九月海上蔵人胤保の時、中島城落ち僅かに名残を止むるのみ。現今猶大手・馬場先・本丸跡及塹壕等粗々其形蹟を遺せども、皆耕地となれり」と記されている。落城の9月9日を領民は深く悲しみ、以来その日の節句を廃すと伝え、この地方の遺習となっている[17]

江戸時代[編集]

徳川家康

1590年天正18年)に入ると、秀吉は諸将に命じて小田原北条氏征伐の準備を進め、3月1日みずから兵を率いて京都を発した。この時、房総の諸城は相当の大軍をもって攻撃され、海上氏の拠った海上郡佐貫城も落城し、房総全土は完全に平定された。6月28日、秀吉は武蔵江戸を家康の城地と定め、北条氏の故地関東8国を与えた。家康は譜代の家臣に数万の兵を付して、この年8月1日江戸城に入った。海上氏の旧領地にあたる銚子半島は、飯沼を中心に付近2千石の地が松平外記伊昌の支配するところとなり、近隣は諸藩領地や旗下知行地の細かく錯綜する地となった。江戸時代初頭にかけ、銚子地方を領地した松平外記の初代、伊昌は徳川家康の関東領有とともに飯沼2千石を封ぜられたが、当初は香取市貝塚の浄土宗来迎寺を居館とし、後に飯沼陣屋に移ったと伝えられている。落城したばかりの飯沼城(館)は破壊毀損が激しく使用に耐えず、これが構築されるまでの滞在であった。松平外記は、初代伊昌より忠実・忠宜(伊燿)・忠益・忠明に至る5世、108年間にわたって当地方を領地した。松平外記家は代々信仰心に厚く、領内であった銚子を中心に寄進の名をとどめる遺物が多くのこされている。常世田薬師の棟札をはじめ、竜蔵権現(後の銚港神社)石鳥居や円福寺梵鐘等に寄進の名が見えるばかりでなく、円福寺所蔵の宝物中にも法華経8巻・金剛経・小経、以上各1巻と琥珀製珠数1連を収めた古雅な箱があり、そこにも忠実の孫が母(忠実の娘)の遺愛品を施入するということが記されている[17]

銚子が高崎藩領となったのは1717年享保2年)9月11日からで、以後明治に至るまで10世の間、150余年の長きに及んでいる。東北廻船の要地として軍事上、また経済上に等閑を許すことのできない銚子は、江戸の発展に伴って益々重要度を増したため、長く親藩の手に委ねられた。銚子領は飯沼・新生・本城・高神・荒野・小川戸・長塚・三崎・岡野台・垣根・四日市場・野尻・今宮・小舟木・後草・蛇園・見広の17か村であるが、高は5010石、僅かに5千石を出ていた。藩は飯沼に陣屋を置き、郡奉行1人と代官2人を主役として駐在させ、これらが治世に当たった。幕末の飯沼陣屋詰役人は、奉行永井市左衛門・代官片柳善之助・目付八木条平であった。これらの役人が、肝煎名主(1郷1名で郷中名主に触頭)や問屋年寄等を支配統轄した[17]

1591年(天正19年)、豊臣秀吉によって採られた六十六か国人掃国勢調査)を契機として、近世村落が発足した。本市に入っているこの時の村の多くは利根川沿いと丘陵地帯に分布して突端部に少ない。これらの村は明治の町村制実施以後、多くは大字となって残り、市内でも町名として遺存している。飯沼・高神・小川戸・辺田・三崎と半島突端部が他を圧して石高が多く、利根川沿いの長塚・柴崎等がこれに続いていた。これは人も多く、新田開発がよく行われていたためであるが、また水田が可能な低地に比較的恵まれていたことにもよる。新市域の各地が、野尻・高田・柴崎の各村を除いて微々たるものであることは、海上台地の丘陵性により、山林と畑地のみで米作適地に乏しかったためである。水に恵まれず旱害に悩まされた銚子の村々は、江戸時代に入ってから灌漑用水を設営したが、そのうち代表的なものは、長塚村の七ツ池である。七ツ池には一つ一つ名称があって、塚子森ノ溜池(岩ゼキの直下にあったが田地となっている)・岩ゼキ・ヒルモゼキ・中ゼキ・上ゼキ・江戸ゼキ・新池とそれぞれ呼ばれていた[17]

近世利根川水系の水運

幕府は開府早々に利根川の治水事業に着手した。慶長年間、関八州郡代であった伊奈備前守は命を受けて鋭意これに当たり、上流川俣付近の河道の変改と渡瀬川との連絡を成就し、次いで1621年元和7年)その子忠治がこれを継承し、赤堀川の新水路(旧栗橋町より東流して下総国境に至る利根本流)を開墾して1635年寛永12年)竣工した。ここにはじめて利根・渡良瀬の両川は東流して常陸川に入り、銚子に流れてくることとなった。利根川の治水は、江戸を水禍から救うと同時に、沿岸一帯に沃壤の水田を開拓したが、更に大きなことは、流路が太平洋に直結したため関東の人文地理を大きく変貌させたことであった。江戸と常陸・下総から東北地方との舟運が開け、物資の交流や人々の交通に著しい利便を与えるようになったためである。利根川沿いの下総だけでも、いたるところに河港都市が発達した。印旛の木材を積み出す木下河岸の発展、香取の物資を運び出す神崎滑河・佐原・笹川小見川各地の殷賑等が挙げられ、銚子もまたその便益を蒙ること最大なものであった[17]

葛飾北斎『常州牛堀』

諸藩による東北地方から江戸へ物資を輸送する海運は、慶長・元和期に始まり、その先駆は仙台藩相馬南部藩がこれに次ぐ。当時の航路は江戸まで直航するのではなく、海路は常陸の那珂湊までであった。那珂湊からは湖沼に入り、湖沼から北浦の北岸まで陸送、北浦から再び水路をとって利根川をさかのぼり、江戸に達した。俗に「外海廻り」と称される江戸直航は、まだ開拓期の域を出ていなかった。これが東廻り海運の第一段階である。したがって時折外海廻りを試みる船舶があり、銚子湊に入ることがあっても、その目的は避難・風待ち程度であった。入港停泊中沿岸の陸地に求めるものも、食糧・薪水の補給程度であった。第二段階は海路を銚子まで延ばし、銚子から利根川をさかのぼって江戸に達するのが、主たるルートになった時期である。荷物は川船に積み替えたが、第一段階と比較して積み替え回数が少なく、陸送部分もないため、はるかに能率的になった。このルートを俗に「内川廻り」と称した。なお、第一段階の湖沼・河川利用も内川廻りの一つである。銚子湊から川船に積み替えて江戸に陸送するためには、江戸までの輸送を引き受ける川船業者が必要となる。そしてそのような積み替え輸送を行うには、積み荷を一時陸揚げして保管する倉庫や荷役労働力が必要となる。さらに陸揚げ荷物の一部を放出する必要が生じた場合、それを取り扱う商人も必要である。したがって沿岸はこのような要求にこたえる地域でなければならず、銚子湊は単なる避難や待機のための掛り水域から、沿岸一体となって海運業務に機能するための、本格的な港へと前進しなければならない情勢下に置かれるようになった。銚子には次第に穀宿・廻船問屋・仲買・船宿・引船・川船等、各種の営業が成立するようになり、また荷役である諸藩自体も、蔵屋敷の設置等を行った。そして第三段階は外海廻りすなわち江戸直航である。外海廻りが東廻り海運の主たるルートとなっても、銚子から先の航路の安全性が確立されたわけではないため、内川廻りは衰微することなく併存していた。銚子湊が外海と内川の中継地として本格的に利用され、発展してくるのはこの後のことである。そして明治維新によって幕藩体制が崩壊するまで内川廻りの東廻り海運は銚子の基幹産業となっていた[19]

こうして仙台はじめ東北各地の米殻の江戸廻送の多くが江戸経由となり、また外洋廻りも必ず銚子に寄港したので、その賑わいと繁昌は一段と増すこととなった。承応年中には、仙台藩では荒野村に陣屋を置いて藩吏を駐在させている。相馬藩がここに廻米するようになったのは1631年(寛永8年)が始めである。幕末には、ここに仙台藩2棟・米沢藩1棟・磐城3棟・笠間藩1棟の米蔵が立ち並ぶという盛況であった。利根川の各地には高瀬船が置かれ、往来の船が絶え間なく行き交うようになった。飯沼に49艘、高田に38艘、野尻に41艘の高瀬船がひしめくという賑やかさで、問屋は飯沼は10余軒に及んだ。高瀬船は500から600俵積の小型から900俵の大型まであり、12反帆をあげて舟子4人から6人で帆走した。当時は江戸通いのこれらの船を指して「利根の直船」と呼んだ[17]

江戸日本橋

その頃銚子で漁獲した鮮魚は、常陸土浦・潮来・牛越から佐原、小見川、更に遡って利根中流の布佐布川・木下方面まで運んで売り、一部は木下から陸行して船橋まで急送した。その運搬方法は速力のはやい猪牙舟で夜通し運び、これを生漕と呼んだ。また鮮魚輸送用の「なま船」や「いけ船」があった。なま船は勢のよい船頭3人で力漕し、銚子を夕方出て明け方の布佐か布川の魚市に間に合わせるという速達船である。いけ船は生簀仕立で、主として夏季生魚を関宿経由の上、日本橋魚河岸へ運んだ。また陸上を持って行くものは、小荷駄馬かあるいは人足が徹夜で急行し、これを生駄賃または生担ぎと称した。この販路はあまり遠方へは達せず、八日市場・太田・成田(後の旭市)等までであった。銚子にはこうした船の他に、各醤油造家の持船もあり、年貢米を賃運送する百俵積の「ぼうちょう」船等もあって、非常に繁昌した。水運が開けたことで、諸物資の集散、水産物の中でも特に銚子に集まる干鰯等、江戸深川の問屋や関東各地への輸送に便利となった。川沿いに仙台米の御用蔵が建ち、廻船問屋もできて、仙台河岸の称が生まれたのもこのためである。一方、江戸深川には銚子専用の船着場ができて、銚子河岸の名をのこしている。市内浄国寺の檀家が旧深川区内に多いのは、この由縁があって銚子から移住した子孫が多いからである。1775年安永4年)の円福寺旧記に「道中取次、古座弥三郎・利根川問屋、野崎小平次」の名が見え、檀家有力者となっていることからも、この頃には利根川水運による大きな商業資本家が成長していたことがわかる。特に野崎小平次は後の和田町あたりに居住し、その富力は相当大きなものであった。また最も活況を呈したのは、大消費地の江戸と直結することができた造醤油屋仲間であった。関東各地への製品の輸送、生産原料の移入等、いずれもこの水運によって能率をあげ、利得するところは甚大であった[17]

利根川の高瀬船

当時の輸送船は高瀬船で、普通1200樽を積載して利根川を遡行、関宿から江戸川を下り、所要数3日をもって江戸深川に入った。急を要する場合は、途中の布佐あるいは木下に陸揚げして馬によって江戸へ運んだ。木下からの陸路は陸前浜街道我孫子松戸)によらず白井・船橋・行徳の最短コースをとるのが普通であった。したがってこの道は物資ばかりでなく、東下総及び常陸水郷各地と江戸を結ぶ枢要な交通路となっていた。木下宿は船宿として繁栄し、銚子屋の看板をあげた大きな旅館があって、銚子との密接な関係を偲ばせている。香取・鹿島から銚子へ来遊した幾多の文人墨客は、多くはここに宿泊するか、またここから乗船した。一方、利根水路の変更がもたらした自然の大変化に、銚子川口の浅くなったことが挙げられる。この大河の運ぶ莫大な土砂が、河底を浅くし洲をつくり、ひいては流路を変更したりなどして、河船交通を変貌させた。このことから、江戸の初期には、かなり上流まで大きな船が遡行していたことがわかる[17]

平手造酒

利根川水運の発達は必然的に、沿岸諸所の地方物資の集散する町村を河港都市へと育てていった。佐原・小見川・笹川はその最たるもので、これに漁港であり商工業も盛んな銚子や水産物の集散に栄える飯岡等が加わり、東下総に連鎖のごとく河港都市が発達を遂げた。これらの諸都市はおのずから地方経済の一単位をなすに至り、諸国からの商人や出稼人の往来が激しい中で、いつしか任侠無頼の徒、いわゆる博徒渡世の温床を醸成していった。佐原喜三郎笹川繁蔵・銚子五郎蔵・飯岡助五郎・勢力富五郎等、いずれもそれぞれの地を縄張りとして名を売った博徒の親分である。特に銚子は、絶えず飯沼観音の縁日があり、人の出入りが最も激しく、したがって金も動いたことで、博徒の恰好の稼ぎ場所であった。円福寺本堂には、青銅製の一斗入り大茶釜と竈があり、飯岡助五郎と銚子五郎蔵が献納の銘が鋳出されている[17]

利根川河口の北岸は鹿島灘砂浜の先端が一大長堤をなしており、南側は一の島・ニノ島を主として一帯に岩礁が隠見しているのに加え、太平洋の怒濤がさかまいて利根の流水と激することから、澪筋も変動が激しく、難破転覆の惨事が絶えなかった。「銚子川口てんでんしのぎ」の俚言はこれから起こったもので、他地方から来た不馴れな船舶は、専ら水先案内人を雇って出入の安全を期した。また、仙台藩では自藩回船の安全のため、千人塚南東の丘陵に汐時袋を設けたことがある。これより先、1698年元禄11年)には江戸日本橋馬喰町の石塚伝四郎が、銚子新生と荒野の村境から半島を横断して高神村名洗に至る堀割工事を出願している。利根川内と太平洋を結ぶ運河開墾であるが、その目的は、北東の強風を受け河口出入が危険なため、別に静穏な港口をつくって船舶の安全を図るためであった。後に着手の運びとなったが、成功を見ることなく中止されている。滑川はその時の開墾工事の痕跡である。運河が不可能とわかってからは、内港施設として和田川及び唐子川が重視され、これが永く河港としての役割を果たしている。両者共に新川と呼ばれ、主として河船の避難と荷役を目的としていた。創設は前者が寛文・延宝頃、後者が江戸末期に近い頃である。常時外洋往来のいわゆる五百石船が碇泊したのは、殆ど河口を遡る本城・松本が多く、両地はこれらの来泊船や地元の漁船で賑わった。松本の後方にそびえる海上台地の小高い地点を加曽山と呼ぶが、その頃は老木もあって船の好目標となっていた。彼らはこれを崇敬し、同町の熊野神社境内には、「加曽山」松本浦船手と刻した大きな石祠がその名残りとして存在している。一方、沿岸漁業の小漁船は飯貝根・和田川等、その他の沿岸に発着していた[17]

昇亭北寿『下総銚子浦鰹釣舟之図』

阿波の沖をかすめて北上する黒潮は、紀州熊野灘より伊豆半島の先端を流れて房総に至る。その時速は1浬、黒潮に乗る民族移動は遼遠の太初にさかのぼる。以来、千有余年の間、数次にわたる大小の移動があって、最後に江戸時代の紀州人東国進出に及ぶ。特に銚子には集団したが、これより以前に伊豆半島へ、また房総半島へと移り来ていた。しかし至便佳良の地は既に先来の紀州人が占拠しており、残されたのは怒涛岩礁に砕け散る銚子半島だけであった。こうして後続部隊はここに居を据え、ここを活動の舞台とした。銚子は紀州人に残された最後の入植地であった。銚子に入植した紀州人は、この地の漁業と醤油醸造と商業に貢献したが、これは後に至っても銚子発展の基盤をなしている。紀州人が最初銚子半島に来たのは、文禄慶長の頃であった。目的は大抵漁業のためで、他の商売のためのものは稀である。降って元和・寛永の頃から集団的にやって来て、釣漁(カツオその他)をしたり、任せ網と称する方法で漁労をした。この頃は専ら漁獲物があればすぐ帰ったが、あるいは止まって漁を更に続け、干鰯を造ったりした。大体において春来て秋帰るという方法を繰り返していたが、郷里と銚子との往復が次第に頻繁になるに従って、銚子の地に移住する者も増えてきた。1650年慶安3年)には、摂州西ノ宮の漁夫惣左衛門が船子67人を率いて来た事があり、1652年承応元年)には飯貝根に多数の商店ができた。翌年には紀州の青野五右衛門が、漁夫多数を引き連れて来てカツオ漁等の漁をした。寛文、延宝の頃には、既にカツオ船が50艘を数えた。この頃の漁の方法は任せ網を用いたが、次第に八手網を用いるようになっていった[17]

歌川広重『下総銚子の濱外浦』

当初は外浦長崎・外川・犬若に盛んであった漁業は、後には川口の飯貝根・飯沼に移っていったが、この外浦各地の発展は、外川開発者である崎山次郎右衛門の力によるものである。紀州日高郡由良の出身で、後に有田郡広村に住み、寛永・正保の頃浦づたいに漁業をしつつ房総半島に来て、1656年明暦2年)飯沼村に移り住んだ。後に今宮村に移り、任せ網の漁法を始め、1658年万治元年)に高神村外川浦を開き、1661年(寛文元年)この地へ移住した。彼が第一に力を注いだのが築港事業であり、僅か6年間に外川築港を完成させている。次いで外川市街の区割を決定し、西方寺を建立し、自己の邸宅を構え、大井戸を掘削し、干鰯場を開き、漁港としての設備を全て具備するに至り、名実共に関東一の外川港を実現した。その間僅か20年である。彼は郷国から多くの漁夫を呼び寄せ、漁業と海運を営んで巨富を積んだ。このため当時の外川浦は千戸以上に達し、その築港と市街整備は「外川千軒大繁盛」の口碑をのこしている。彼が開基となって建立した西方寺は廃絶し、その本尊阿弥陀如来像と崎山夫妻木像、彼の事績を記した「外川由来記」1巻は、共に末寺であった宝満寺に移されていたが、太平洋戦争の空襲によって炎上亡失している。崎山が銚子で成功活躍したことは郷里紀州に喧伝されて異常な刺激を与え、紀州人の銚子出稼熱をあおった。漁夫や商人は陸続として来銚し、後に醤油醸造を興して財を成す者も多く、富裕商人の大部分は彼らが占めることとなった。銚子の商店街には、湯浅屋・広屋・紀ノ国屋あるいは印南商店・美呂津薬局等、紀州地名ゆかりの名が多い。いずれも父祖出身地を示すもので、銚子という都市の性格を大きく反映している。紀州人の分布は、旧時代の西銚子町・銚子町・本銚子町から高神村外川にかけて密で、豊浦村・海上村等の西部農村地帯に疎である。漁業に商工に、この水辺地帯は紀州人の屈強の入植地であった[17]

江戸深川万年橋

銚子の漁業は、江戸時代に入ってから紀州漁民の開発によって勃興したが、江戸時代を通じて銚子の漁業を支えたのはイワシ漁業であった。初期のイワシ漁業に用いられた網は任せ網であったが、その後間もなく八手網に替わった。イワシは肥料にするのが主目的であって、食用は微々たるものでしかなかった。肥料としては、そのまま乾燥させた干鰯、煮て圧搾した〆粕に作られた。〆粕製造過程では灯火用の魚油がとれた。干鰯は近世農業の最高の肥料であり、全国先進地帯の需要が増大して、当時の成長産業となっていた[19]。深川の高橋河岸に銚子場と俗称するところがあって、そこに大きな干鰯問屋岩出屋があったことから、江戸へ莫大な量が移出されていたと見られる。イワシを乾燥するには広い面積の土地を必要とするが、この干鰯場は主として飯貝根から黒生等の海岸地帯が使用され、後に至っても同地域は、イワシの煮干や魚粕等の乾燥加工が盛んである。銚子の豪商宮本屋太左衛門・行方屋庄次郎・柳屋仁平次・田中玄蕃の連名の「魚粕並干鰯直段付」と題した文書が残されているが、連名の4人はいずれもその頃の銚子経済界を支配した豪商で、宮本屋・行方屋は干鰯その他海産物の大問屋、柳・田中は後の造醤油の大店である。これは醤油醸造の巨商となる以前、当時最も有望株であった干鰯事業に投資していたことがわかる。田中玄蕃はこのため、1695年(元禄8年)9月より伊勢地浦に船着場の普請工事を始め、同海岸の開発をとげ干鰯場を設けている。玄蕃はヒゲタ醤油によって産をなしたというよりも、干鰯産業による金融資本の蓄積の方が大であり、醤油による家業の盛運は江戸中期の文化・文政以後に属する。黒生浦は元禄の頃、北川治郎右衛門によって開発されているが、これも目的は干鰯事業にあった。上記の海岸一帯は当時干鰯景気に繁昌し、紀州人の相次ぐ来銚はこの干鰯ラッシュに浮かされたものでもあった[17]

イワシは回遊性の魚であるから、その漁況には何年かの間隔で豊凶の繰り返しがある。江戸時代の銚子のイワシ漁業も、漁況の豊凶による盛衰を繰り返していた。最も衰えたのは明和から安永の間で、それまで銚子最大のイワシ漁業基地として、「外川千軒」の繁栄を謳歌していた外川浦では、50張余もあった八手網が僅か3張を残すだけとなり、ほとんどの網方や商人が転退してしまった。崎山次郎右衛門の2代目が、郷里に引き揚げざるを得なくなったのもこのときのことである。しかしこの不漁も寛政年間には漸次回復に向かい、文化年間には飯沼村の八手網は約70張を数えるようになり、外川浦もまた復興してきた。そして弘化安政の頃に江戸時代最後の豊漁期を迎え、1864年元治元年)には大漁節が生まれるような豊漁をみることとなった。江戸時代の銚子では、イワシのほかにもカツオ漁業やクジラ漁業、あるいは小漁に属する漁船には縄船や猪牙舟の名がみられ、タイヒラメホウボウ等が漁獲されていた。これらは釣漁であるが、そのほか雑網漁業も行われていた。このほかに利根川における内水面漁業も行われていた。その主なものはサケ漁とスズキ漁であったが、シラウオハゼウナギ漁等も行われていた[19]

銚子組造醤油仲間

海運・漁業と並ぶもう一つの大きな産業は醤油醸造である。銚子醤油の歴史は、伝説によれば1616年(元和2年)の江戸時代初頭にさかのぼる。この地の里正であった田中玄蕃が、摂津国西ノ宮出身の江戸豪商真宜九郎右衛門の教示により、溜醤油の醸造をはじめたのが起こりである。真宜は造酒と海産物問屋をもって巨富を積んでおり、干鰯その他の海産物取引の関係上、しばしば銚子に来て、当初は干鰯等で田中玄蕃と接触交渉を持つようになった。こうして玄蕃の創始したのが、ヒゲタ醤油である。これより30年程遅れて1645年(正保2年)、紀州広村の濱口家が荒野村に来て、同じく醤油醸造を始めたと伝えられている。すなわちヤマサ醤油がこれである[17]。濱口は当初、高神村の外川で雑貨商を営んでいたが、荒野村に移り、白幡明神の東隣に借地して店を構えた。荒野村での開業当初は味噌・醤油・大豆小麦や、上方からの下り物を、江戸から仕入れて銚子周辺に販売していた。なお荒野村濱口家の周囲には同じ紀伊国出身の醤油醸造業者や廻船業者が軒を並べていた[4]。「濱口梧陵伝」を見ると、1700年(元禄13年)に濱口知直が銚子店の開祖となって初代儀兵衛を名乗るとあり、本格的な事業はこの時に始まる。広村は本邦醤油史上に最も早く見える湯浅醤油の地に隣接するところで、その技はすぐれたものがあった。次いで銚子に来た岩崎重次郎も、ヤマジュウ醤油をもって知られた。両者ともに広屋を屋号とし、玄蕃と並んで銚子組造醤油仲間に重きをなした。1754年(宝暦4年)には銚子醤油組合ができ、広屋儀兵衛、広屋重兵衛、田中玄蕃、田中吉之丞、広屋庄右衛門、飯田久四郎、塚原吉兵衛、広屋理兵衛、宮原屋太郎富岡屋清兵衛、滑川彦右衛門の11人の組合員と、6733石の醸造高を有した。これが20数年後の1780年(安永9年)には、業者18軒、醸造高8949石に上昇、発展の緒についた。本国の紀州で衰微した湯浅醤油の正統が銚子に繁栄結集した光景は、他に類例を見ない。関東各地の醤油醸造は、銚子と相前後してその緒についたものである[17]。銚子は醤油醸造に適した自然条件を備えており、(1)夏期の高い湿度が香気の発散を防いで芳香を保つ、(2)夏涼しく冬暖かい温和な気候が麹菌の活動を平準にして有害な雑菌の繁殖を防ぎ、諸味の成熟を早める、(3)水質が石灰水を含む硬質である、(4)空気が清澄でオゾンをふくみ、雑菌を減じて醤油菌の活動を助ける、といった利点があった。また、利根川河口に位置する銚子は、原料調達にも向いていた。流域の常陸・下総地方は大豆や小麦の有力な産地であり、その輸送が水運によって容易であった。また、製品を江戸に運ぶにも、鉄道輸送が本格化するまでは利根川の舟運が利用された。幕末の1884年(元治元年)には、銚子のヤマサ・ヒゲタ・ヤマジュウ・ジガミサが幕府から「最上醤油」の称号を得た。これは、百数十年に及ぶ経営や技術の蓄積の成果であり、この最上醤油が江戸・東京市場で有利な位置をしめることになった[4]

ヒゲタ醤油商標

江戸時代末期の銚子経済界を代表した田中玄蕃は、ヒゲタ醤油の醸造元として早くから巨富を積み、その存在は諸国にまで広く知れ渡っていた。歴代の領主もこれを重視し、特に幕末高崎藩では経済上の支援を少なからず仰ぎ、御用達頭取である彼に、苗字帯刀はもとより御祐筆次席格・非常鑓御免の特別待遇を与えている。庄屋・名主あるいは郷士といえども稀であり、封建時代の地方町人としては最高の身分地位が保証されていた。当時の銚子庶民の間には、「銚子でサマの付くのは観音様に玄蕃様」と口ずさまれたほどである。初代は1556年弘治2年)、また2代は1561年永禄4年)の没であり、その頃から基礎が出来上がった富農である。ちょうどその前後は、海上氏の庇護によって半島最大の大地主となっていた円福寺の力が、少しずつ崩壊していく時代であった。それが少なからずこの新興富農に移動し、次いで干鰯産業や江戸の興隆に順応した企業の醤油醸造により、揺るぎない商業資本を蓄積していった。中興は4世(寛文5年没)か5世(享保12年没)あたりである。一介の地方豪農が醤油企業を創業して、遂に江戸時代関東醤油の覇者となったことは、房総産業史上特筆すべきことである。1717年(享保2年)には今宮村に醸造所を増設するほど発展しているが、次いで分家田中吉之丞に、醸造石高の中から316石を割いて分与し、更に今宮醸造所と醸造高1316石を、別家の常右衛門に分けている。吉之丞家は明治になる前に廃業したが、一時は本家と並んで栄えていた。9世と10世は同家の最盛時代の当主であった。9世玄蕃は名を通喬といい、成田村(後の旭市)の旧家西村家から入って養嗣子となった人で、田中家を隆盛に導いた功労者である。10世玄蕃は通喬の長子で、幕末多難の折、よく家業を経営して盛運の維持に努めた。百略と号し、江戸文雅の士とも交遊が多かった。同家に伝わる旧記中、「先代集」(5代繁貞首記の写がある)と「後代記」及び「玄蕃日記」95冊は、銚子郷土史料としてばかりでなく、日本の近世商業史研究の上からも貴重な資料である。特に「玄蕃日記」は、10世貞矩と11世憲章がその家を治めた61年間にわたり、父子継承して続けられてきた日記で、気象にはじまり家事のメモから社会の事象まで、1日欠かさず書きとめられている。実に1812年(文化9年)から1872年(明治5年)に及んでいる膨大な記録で、地方庶民史料としては全国的にも珍稀なものである。明治・大正年代にかけての当主、12世玄蕃(幼名直太郎・のち直衛・また謙蔵と称す)もよく家業を守り、特に醤油の歴史に興味をもち、「醤油沿革史」や「醤院座神・高倍神考」等の好書を金兆子の名のもとに編纂発行している[17]

正保・寛文期に始まった港湾都市・産業都市への歩みは、元禄期に醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保に至るまでには、既に発展の一段階を達成していた。およそ半世紀を要したということにはなるが、「先代集」は、松平外記伊昌が入部した天正・文禄期の飯沼村の百姓数を27軒とし、それが1720年(享保5年)には「飯沼村家数千四百九拾弐軒、人数合六千八百九人」になったことを記している。そして「近代当地の繁昌なり」と言い切っている。このころ、城下でもない地方の村で、7000人近い人口を有するところは、関東では他になかった。しかも飯沼村は銚子の一部分でしかなかった。そして銚子の発展はこの時期だけにとどまらない。海運・漁業・醤油に関連して、その他の商工業も盛んになり、都市化が進展して、文化・文政期に最盛期に達する。この時期、飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで、人口は1万3千余を数え、連続した市街地を形成して、殷賑を極めるようになる。1841年天保12年)、銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は、今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写し、「市中」という表現をしている。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していた。したがって前述の業種だけでなく、そのほかにもこれらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種があった。飯沼村には、1752年(宝暦2年)の時点で既に13人の医師がいた。当時飯沼村の人口は7409人であったから、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、このことと比べると、江戸時代の銚子の産業構造は、かなり高度化したものであったことがわかる[19]

銚子花街の濫觴は、飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店にある。銚子が港として繁栄の緒についたのは室町末期のことで、それまでは他国と頻繁な交流は無かった。ただ鎌倉時代から坂東札所の一つとなった飯沼観音に参詣する信仰順礼者のみが、わずかに接する他国人であった。この順礼者のために発生した門前町の茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来あがった私娼窟が、田中特飲街(赤線区域)の前身で、いわゆる茶店女や飯盛女に端を発するものである。次いで室町末期、西国の漁夫の出稼ぎにより漁港としての姿相を呈するようになり、江戸期に入って干鰯場の黄金時代に、笠上に遊女屋が発生した。次いで和田堀に諸国漁船の碇泊が繁くなった元禄年中、和田町に船乗り相手の売女屋が出来た。諸国いずれの港にも遊女や売女にあるもので、その始めは衣類洗濯をなす女からであった。旧記によると、正徳の初め笠上付近の塩場に遊女屋があったが、これは江戸中期に至って本城町に移っている。外川繁昌と干鰯景気の所産である。利根川の水運が開け、東北米の廻送や銚子の水産物・醤油等によって江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、両地に今までなかった立派な妓楼が建つようになった。その地は本城の字下町と呼ばれる地で、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒を並べていた。その遊興制度が引手茶屋を伴っているのは、江戸の影響感化による。この制は松岸遊廓も同様であった。本城遊廓の衰運の最大要因は、1840年(天保11年)・1849年(嘉永2年)・1861年文久元年)と3たび火災に罹ったことである。このため幕末の慶応年間に至るもなおかつてのように復興せず、維新後1872年(明治5年)9月の法律改正による貸座敷営業となり、1879年(明治10年)廃業の諭旨を受けるに及んでいよいよ振るわなくなった。結局転業の困難から3年また5年と延期を重ね、1912年大正元年)12月、全廃となった。本城と並び栄えた松岸遊廓は、その開創が本城よりやや古い。この方は明治・大正に及んでも、なお全国に知られて昭和まで存続したが、太平洋戦争の勃発と同時に廃業し、開新楼・大坂屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用された。1889年(明治22年)6月、千葉県知事宛に提出した松岸遊廓の営業規約には、貸座敷5軒・引手茶屋15軒の名が見える。この頃から大正年代へかけての松岸遊廓は、大利根の流れに映える不夜城の灯火と野趣に満ちた大漁節をもって、その名は広く全国に喧伝されていた[17]

怒濤さかまき暗礁乱立する銚子近海は、一朝暴風雨となれば航行の船舶は頗る危険にさらされ、難破するものが絶えなかった。難破船の中には少なからず外国船も入っており、その遺物が市内に存在している。異国船婦人像は、江戸時代中期あたりに、沖合はるか人知れず難破沈没した外国船から脱落し、海岸に漂着して拾い上げられたものである。円福寺本坊の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に安置されている大きな外国婦人の立像がそれである。この像はかつて観音堂裏の花街、田中町一帯に住む娘子の信仰を一手にあつめていた。異国船の銚子漂着で最も古い記録は、円福寺所在の田中玄蕃第9世「皓岳清器居士」墓銘に見える1798年(寛政10年)琉球商船の難破である。彼は高崎藩の命によってこの難船を処置し、藩侯から御褒めの言葉を賜っている。同墓銘には、つづいて1807年(文化4年)清国商船が漂着し、乗組員88人が滞銚したことを記録している。この時は彼の嗣子第10世玄蕃の貞矩がこれを処置し、同様に藩侯の嘉賞を受けている。この時銚子陣屋では彼ら一同を手厚く扱い、後に長崎へ送り届けている。また滞銚中、2名の乗組員が病没したが、これも懇ろに威徳寺に葬って墓石を建立した[17]

江戸との商取引関係が深く、しかも富裕な商人が多かった銚子と佐原には、江戸座俳諧との密接なつながりが出来上がっていった。「新撰俳諧年表」に基づいて両地の俳人を拾い出すと、寛政頃から文化・文政前後にかけて多くの俳人が挙げられ、東下総において最も盛んなところであった。銚子の俳人であった存亜は無物庵と号し、常陸から両総にかけて多くの門弟があり、その流は明治まで続いた。桂丸(銚子の豪商行方屋、大里庄治郎家第6代で名は富文)も銚子俳諧の興隆に功績があった指導者である。1808年(文化5年)5月、一茶来銚の手引や世話をしたのも彼で、特に佐原の恒丸と共に、東下総の俳諧に貢献するところが少なくなかった。銚子の豊かな商家の主人や妻女達の間には蕉風の俳諧が普及し、大きな文芸グループを形成していた。田中と野崎の両豪商が俳諧に親しみ、江戸の豪商の俳人仲間との交流があったことは、円福寺境内のほととぎすの句碑からもわかる。それには、「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」とあって、俳趣味の江戸豪商夫妻が、この地に遊んで詠んだ句であることを示している。この句は、銚子を代表するものとして人口に膾炙している。銚子の俳人は蕉門の流れを汲む鳥酔の門下ないしその系統が多かった。その直流の松露庵社中は盛大であり、後には松露庵6・7世は銚子の俳人の占めるところとなった。柳居・鳥酔の衣鉢をつぐ松露庵の末流は銚子の俳人達に継承されて多くの門弟を育成し、俳諧社中が出来上がっており、江戸末期に及んでもなお銚子の俳諧は衰微していなかった。市内各寺院の墓地には、庶民の墓石に辞世の句、歌を刻したものが少なからずある。これは銚子が他の地方町村とは異なり、江戸期の文化水準が高かったことを示しているが、それは商業をもって江戸と密接な関係があったからである。俳諧に比べて和歌は広く庶民には親しまれなかったが、市内の寺院に散在する墓石に刻された辞世の和歌や歌碑がいくつかあって、銚子の庶民がこの方面にも心をよせ、そうした文芸を楽しむ余裕をもっていたことを示している。銚子はまた狂歌の盛んな土地でもあった。江戸の狂歌趣味が早くから移入され、特に1830年(文政13年)十返舎一九の来訪があってから、さらに流行した。廻船問屋の十五屋が肝入りで狂歌会を催し、その伝統は明治・大正にまで及んでいる。明治に入ってからは情歌の称が起こって神社奉納の歌会がしばしば催されている。文化・文政の頃からは、江戸在住の文人墨客が銚子へ相次いで来遊し、和歌に俳諧に漢詩にそれぞれ雅趣を述べている。これらの作品はいずれもこの地の壮大な海洋と波濤の美を讃美したもので、多くの雅人を遊山の旅に送り出す、この時代の泰平を反映するものである。これが銚子の文化に寄与し、この地の文運を高めた効果は大きかった[17]

江戸時代の寺子屋

銚子地方の幕末の寺子屋は、「海上郡誌」によると相当な数があり、多くの寺子屋師匠が列挙されている。石毛胖庵・喜助・岩三郎は、父子2代にわたって寺子屋教育に専心した一家で、特に岩三郎は海上村垣根に阿弥陀院に1874年(明治7年)4月長者学舎を開設し、同年12月垣根学舎と改称し、地方子弟120名を集めて教育に従事した。同学舎は1876年(明治9年)3月に垣根学校と改名し、名実ともに私立小学校の先駆をなしている。これは胖庵の開いた寺子屋を継承して、その子が明治維新後の学制に則る学校に改めたものであるが、これより先、幕末から明治へかけ私塾として広く知られたものに、守学塾(銚子町新生)と懐徳塾(海上村柴崎)が挙げられる。守学塾は1846年(弘化3年)に宮内嘉長が開創したもので、経義詩文を講じ、斉家治国の人道を説いて人材を養成することを主眼とした。懐徳塾は1857年(安政4年)正月、海上八幡宮の祠官松本胤雄が創設した私塾で、尊王愛国・敬神崇祖・修身斉家等を綱領とし、専ら幕末から明治へかけての時流に投じるような人物を養成することに努めた。また一方には、高崎藩士が銚子に来て歓徴舎を開いた。銚子における洋学塾として最も早いもので、銚子に洋学思想が早くから流れこんだことがわかる。市内の諸寺院には「筆子中」あるいは「筆弟中」と刻した墓、また神社境内に建てられた頒徳碑等が遺存している。また銚子では幕末の頃、世情険悪を反映して、剣道柔道が盛んであった。銚子の信太鉄之丞は剣客として聞こえ、外川の石黒某は石黒流柔道をもって門人多数を養成していた[17]

幕府軍艦隊(左端が美加保丸)

千葉県の生んだ世界的測量学者、佐原の伊能忠敬は幕府の測量方として、1801年(寛政13年)7月18日、房州から九十九里沿岸を測量しながら銚子に入った。田中玄蕃の分家、吉之丞のもとに宿泊して日夜測量に従事し、犬若で待望の富士山実測を果たした。忠敬の測量が終わり、はじめて本邦の科学的地図が出来上がって半世紀、幕末の異国船がしきりに来訪し、国防の急務がしきりに叫ばれるようになった。間もなく内外の風雲いよいよ急を告げる情勢に、1861年(文久元年)、高崎藩は幕府の命をうけて、その領地である銚子海岸の武備を固めることとなり、領民に協力を求めた。田中玄蕃・濱口儀兵衛・岩崎重次郎は代官所から防備についての労役等を命じられている。一方、藩は寺田五右衛門宗有に命じて、川口その他の沿岸に砲台12座を設け、砲術訓練を行い一朝有事の際の備えを固めた。1862年(文久2年)10月2日には対岸の常陸原に異国船の乗り上げがあり、翌年4月22日には外川浦に見慣れぬ外国船現るとの情報が、銚子の人々を驚かしている。陣屋からは即刻兵がくり出されて、川口・荒野・今宮下がかためられた。翌々年の暮にも、常陸原に異国船の難破事件が突発している。この時も陣屋では直ちに警備のため、川口・今宮の両所へ兵を出している。1861年(文久元年)正月には、水戸の浪士が天狗党を組織し下総・常陸に横行、財物を掠奪した。これを筑波山事件、また天狗騒動と俗称するが、このため数年間銚子地方の蒙った実害は、金殻を強請された富裕豪農はじめ、物価高騰のため一般庶民が難渋する等、甚大なるものがあった。1868年(慶応4年)8月には、北海に逃亡を企てた幕府軍艦数隻のうち、美加保丸が飄風のために銚子黒生海岸に難破、その乗員中13名の死者を出し、他は逃亡という事件が起こった。銚子陣屋では多数の脱艦兵逃亡によって周章狼狽し、窮状を鎮将府に訴えている。美加保丸難破から間もなく、9月6日には播州御用船竜野丸が、少し離れた北方の二間の沖に坐礁破船した。この船に乗り込んでいた国木田専八が、文豪国木田独歩の父となる人であった。この年10月、水戸藩脱走の暴徒が来銚し、富商を脅迫しての金品奪取、また宝満寺娘を人質に拉致しての身代金強奪等の狼藉を働き、銚子は物情騒然たる有様となった(銚子事変)。この一隊は間もなく捕縛されて東京に送られ、銚子を混乱におとし入れた幕末最後の騒擾となった[17]

濱口梧陵

第7代濱口儀兵衛(濱口梧陵)は、幕末から明治へかけての社会変動期にあって、稀有の人格を完成した紳商であった。1820年(文政3年)6月15日、分家濱口七右衛門の長子として紀州に生まれ、1831年(天保2年)9月、12歳で本家の養嗣子となり、幼名七太を儀太と改めた。そして初めて江戸日本橋小網町の濱口家(吉右衛門)を経て銚子店に移り、家業を見習うこととなった。これより20歳で結婚するまで、数年間銚子に滞在し読書・修養に努め、特に剣道を今宮村目出度町の寛竹に学んだ。後年佐久間象山・三宅艮斎・勝海舟陸奥宗光福沢諭吉等の、当時最もすぐれた学者や経世家と親交を結んだが、その基礎はこの時代に築かれたものである。1854年(安政元年)11月4日広村大津波に際して彼がとった沈着適切の処置が多くの人命を救い、またその後の防波堤築造のため後顧の憂いを絶った事績は、小泉八雲がその著の中で「生ける神」として紹介し世界に知られ、また戦前の国定教科書に採録された。梧陵の銚子における特筆すべき事績は、コレラ防疫に対する処置である。1858年(安政5年)、コレラが流行し、江戸を中心として猖獗を極めていた時、江戸にいた梧陵は銚子荒野村の洋方医関寛斎を当時の大家である林洞海・三宅艮斎の両氏に紹介し、予防及び治療法の研究に関して便宜を図った。寛斎は臨床的にコレラ患者の治療法を学び、また実地について各方面より予防法を研究し、予防薬及び治療に関する薬品・書籍等を購入して銚子に帰った。銚子は既にコレラ流行地となっていたが、寛斎は江戸で学んだ治療及び予防法を応用し、全力を挙げてこの撲滅に従事した。このため、銚子地方はコレラ大流行を見ることはなかった。明治新政府になってからは駅逓頭に任じられ、のち和歌山県大参事・同県会議長等を務めて地方行政に尽くした。1884年(明治17年)5月、欧米視察のため渡米したが、翌年4月21日ニューヨークの客舎に病没した。銚子には1897年(明治30年)1月、勝安房題額・重野安繹撰の紀徳碑が営まれた[17]

近代[編集]

明治・大正時代[編集]

川瀬巴水『犬吠の朝』

新政府は、1868年(慶応4年)閏4月21日新官制を公布し、地方を府藩県に分け、府県に知事を置き、藩は旧による旨を告示した。この時藩以外の旧幕府領地は8府21県に分かれ、海上郡は房総知県事柴山典の管掌するところとなった。1869年(明治2年)2月9日、上総に宮谷県が設置されると、本地方はその管轄下に入り、柴山典は引きつづき任じられた。ところが同年6月17日列藩の請をゆるし、藩主をもって知藩事として藩制を改革し、府県の例にならい政務を行わせることとなった。このため高崎藩主大河内輝声は、同19日小御所において、弁事五辻禅正大弼から辞令が渡され、高崎知藩事となった。銚子は高崎藩である関係によって同知藩事の管するところとなり、旧飯沼陣屋がその支庁と改められ、吏員(旧藩臣であるがこれを官員サマと呼んだ)が赴任してきた。しかしながらこの制も僅かに2年足らずで改変され、1871年(明治4年)には列藩(263藩)を廃して県とする、いわゆる廃藩置県の詔が発せられた。この郡県制によって、本地方には新たに新治県を設置することとなり、海上・匝瑳・香取3郡は茨城県下の鹿島・信太行方河内筑波新治の6郡と共に、その管下に入ることとなった。以後、各地の県廃合がしきりに行われ、1873年(明治6年)6月15日には印旛木更津両県が廃されて千葉県が置かれ、1875年(明治8年)5月7日新治県も廃止、その区域は茨城・千葉両県に分合された。こうして海上郡は香取・匝瑳の2郡と共に千葉県管下に入り、ここに初めて現行の県制となった。1878年(明治11年)7月22日府県会規則が定められると同時に、郡区町村編制法が制定され、郡長・区長・書記を置いて地方政治に当たらせることとなった。続いて同年11月11日よりこれが実施され海上郡は匝瑳郡と連合し、各町村もいくつか連合して戸長役場を置き所管事務を掌理することとなった。こうして初めて、海上匝瑳郡役所が銚子荒野村に置かれた。この時、これらの各村に町村会議または区会議の開設が許されたが、のち1888年(明治21年)4月1日市町村制発布となり、1889年(明治22年)4月1日に施行された。郡下各町村は新制度に基づいて町村長および町村会議員を選定し、村治の事を司ることとなった。当時の銚子の町村編成は次のように定められた(○は役場所在地)[17]

本銚子町(○飯沼)、銚子町(○荒野・新生・今宮)、伊豆原村(○本城・長塚・松本)、豊浦村(○辺田・小川戸・三崎)、高神村(○高神)、海上村(○垣根・四日市場・赤塚・余山・三宅・松岸・高野・柴崎)、船木村(○高田・芦崎・岡野台・船木台・三門・中島・正明寺・九ヶ村新田・白石鶏沢新田)、椎柴村(○小船木・野尻・塚本・忍・猿田)、香取郡豊浦村(○諸持・下桜井・富川・下森戸・宮原・東笹本)

このうち伊豆原村は1884年(明治17年)7月本城・長塚の両村が連合して出来た戸長役場に、1889年(明治22年)8月松本村を加えて誕生したもので、村名の由来はこの地につづく海上台地の高所一帯を伊豆原と総称したことに因んだ。これが2年後の1891年(明治24年)9月には、西銚子町と改称している。銚子の中心はこの時から市制施行に至るまで、3町1村(施行後順次6村が併合された)で発展してきた。豊浦村は旧幕時代に小川戸村が海高(後の漁業税)を有した縁由により豊浦港といったという伝説に基づき、海上村は海上郷旧社である海上八幡宮に因み、船木村は和名抄の船木郷に依り、椎柴村は村の台地高原を古来椎柴野と呼ぶところから採る等、それぞれ郷土の伝統を重んじて付けられている[17]。銚子町・本銚子町・西銚子町をあわせた戸数、人口はともに県庁所在地千葉町を大幅に上回り、銚子は明治後期に至るまで千葉県内最大の都市であった。また、1890年(明治23年)の千葉県会が可決した県税予算のうち商工業活動を対象に賦課する県税の営業税・雑種税や漁業税等を見ると、本銚子・銚子町は合わせて3568円の負担額となり、千葉町より600円近くも多く負担している。千葉町は政治行政の中心都市であったが、人口・商工業の集積度では銚子に及ばなかった[4]。東京となってからは日本の発展とともに周辺に大都市が発生したが、江戸の頃には銚子が最大の衛星都市であり、その名残りは明治期まで続いていた。1896年(明治29年)5月、府県制及び郡制が施行され、これの実施を1896年(明治29年)9月よりと決定した。このため海上・匝瑳の両郡は分離することとなり、海上郡役所は銚子町に、匝瑳郡役所は福岡町(後の八日市場市)に分置され、各々郡会議員選出のもとに郡自治の運営はその緒についた。以後、海上郡役所の管下にあること25年に及んだが、1922年(大正11年)4月12日郡制廃止法が公布され、翌年4月1日これが実施となった。そして事務整理を完了した1926年(昭和元年)7月1日、海上郡役所は廃止され、ここに長い郡治の歴史に終止符を打った[17]

藤島武二『犬吠岬の灯台』
リチャード・ヘンリー・ブラントン

明治に入って、銚子にも相次いで文明開化の新施設が見られるようになり、犬吠埼灯台の建設、蒸気船の出現、測候所の創立、電信線の架設をはじめ、鉄道が開通し無線電信塔が聳立する等、その変貌は目まぐるしいものがあった。銚子で新文明のトップを切ったものは、犬吠埼灯台である。これより太平洋通いの船舶は、行くも来るもこれを目標とし、また沿岸航行の船舶もこれによって安全を得ることとなった。この種施設としては本邦最古の一つで、以後、銚子はこれによって象徴されるようになり、宣伝印刷物や商品の図案には必ず灯台が添えられている。1866年(慶応2年)9月英国公使サル・ハーリー・パークスが旧幕老中松平周防守等に建言しこの年5月に英仏蘭米4国と締結交換したいわゆる江戸条約(其第11条、日本政府ハ外国貿易ノ安全ノ為メ燈明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ)に基づいて、犬吠埼へ西洋型第1等灯台を建設することが明治政府と米国公使との間に商議されたのが起因となった。灯台をここ犬吠埼の断崖に定めたのは、1872年(明治4年)3月工部省招聘の技師英国人リチャード・ヘンリー・ブラントン等一行が、灯明台視察船テーポール号に搭乗して上陸査定した結果である。灯台の起工は1872年(明治5年)9月28日、竣工は1874年(明治7年)11月15日、造営に当たったのは、ブラントンに工事係中沢孝政・道家紋太郎等と器械取付方の英国人ジェームズ・オーストレル・大工棟梁松本久左衛門(銚子の人)等であった。造営材料は、香取郡産の木材・茨城県筑波郡北条町小田山産出の花崗岩・高神村産銚子石・香取郡高岡村製造の煉瓦を使用し、セメント・硝子板・金属器具・灯明器械類は外国産であった。材料中、最も多量を要するのは煉瓦であり、これを国産品に求めるか外国産のものにするかは、工事費に至大の関係があった。中沢技師は本邦産を用いることとしたが、ブラントンは英国製でなければ適せぬと主張して譲らなかった。中沢技師は海上郡余山にその製造を試みたが品質粗悪で到底用いようがなかった。中沢技師は本邦産が必ずしも適せぬ理由がないと、自説を翻さず種々腐心した。たまたま香取郡高岡村大字高岡に良土があることが発見されたので、土地の旧藩士等に製造法を伝授して焼かせたところ、これが外国産に比較試験して決して遜色のない逸品であることが確かめられた。こうして同技師の主張が貫徹して全部本邦産を使用したために、公費を節減できたことは甚だ大なるものがあった[17]。初期には逓信省、運輸省等に所属していたが、1948年(昭和23年)海上保安庁に伴って移管され、1953年(昭和28年)に犬吠埼航路標識事務所が発足した[19]

銚子は海上交通の要衝にあったことから、銚子汽船株式会社取締役と海上郡長ほか有志が、気象災害防止のため、1886年(明治19年)9月1日、荒野村銚子港字下富田屋町に私立測候所を開設した。この私立測候所が1888年(明治21年)4月、千葉県銚子二等測候所となり、1912年(明治45年)1月に千葉県銚子一等測候所に昇格し、1938年(昭和13年)10月には国営に移管して中央気象台銚子測候所となり、以後、文部省運輸通信省運輸省と移管された。1957年(昭和32年)9月1日には銚子地方気象台となり、国土交通省(旧運輸省)の外局である気象庁の地方支部局として、千葉県の気象業務を行うことを任務としている[19]

銚子地方では、1872年(明治5年)5月、野尻郵便局が開設されている。次いで同年7月、海上郡荒野村に銚子荒野郵便局が設置され、1886年(明治19年)4月三等局となり、1888年(明治21年)12月銚子郵便局と改称した。銚子で電信業務が開始されたのは1885年(明治18年)のことで、同年9月15日に荒野村に銚子電信分局が開局した。工部省はこの年12月に廃止され、電信の主管庁は逓信省となった。この分局は、当時の新生村・荒野村戸長石上忠平を総代とする有志による献納置局であった。献納置局とは、当時は政府予算だけでは電信分局の設置要望に応じられなかったので、地方の経済的負担により敷地・建物を献納して設置した局のことである。同局は1889年(明治22年)9月に銚子郵便局と合併して銚子郵便電信局と改称、1903年(明治36年)4月に再び銚子郵便局となったが、電信業務は行われていた[19]1901年(明治34年)度の電信発信・着信は千葉局を抜いて県下最高を維持していた[17]。銚子での電話開通は、1907年(明治40年)4月3日であった。銚子郵便局内に電話機を設置して、公衆に利用させる電話通話事務を開始した。通話区域は東京・千葉・横浜であった。銚子に電話が開通したのは、当時銚子郵便局長であった松本徳太郎を始めとして、元海上匝瑳郡長の杉本駿、ヒゲタ醤油の田中玄蕃その他山口文右衛門、石上新藤、高橋順五郎というような銚子の有力者たちが奔走した結果であった。これらの先駆者たちは、さらに銚子においても電話交換を実現すべく運動を続け、その結果早くも1908年(明治41年)4月1日から、銚子郵便局において千葉県最初の電話交換業務が開始されることとなった。市外通話で千葉に遅れた銚子は、電話交換では千葉に先んじて県下のトップを切ることとなった。千葉の交換開始は1910年(明治43年)3月21日である[19]

日本郵船「丹後丸」

1908年(明治41年)5月16日逓信省が我が国最初の無線電信局として銚子無線電信局を開設した。その位置は、飯沼村時代の字平磯台通称夫婦ヶ鼻であった。ここに日本最初の電信局が置かれたのは、航行中の船舶との無線電信電報業務を行う海岸局の設置位置として銚子が適していたためである。明治・大正から昭和前期にかけて、銚子無線電信局は犬吠埼灯台とともに市民の誇りとなっていた。銚子無線電信局による最初の無線通信は、1908年(明治41年)5月27日横浜港を出港して、シアトルに向けて野島崎沖を航行中の「丹後丸」が受信し、「二時横浜港帆、今銚子より西南六六海里にあり初めて無線通信を開く感度良し」の電報を送った。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線通信の電報である。初期の無線は、通信距離の拡大と通信内容の充実が進められ、電波帯も中波から短波へと広げられていった。銚子無線電信局跡には、皇紀2600年に当たる1940年(昭和15年)に逓信省が建立した「無線電信創業之地」の記念碑がある。1929年(昭和4年)3月、銚子無線電信局を送信所と受信所に分離して、高神村後新田(後の小畑新町)に受信所を新設するとともに、旧局舎は分室として本銚子送信所と称した。この本銚子送信所は1934年(昭和9年)に川口送信所と改称の後、1939年(昭和14年)8月に椎柴村大字野尻滝ノ台(後の野尻町)に移転、銚子無線電信局椎柴送信所となった。1949年(昭和24年)には逓信省、逓信通信省、逓信院、逓信省と変遷してきた主管官庁が電気通信省となって、銚子無線電報局と改称された。さらに1952年(昭和27年)8月、日本電信電話公社が発足して、公共企業体としての組織となった。戦後は送受信所の設備の改善・拡充が推進され、また運用部門の組織の強化も図られた。開局当時の使用電波は中波1波であったが、短波19波を合わせて20波となり、全世界の海上の航行する船舶と交信した。その結果海岸局としては日本一を誇り、また世界一といわれたイギリスの海岸局とも比肩するに至り、銚子無線電報局の代表的なコールサインであるJCSは、世界のJCSとして知れ渡った。また、日本が初めて南極観測を開始し、オングル島昭和基地に第1次の越冬隊員を派遣した1957年(昭和32年)から、日本では唯一の南極との通信基地として様々な重要な通信を行い、南極観測事業に大いに貢献した[19]

蒸気船「通運丸」

明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退した[19]。また、銚子川口の水深は満潮時11尺、干潮時は8.9尺に過ぎないため、河港に出入する船舶はおのずから制限を受け、江戸時代から150石積以下に止まっていた。従って明治以降、大船巨舶の発達するにつれ、奥羽地方の諸物資や廻米等は外洋を通過して寄港することなく、銚子港の商港としての役割は大きく後退した。しかし、利根川の水運だけは昭和まで残っており、新文明の花形である蒸気船の登場は、旧来の高瀬船による利根川水運に一大革新をもたらした。1874年(明治7年)、利根川沿岸の輸送交通を掌握して利益を収得する目的をもって、汽船利根川丸が回航されたのを皮切りに、年を追って個人企業の就航汽船数は増加していった。そして同業者間に激しい競争が起こり、互いに賃金を値下げして共倒れの窮境にまで陥る有様であった。そこで1881年(明治14年)12月、これを憂えた町の有志間に銚子汽船株式会社を設立して一本化することが企画され、翌年度1月に開業した。この事業に最も賛意を表したのは明治の先覚者である濱口儀兵衛(梧陵)で、自ら資金数千円を拠出して会社の設立を助けた。こうしてはじめて東京と利根・江戸両川の沿岸並びに北浦・霞ヶ浦の各地を結ぶ交通運輸の便が開かれるようになった。これは従来の小規模な、しかも長時日を要する交通情勢を一変させ、銚子をはじめ沿岸各地の発展に資するところも少なくなかった。総株数800株、上層株主のほとんどが銚子居住者によって占められているが、以下1株の小株主に至るまで、その大部分が銚子の人達であって、銚子人出資の、銚子のための企業体といえ、当時の銚子にあってはこれが最大の企業体であった。銚子から東京まで18時間、午後4時に興野河岸から乗った船が、翌日の午前9時に東京日本橋の蠣殻町に着くというものであった[17]。銚子町の小学校では毎年行っていた鹿島・香取巡りの修学旅行に、この蒸気船を使っていた[19]日本鉄道(後の常磐線)が開通してからは、取手で下船して汽車によって東京に出るものが多くなった。成田線が銚子に延び(佐松線開通)、自動車が発達すると間もなく衰滅し、失業した汽船の機関士が各醤油会社の蒸気機関係に吸収されたりなどしている。大正の終わりから昭和にかけてのことであった[17]

1935年(昭和10年)頃の新生駅

明治維新と共に、鎖国の堰を切って流れ込んだ泰西文明の波は、日本の交通機関を根底から変えた。岡蒸気と呼ばれた汽車が登場したためである。1872年(明治5年)の新橋横浜間の開通を皮切りとし、新時代の先端をゆく最も有望な民間事業として、全国各地に鉄道会社が設立されていった[17]総武本線1894年(明治27年)7月20日総武鉄道株式会社市川佐倉間で営業を開始したのに始まり、その後1897年(明治30年)6月1日本所(後の錦糸町駅)・銚子間、1904年(明治37年)4月5日両国・銚子間が開通した。次いで1907年(明治40年)9月1日鉄道国有法」によって国に買収され、以後国有鉄道となった[19]。本銚子・西銚子・銚子の3町有力者は、総武鉄道株式会社の設立と開通のため、終始その努力と熱意を惜しまなかった。濱口梧陵のような先覚者の支援や田中玄蕃はじめ有力者の出資が、この事業を力づけたことは甚大であった。田中玄蕃はこれの大株主であり、1893年(明治26年)7月常議員となっており、この鉄道のために大いに尽くした。また1898年(明治31年)5月銚港神社の社前に、町民各層が拠出して石灯籠一対を作り、記念のため献納している。開通当初の銚子・本所間の所要時間は、約5時間を費やした。国有鉄道となってからは、列車の改善と共に短縮され、1915年(大正4年)の時刻表によると4時間半前後となっている。朝5時20分の一番列車に乗ると、両国橋駅に10時5分着となり、夕方両国橋発6時の終列列車に乗れば、夜10時40分銚子駅に着くから、楽に日帰りが出来るようになった[17]新生駅では、1900年(明治33年)の開業以来、銚子の貨物駅として鮮魚を始め最も多くの貨物を取り扱った[19]

銚子遊覧鉄道の敷設工事
蒸気機関車の乗り入れ

銚子から犬吠埼・外川方面に至る鉄道敷設は、総武鉄道株式会社によって1901年(明治34年)4月免許が得られ、一部工事に着手されながら途中放棄となった。ようやく明治の末頃から避暑客・遊覧者の増加を見るようになって、土地の有力者間に私設鉄道敷設の議がおこり、1912年(大正元年)12月7日銚子遊覧鉄道株式会社が設立された。これは官線銚子駅を起点として、犬吠に至る3里半の軽便鉄道で、途中、仲ノ町観音本銚子海鹿島の4か所に駅を設置することも併せて認可を得た。工事は翌年6月15日より着手され、その年の12月28日に開通した。ところが1914年(大正3年)6月、第一次世界大戦が勃発すると、鉄材の大暴騰を来たし特にレールの価格は高騰したため、会社は経営の利益より売却の有利を逃さないこととし、これを筑波鉄道に売却し解散した。その後1923年(大正12年)、再び有志らが鉄道敷設の認可を得て、銚子鉄道株式会社を設立し同年7月開通した。路線も新たに犬吠から外川まで延長、敷設された。その後、観光客の来遊も多くまた沿線の住宅増加等によって事業は好調に向かい、駅も1925年(大正14年)7月1日笠上黒生(本銚子・海鹿島間)を置き、更に1931年(昭和6年)6月11日君ヶ浜(海鹿島・犬吠駅間)を新設した。戦後は銚子電気鉄道株式会社と改称した[17]

本銚子 - 海鹿島間を行く蒸気1号

成田線は1897年(明治30年)1月、成田鉄道株式会社が佐倉・成田間で営業を開始したのに始まり、翌年には2月3日成田・佐原間が開通し、佐倉・佐原間の鉄道となった。その後1920年(大正9年)に「鉄道国有法」に基づいて国に買収され、9月1日から国有鉄道となった。国有鉄道になってからは、地元住民の要望にしたがって佐原・松岸間に延長工事が実施され、1933年(昭和8年)3月11日に開通した。これによって銚子から佐原・成田回りで両国へ行くことも可能となった[19]。後に近接町村併合によって、沿線の椎柴(旧海上郡椎柴村)・豊里(旧香取郡豊里村)の2駅が、市域に包摂されている[17]。両国・銚子間は総武本線よりも成田線の方が遠回りで、時間も約30分多くかかり、運賃も高くなった。したがって銚子市民にとっての成田線の利用範囲はおおむね成田までであり、両国行きは専ら総武本線を利用した。しかし銚子を含む利根川沿線の町村がようやく鉄道によって結ばれることになり、交通や物資輸送面で多くの利益がもたらされた。なお銚子では、戦前一般的に成田線のことを佐松線と呼んでいたが、正式の線路名称は当初から成田線であった[19]。これら各鉄道の開通は、銚子の千葉県東部の重要産業都市、また漁港としての機能を発揮させ、市勢の発展と文化の向上に大きな役割を果たしている。こうして江戸以来明治に至る長い間、利根川による水運に依存していた銚子は、陸運の発達に恵まれた近代都市へと移行した[17]。また、1926年(大正15年)10月、一等飛行士猿田秀文が、三軒町に大利根飛行場という民間の水上飛行場を設営し、銚子・佐原間定期旅客輸送搭乗料1人片道10円、犬吠半島上空の「海の遊覧飛行」同5円、佐原・潮来上空における「水郷遊覧飛行」同5円を開始したことは、時代の最先端を行くものとして地方人を驚かせた[19]

波崎町は東下村と言った江戸時代の昔から、経済的・文化的に銚子に依存してきた。対岸の地一帯は行政上は茨城県鹿島郡に所属しているものの、渡船を動脈として実質上は銚子の一部か、延長となっているに過ぎず、これが銚子と波崎を結ぶ唯一の重要な交通機関となり、鹿島郡南部の人達が東京に行くのも、これで銚子駅へ出て汽車に乗るのが順路という実状であった。物を売るにも、買うのも、また子女の教育も高等学校からは皆この渡船で銚子へ来ていた。対岸の茨城県鹿島郡との川幅で最も広いところは1700〜1800メートルあって、江戸期より銚子各所に至る渡船連絡が運営されてきた。大正の頃は、市域に当たるところに11ヶ所の渡船場があって、人と貨物の運搬に当たっていた。各渡船は特定の個人がそれぞれ運営していたが、銚子に鉄道が開通し交通が駅に集中するようになり、おのずと興野渡船場が繁盛した。このため1919年(大正8年)、銚子汽船株式会社はこの事業の有利に着眼し、発動機船で波崎側の船着場のいくつかに順次立ち寄る巡航方式で渡船を開始した。後に渡船を指して巡航船と言ったのは、この時の名残りである[17]。しかし、1920年(大正9年)に波崎渡船組合が結成され、1922年(大正11年)には波崎町の伊藤汽船部が夜間渡船を始めて業者間で激しい競争が続いたが、最終的には終戦後の1953年(昭和28年)、波崎町が渡船の管理運営に当たることで決着した。また、その前年の1952年(昭和27年)10月15日に茨城県営の自動車専用渡船が開設され、その運行管理は波崎町に委託された[19]。この現象は、銚子が明治以後急速に発展し、地方都市としての体制が整うに従って波崎町の銚子依存度も向上し、渡船利用率がこれに伴い激増したためである。銚子へ映画を観覧に来ている波崎町民のために、毎日その映画館終業後の午後11時頃、銚子渡船場発の最終便が運航されていたのも、両地の相関がもたらしたこの地ならではの景観であった[17]

大正期の銚子港

近代に入ってからも、漁業は依然として銚子の主要産業であった。むしろ漁業への依存度は江戸時代以上に高まり、産業都市銚子における漁業の比重は増大した。それは明治維新によって東廻り海運が急速に衰微し、銚子港の商港としての役割が大きく後退したためである。そのため明治時代に入ってからの銚子は、しばらく往年の活気を失ったが、やがて漁業が文明開化の進展とともに近代漁業へと発展し、銚子港は全面的にその根拠地として、新しい息吹を上げることとなった。漁業発展の要因は漁船の動力化であった。銚子で漁船が最初に動力化したのは1907年(明治40年)以後のことで、この頃建造された銚子の動力船は5艘である。エンジンは電気着火式石油発動機を用いたが、間もなく焼玉エンジンが現れた。動力船は一般に機械船あるいは発動機船と呼ばれ、大正期に入ると急増して、1915年(大正4年)末には早くも71艘に達している。動力化は漁船の大型化を招き、従来の手漕ぎの漁船は大きくても3トン前後であったが、動力船は15トン前後から20トン前後の大きさを持つようになった。また漁具・漁法の変革を促し、さらには航続能力の飛躍的な向上によって行動半径が拡大し、漁場も沿岸から近海・遠洋へと延びて行った。そして他港の漁船が回航してきて、ある期間ここを基地として操業するようになった。いわゆる廻船である。廻船は水揚げを増加させるだけでなく、資材・食糧等の仕込み、乗組員の休養・娯楽等による消費も伴うので、漁港にとっては経済を支える有力な柱として重視された[19]

主力漁業として期待されていたのはイワシ漁業であった。イワシ網は明治前半までは依然として八手網が使われていた。しかし後半になってからあぐり網が入ってきて、江戸時代からの長い歴史をもつ八手網は姿を消していった。1864年(元治元年)に大漁節を生んだ幕末のイワシの豊漁期は、1877年(明治10年)頃に終わって不漁期に入ったが、他方ではその他の漁業自体が質的に向上してきたこともあって、その他の漁業の漁獲高が総漁獲高の中でより大きな比重を占めるようになった。その他の漁業の進展を支える基盤となったのは、鉄道の発達による鮮魚消費市場の拡大、特に東京出荷の日常化の実現であった。この時代のその他の漁業中、最も主要な位置を占めていたのは、マグロ・カツオ漁業である。漁法は一本釣り、はえ縄、ながし網等であった。かつてイワシの銚子とされていた銚子は、大正時代にはマグロの港とさえいわれるほどになっていた。しかし昭和に入ると、漁場が遠くなったことで、銚子のカツオ・マグロ漁業は漸次衰微を余儀なくされた。カツオ・マグロ漁業とは反対に、小物類を対象とする漁業として、大正期から盛んになってきたのは機船底びき網漁業である。機船底びき網漁業に次ぐ小物類の漁業は、タイ・アラ縄漁業であった。1897年(明治30年)頃からは、刺網によるサンマ漁業が盛んになった。これらのほか、小縄と称するはえ縄によって、ヒラメ、ホウボウ、タイ、スズキ、カレイ等が漁獲されており、雑漁業と総称される各種の漁業が行われていた。また利根川では、ハゼ、ウナギボラシジミ等を対象とする漁業が行われていた。なお1907年(明治40年)前後の時代には、主として外来の捕鯨会社によって、銚子を基地とする近海の捕鯨漁業が盛んに行われ、かなりの成果を上げていた。イワシ漁業は、大正から昭和前期にかけての時期に不漁期から豊漁期に転じ、水揚げ高は毎年右肩上がりに増え、1936年(昭和11年)に15万5000トンという史上最高記録を示すこととなった。イワシは搾粕に加工され、同時に魚油も生産されたため、地域経済に対する波及効果が大きく、イワシ漁さえあれば銚子は不景気知らずといわれた。この年を中心にして前後数年間は豊漁が続き、銚子の町は活気に溢れた。1932年(昭和7年)には、あぐり漁労長ら80余人が大新旅館で盛大な大漁祝賀会を開いた[19]

日本資本主義興隆期の大波は、銚子の商業資本家や富豪地主の企業熱をあおり、明治中期以降、幾多に会社創立あるいは工場経営となって現れた。しかもその殆どは、1894年(明治27年)、1895年(明治28年)の日清戦争以後に属している。この戦争の勝利が、我が国の経済界を刺激して飛躍的大発展を遂げさせたのであり、次いでおこった日露戦争の勝利によっていよいよ国際資本主義社会に伍していく基盤は強固となった。その一端はこの銚子にも、両戦役後の会社企業の勃興となって、活発な経済活動を展開している。銚子にいち早く出来た会社は、1881年(明治14年)2月発足の銚子汽船株式会社である。次いで設置されたのが金融機関で、東京の川崎銀行が1893年(明治26年)に銚子支店を設けたのを皮切りに、1899年(明治32年)5月には地元銀行として銚子銀行が創立されている。続いて川崎貯蓄銀行が同年12月に銚子支店を置くと、1901年(明治34年)4月には地元有志による武蔵貯蓄銀行の開業を見、1908年(明治41年)11月に豊国銀行銚子支店が開設となった。また地元の中小商工業者を対象とする金融機関として、銚子信用組合が1910年(明治43年)7月に創立されている。1907年(明治40年)には、大小数多の醤油業者の使う搾袋の製作を主とする利根織物株式会社が興野町砂良神に工場を建設している。また1912年(明治45年)1月、小倉久兵衛創業の麻真田製紐工場も盛大で、市内有数の事業成績であった。漁場が沿岸から近海へ、さらに遠洋へと伸長するにつれて、漁網や鋼の需要が激増したため、これの生産にあたる工場も続々と設立されるようになった。中でも銚子製網所(鎌倉国松)が最大であった。電灯と瓦斯の企業は、前者が1910年(明治43年)2月、後者が1913年(大正2年)7月に会社が設立された。他に特異なものとしては、銚子町の豊田菓子工場が挙げられる。創業を古く1785年(天明5年)に発する菓子老舗で、水戸屋の屋号は銚子はもとより、広く下総一帯に響きわたっていた。昭和のはじめ頃までは「トンボ止まれ、水戸屋の饅頭買ってやっからトンボ止まれ」と蜻蛉釣りの児童にまで唄われていた。水戸屋は江戸の頃から明治・大正へと、幾多の菓子をもって銚子の人々に膾炙し、親しまれていた[17]

日本の各種産業は、維新後急速に近代化していったが、銚子の醤油産業もその例外ではなかった。多くの醸造業者は、まだ小規模の家内工業の段階に止まっていたが、ヤマサ・ヤマジュウ・ヒゲタ等の江戸期以来の大工場は、着々と機械化装備を整えて資本主義興隆期の波に乗った[17]。明治中期からは鉄道が開通して、輸送条件が更に好転した。利根川舟運の発達、総武線の全通、東京市場の拡大や第一次世界大戦期の好況等に促されて、経営は急速に拡大を遂げた[4]。この時代の醤油醸造業者は、銚子・本銚子の両町に10家内外を数えた。旧銚子組造醤油仲間が解体して、1888年(明治21年)9月、新たに銚子醤油醸造業組合が設立許可されているが、それによると本市域に該当する地域に11家の存在を見る。同組合の包括地区は、銚子を中心に下総の東南部から対岸の常陸周辺にわたる、かなり広大なものであって、しかも逐次区域は拡大した。さらに1901年(明治34年)5月17日附の同組合地区変更書を見ると、「海上郡本銚子町・銚子町・船木村・椎柴村・豊岡村・飯岡町・三川村浦賀村・旭町。匝瑳郡福岡町・椿海村豊畑村東陽村。香取郡笹川村・滑川町。茨城県鹿島郡若松村。同稲敷郡鳩崎村」の6町11ヶ村が挙げられている。醸造石高の大部は銚子の生産に係り、年を追って増大した。1904年(明治37年)即ち日露戦争の年から僅少ながら外国への輸出が見えており、躍進日本の片鱗は、銚子の醤油にも現れていた。組合頭取は田中玄蕃(ヒゲタ)・濱口儀兵衛(ヤマサ)・岩崎重次郎(ヤマ十)の輪番であり、3家の東下総醤油界における覇者としての地位は依然として変わっていない。1902年(明治35年)5月に、同組合が農商務省商品陳列館へ提出した届書によると、3家の造高は2万余石となって、全高の2分の1に達している。企業の単一化、大資本への集中は、この頃から進行しつつあった[17]

1919年(大正8年)のヤマサ醤油広告
濱口梧洞

江戸から明治・大正・昭和と2世紀あまりの間に、興亡盛衰の波に姿を没した銚子醤油の銘柄は多くの数にのぼるが、遂に大をなしたのはヤマサとヒゲタの2つである。実に両醤油は名実ともに銚子を代表するもので、野田のキッコーマンと並んで本邦三大醤油、世に三印の俗称をもって呼ばれた。ヤマサ醤油は1906年(明治39年)12月に濱口合名株式会社に組織変更し、ヒゲタ醤油の会社化と並んで日本屈指の醤油会社となった。その後、1914年(大正3年)8月に合名会社を解き濱口儀兵衛商店に復帰したが、1928年(昭和3年)11月ヤマサ醤油株式会社と組織を改めた。その間ジガミサ、ヤマジュウその他の同業銘柄を合併吸収し、また、第2・第3工場を新設・拡張する等、特に昭和以降は躍進の一途をたどった[17]。第10代濱口儀兵衛(濱口梧洞)は、1901年(明治34年)に組合立の醤油研究所を開設し、醤油に関する理化学的な研究に着手した。これは銚子醤油組合試験所と呼ばれ、ヒゲタ・ヤマジュウらの醸造家とも相談して設立され、内務省衛生試験場長薬学博士田原良純を顧問として発足した[4]。また、1924年(大正13年)には巨万の私財を投じて財団法人公正会を設立し、銚子における社会教育機関としての公民館並びに図書館の最初となった。ヒゲタ醤油は1914年(大正3年)9月、第13代田中玄蕃(直太郎・金兆子と号す)が濱口吉兵衛・深井吉兵衛の同業と合同して銚子醤油合資会社に改めて会社化の一歩を印した。次いで1918年(大正7年)9月株式会社に改組したが、1937年(昭和12年)5月に野田の茂木家資本が入るとともにその傍系会社となり、田中家の手を離れた[17]

銚子における缶詰製造の歴史は古く、その始期は日本の缶詰の濫觴期に属する。1879年(明治12年)、勧農省局長松方正義がフランスから巻締機1台を購入し、同局の事務官成島鎌吉、西久保弘道が水産講習所の生徒を伴って来銚し、イワシ油漬約20箱を製造のうえ、これをウラジオストクに輸出した。これが銚子における缶詰の製造・輸出の最初である[19]。明治から大正時代にかけては、わずかに1904年(明治37年)10月創業の常陸谷缶詰工場、1907年(明治40年)3月創業の斎藤缶詰工場が、併せて4万2000個の魚類缶詰を製造していた程度であった。しかし1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけ、明石缶詰工場に水産講習所教授の木村金太郎が来銚、トマトサージンを試造し、その事業化を図ったことがこの地の缶詰製造業に新生面を開くこととなった[17]。また、1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)の稀に見るイワシの豊漁は、企業家を刺激して缶詰事業に着目するものが続出し、従来よりさらに大規模の漸新工場が相次いで設置され、一躍18工場となり、一大缶詰工業地として急激な発展を遂げた[19]

戦前から戦後の一時期まで、千葉県は全国有数の甘薯生産県であった。また海上郡も県下有数の甘薯産地であった。これらの甘薯の大部分は澱粉の原料とされた。銚子地方においても澱粉工業は、漁業に関連する水産加工業と同様に、農業関連産業として重要な役割を果たしていた。銚子地方における澱粉製造の歴史は古く、天保年間にさかのぼるが明確な時期は不明で、記録によれば1889年(明治22年)小畑町の農家石橋重兵衛が千葉郡蘇我町より講師を招聘して澱粉製造の技術を習得したのに始まる。当時僅かに人力手摺機によって製造する方法であったが、日露戦争後澱粉分離機が考案され、日本工業の発展に伴い蒸気機関、石油発動機の登場を見るようになり、さらに1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)頃より電動機に変わり澱粉製造機の改善と、原料甘薯の品種改良と共に一大飛躍を遂げた[19]

銚子で製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業の一つに成長した。最盛期は大正期の関東大震災後であったが、昭和初期にもなお盛んに製造されていた。主たるものは履物の籐表であり、業者は百数十件あった。籐表を編む作業は多く内職に出された。内職に従事したのは漁民家庭の主婦が多く、不漁時の生計の支えとしたが、一般家庭の主婦たちも少なくなかった。籐製品の産地は全国で銚子・波崎ともう1か所しかなく、銚子独特の産業であった[19]

大正期の長崎海岸

製鋼網は1884年(明治17年)鎌倉長松が漁業の副業として事業化し、第一次世界大戦時に銚子製網株式会社を設立した。最盛期の大正年代には大小の製網業者が輩出した。明治中期頃からは機械船と称される大型漁船(20トンから100トン内外)の建造が盛んとなり、各地に造船業がおこったが、銚子では1911年(明治44年)に植松町の金田進治郎が大型漁船の建造に着手して、木造船産業の先駆をなしている。鉄工業は明治以降の漁船の機械化、即ち発動機船の普及にうながされて近代化し、漁船用発動機の製作を主とした。これの供給は北海道から東海地方にも及び、併せて近隣及び市内の澱粉・醤油関係の機会と農耕用機械の需要にも応じた。銚子縮は漁村波崎の家内手工業に端を発し、江戸時代から明治年中にかけて、その名は諸国に聞こえ、生地の堅牢さと染色の優雅さは好評を博して、広く一般に愛用された。明治に入って新しい紡績機を装備して時勢に順応したが、大正を経て昭和に入る頃には衰微した。黒生海岸一帯にかけては、十数件の瓦窯工場があった。もと越前福井県)から移住した柳屋という家があって、これが最古の瓦屋即ち草分けであり、その創始の年代は江戸末期に近い頃である。黒生に瓦が発達したのは、この地の粘土が良質で瓦に最適であったことに由来し、かつて銚子瓦が三州瓦三河国産出)に比肩するとうたわれたのもこのためである。古くから墓石や供養塔に盛んに用いられた銚子石は、明治以降ほとんど建築用と砥石(荒砥)にあてられるようになった。産地は長崎海岸近くである[17]。1936年(昭和11年)12月1日には「商工会議所法」に基づき、千葉県で最初の商工会議所として銚子商工会議所が設立認可された[19]

明治末頃の銚子

銚子の町の明るさは、町の中心に控えて一種の風格を与えている観音さまが醸し出す空気によるものであろう。其の後、年を経て「南総里見八犬伝」の犬飼現八や犬塚信乃が古河の芳龍閣の甍の上で切り結んで大利根に逆落しに落ちてゆく場面なぞを読むと、何うも滝沢馬琴は銚子の観音堂を舞台に想像して書いたように思われるし、玉川勝太郎の浪花節「天保水滸伝」の飯岡助五郎と笹川繁蔵の喧嘩出入の場面なぞに思い及ぶと、青い洋々とした大利根や川岸に屹立する観音堂や殷賑な町を背景に、美女や侠客が派手な生活を展開するには、まことに銚子はふさわしい処のような気がするのである。

「銚子の思い出」鱸平助

銚子は江戸時代の中期に既に芝居の劇場ができており、地方の町の割には娯楽施設が発達していた。芝居の劇場は銚子駅前の開新座のほかに、陣屋町に歌舞伎座、新生に銚楽座があった。いずれも明治時代に建てられたものである。木造2階建てで、見物席は平土間のほかに桟席が1・2階にあり、舞台は回り舞台花道を備えていた。寄席も袋町(本通二丁目)に岩井亭、外川町に外盛館、田中町に弘遊館があった。映画館は飯沼観音境内の銚盛館と馬場町の銚子座で、共に前身は芝居小屋であった。銚盛館は戦後もしばらくは営業していたが、映画がテレビに押されるようになってから閉鎖された。銚子座は銚子日活と名を改めて営業を続けていた。1932年(昭和7年)になると清水町に愛宕キネマができ、1936年(昭和11年)には飯沼町に演芸館ができた。銚子には浪花節ファンも多かった。浪花節の公演は芝居の劇場や寄席で行われ、日本の一流の浪曲家がしばしば来銚した。映画館や劇場が本銚子町に多かったのは、飯沼観音を中心にして盛り場が発達したからである。芝居や映画以外にも、撞球場麻雀屋のような遊び場もあった。撞球場は明治時代からあり、いわゆる名士の間で楽しまれていた。そのほか、射的場コリントゲーム場等の遊戯場もあった。松岸・本城・田中の3か所には、江戸時代から花街が発達して昭和に及んでいた。銚子では公娼を相手とするところを女郎屋と称し、私娼を相手とするところを茶屋と称したが、松岸にあったのは全て女郎屋であり、本城は女郎屋と茶屋であった。田中は全て茶屋であった。松岸・本城は衰微期に入り始めていたが、松岸の第一、第二開新楼は三層の建物が豪壮で有名であった。特に第二開新桜は利根川べりにあり、川の水を引いて周囲に堀を巡らせ、門の前に朱塗りの太鼓橋が架かっていて、講談天保水滸伝をしのばせるものがあった。松岸・本城に比べると田中は繁栄期にあり、茶屋の数は90余軒、およそ400〜500人の私娼がいた[19]。田中は飯沼観音裏手から和田町にかけての一帯の俗称であり、古くから観音札所を中心に発生した私娼窟である[17]。銚子は高級料亭から小料理屋蕎麦屋食堂に至るまで飲む場所もまた不自由はなかった。折からカフェー全盛の時代であったので、カフェーも各所に現れていた。旧正月と八日まち(灌仏会)には、飯沼観音境内に曲馬団等の見世物小屋が掛かり、露店香具師が出、近郷近在からの人出で幾日も賑わった。銚子で特に名物になっていたのは、飯沼観音の後、いわゆる堂の下にある佐野屋の今川焼であった。昭和初期、近郷近在から銚子に来る農家の人々や回船の漁師たちは、飯沼観音に詣でた後、この今川焼を食べるのが楽しみの一つで、店頭や店内は常に客でごった返していた。銚子の人々も遠くから買いに行った。味をつけないうどん粉だけの皮と、黒砂糖小豆、そして5センチの厚さのある素朴な味わいが、庶民の人気を呼んでいた[19]

濱口吉兵衛

この頃、銚子ではその将来を左右する一大公共事業が、歩一歩と進められていた。それは銚子漁港修築工事いわゆる銚子築港である。この事業を軸に銚子は実質的に前近代から近代へと、大きく転換しようとしていた。江戸時代の銚子湊は、主として商港として興り、商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかったが、近代に入ると主客転倒し、やがて純然たる漁港に転身した。しかし、大正期に入ってもその形態はほとんど天然のままで、わずかに沿岸の砂浜のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。利根河口が船舶にとって難所であることは昔からのことであるが、それは漁船が近代化しても解消することはなかった。この点は銚子港の宿命的な欠陥であり、この問題を解決しない限り、銚子の漁業そして銚子漁港の、大きな発展を期待することは困難であった。また港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。銚子港の修築問題は、大正期に入ると漁業関係者の一致した認識となり、やがて具体的な実現運動に発展し始めた。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から、一大整備を行うことになり、1920年(大正9年)度予算に調査費を計上した。この予算は、総選挙後の7月に召集された第43回特別議会で成立した。この総選挙には銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛が立候補して当選した。代議士の立場から築港の促進を図るためで、そのため在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけるのに多大の私財を費した。農商務省は、1920年(大正9年)、1921年(大正10年)度に調査を行い、1922年(大正11年)に修築計画書の作成を完了した。この計画書による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なものであった[19]。外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった[17]。したがって工事費もまた1000万円という膨大なもので、それを1923年(大正12年)から10か年継続で行う事業計画が立てられた。政府は総工事費の半額は国庫で負担し、残る半額は将来銚子漁港を利用する関係にある府県で分担させようとしたが、各府県の財政事情により実現には至らず、千葉県単独で実施することになった。県会議員であった銚子町の小野田周斎(医師)は議長歴もあり、築港問題については濱口吉兵衛の片腕となって東奔西走していたが、その労が実ったものである[19]

今井健彦

しかし内務省は、利根川最下流の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは、利根川の流れにとって障害となり、治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとせず、起債と工事施行の認可は容易に下りようとしなかった。両省間の見解の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに、容易に解決を見ることができず、事業の開始は遅れる一方であった。地元の銚子にとっては、その将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員を通じて、内務省や農商務省に働きかけた。そのため濱口吉兵衛は1924年(大正13年)5月の総選挙に再出馬して当選したが、濱口のみならず香取郡から再選された今井健彦をも動かした。今井は両省間を駆け回って調整に務め、彼自身漁港や治水に見識を持っていたので、大いに奏功した。このため戦後名誉市民に推挙されている。ようやく工事認可を見ることができたのは、1925年(大正14年)8月のことであった。ただし全面的に認可されたのではなく、第2漁船渠に関してだけであった。起工式は1925年(大正14年)11月21日に、飯沼魚市場において挙行された。銚子築港実現への過程において、県は合計10か所の魚市場を買収し、かつ整理統合して飯沼・内浜・東浜・新生の4市場とした。そして前年11月に設立された千葉県水産株式会社に、市場業務を経営させることにした。工事には、当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置された。第2漁船渠は新生・飯沼町地先の水域で、陸地に懐深く食い込んだ部分であったが、そのさざ波が寄せる天然の岸辺は年と共に姿を消し、やがて広大な埋立地に生まれ変わっていった。しかし、第2漁船渠工事の着実な進展にもかかわらず、他の工事は依然として認可されず、県は大幅な計画変更を決意した。新計画は総工事費を568万円に縮小し、外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口(千人塚下)と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第3漁船渠を設けるというものであった。この計画変更と工事施行は、1932年(昭和7年)6月に認可され、漁業関係者の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第1漁船渠区域・外港部へと延びていった。なお、この年には既に埋め立てされていた第2漁船渠後背地に東洋一[19]の新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは、全長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まった。銚子漁港修築工事により、本城町地先から川口に至る下流約5000メートルの利根川沿岸は、近代的漁港として新しい姿に生まれ変わった[19]。濱口吉兵衛は銚子漁港修築の功労者として、1935年(昭和10年)10月、市の有力者間にその寿像建設の議がおこり、1937年(昭和12年)に完成した[17]

昭和前期[編集]

初代銚子市長 川村芳次

銚子の市制施行については、1923年(大正12年)頃から度々有識者間において話題となっていた。それは、社会的に一つの圏を形成してきた銚子3町3村が、行政的にも合併して名実共に銚子という一つのより強力な団体を形成することであった。その場合地方制度上市制が施行されることになり、行政水準の向上と地域の発展の可能性を期待することができた。銚子漁港修築工事は本銚子町、銚子町、西銚子町の3町区域に及び、これの起工を目前に控え市制施行の議が台頭したが、時期尚早であるとする論者が多数を占め、実現しなかった。銚子の市制施行がようやく現実の可能性を帯びてきたのは1932年(昭和7年)のことで、その動機は漁港修築工事の促進問題であった。その促進は大銚子市建設によって解決する他ないという議論が起こり、これが動機となって市制施行の好時期であることを一部が唱え始めた。このように世論が関心を持ち始めつつあった中で、町政関係者らは市制施行の意志を陳情の形で県当局に表示すると共に、必要な基礎的調査を要請した。1932年(昭和7年)に入ってから6月まで、銚子町長野口薫・本銚子町長内田為三郎らがしばしば出県して、当局と接触した。また西銚子町長仲内文造・豊浦村長山口幸太郎らも協力した。これに対して千葉県は極めて好意的な姿勢を示し、地方課長川村芳次をもって積極的な指導に当たらせることになった。8月20日、銚子町役場において、本銚子・銚子・西銚子・豊浦・高神3町2村の初の町村長会議が開かれ、県から川村地方課長外職員2人が出席して、市制施行実現に関する基本的事項を協議決定した。この決定に基づき、各町村から大銚子市建設委員と同代表委員が選定されて市制施行の準備体制が作られ、準備事務が進められた。この後9月27日、県は関係町村長を県庁に招集し、岡田文秀知事・川村地方課長らとの協議会を開き、同日付をもって知事の諮問を行った。諮問の内容は、各町村会に対して市制施行の可否を問うものであった。これに基づいて10月15日各町村は一斉に町村会を開いて答申案の審議を行い、銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が市制施行を可とする答申案を議決した。そして内務大臣から正式な諮問が行われ、各町村会はいずれも異議なく議決答申した。この答申に基づき内務省は1月7日銚子市制施行を告示し、1933年(昭和8年)2月11日をもって銚子市の発足が決定した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった[19]

犬吠埼灯台
銚子市制祝賀の歌(藤田千葉縣内務部長作詞)

一、三つ銚子に 豊浦と 四つ揃ふて 大銚子 大和島根の 東海に その名も高き 大漁港 生まれ出でたり 紀元節

二、太平洋の 大しけも 大利根川の 荒波も 築港やがて 出来る時 大船小船の 數々は 河堤に抱かれ 夢まどか

三、春夏秋冬 變りなく エンサエンサの 漁獲船 ヤマサヒゲタの 工場は 日本一よと 氣を吐いて 賑ふ様の 勇ましさ

四、市の長には ピカ一を 市會議員に 一流を 五萬の市民 一となり 鹿島香取に 願かけて 市勢の發展 祈りませう

千葉県は臨時市長職務管掌として、当初より市制施行に力を尽くした地方課長川村芳次を任命し、3月3日最初の市会議員選挙を執行した。同時に臨時助役代理として野口薫・内田為三郎、臨時収入役代理として斎藤国衛が知事の任命を受けた。3月14日から3日間にわたって第1回市会が召集され、市会議長に大里庄治郎が選出され、市長に濱口吉兵衛が推薦された。しかし濱口の受諾を得なかったので、5月8日の市会は川村芳次を推挙した。これより先、川村は銚子市長職務管掌を解かれ、野口薫がこれに代わっていたが、5月14日改めて川村が初代市長に就任した。これに助役渡辺章六・収入役斎藤国衛をもって、新興銚子市の運営が開始された[17]。市制施行祝賀行事の中心行事である祝賀式は、6月3日飯沼町地先の第2漁船渠埋立地に新装された魚市場で挙行され、内務大臣代理以下市内外の関係者千余人の出席を見る盛典となった。その席上で川村市長は、本市の根本的性格を商工・水産・遊覧都市とし、この性格に立った近代的な都市づくりを施政の目標とすることを表明した。市の体制が漸次整うにつれて市政も軌道に乗り始めたが、将来の発展のための基盤として、市が鋭意努力を続けたのは、土木と教育面の建設的事業であった。土木特に道路整備に関する事業は、都市づくりの基本として、川村市長の就任以来常に市政の重点とされ、市内の道路は急速に整備されていった。1933年(昭和8年)5月には銚子観光協会が設立され、県立公園指定に関する陳情と銚子東京間列車時間短縮並びに増発に関する陳情を行った。県立公園指定が実現したのは2年後の1935年(昭和10年)5月であった。1934年(昭和9年)度には観光銚子の玄関の整備に着眼し、銚子駅の増改築と駅前広場の舗装を関係当局に陳情した。その結果、1936年(昭和11年)に銚子駅の全面的な改築が実現して、2階建のモダンな駅舎となった。本市が発足して4年後の1937年(昭和12年)2月11日、高神・海上両村の合併が実現し、近世以来銚子と汎称されてきた地域は、ここで全く一つの行政区画となった[19]

銚子にはかつて1900年(明治33年)4月開校の銚子中学校があった。しかし、県の緊縮財政方針のため、この中学校は開校後僅か数年にして、1906年(明治39年)3月に廃止された。だが地元銚子町外2町5村が学校組合(一部事務組合)を作って継承したので、名目が県立から組合立に変わっただけで、事実上は存続した。ところがその組合においても維持が困難となり、1911年(明治44年)4月に廃校が決定した。そしてこの直前の1909年(明治42年)4月に勧業振興のため実業教育の充実を意図した県は、銚子町に県下唯一の県立商業学校である銚子商業学校を新設した。このため、市制施行当時の公立男子中等学校は、銚子商業学校1校であった。そこで市制施行後、市会は県立中学校設置に関する意見書を県に提出し、早期実現を要請したが、県の財政事情から、可能性はほとんどなかった。一方、市民の要望はますます高まっていったため、1936年(昭和11年)度に市立中学校の新設が決定された。市立銚子中学校1937年(昭和12年)4月に開校し、仮校舎で授業を開始した。春日町の本校舎に移ったのは1938年(昭和13年)3月であった[19]

下志津陸軍飛行学校銚子分教場 女子挺身隊

銚子が市制を施行した時代は、日本が軍事体制の強化を推進しつつあった時代であった。1936年(昭和11年)、銚子に陸軍の飛行場が設置されることになった。飛行場設置の計画は、1935年(昭和10年)5月に、下志津陸軍飛行学校の幹事である後藤広三少将によって市当局にもたらされた。それによれば、同飛行学校の分教場を銚子に設置したいというものであった。銚子が選ばれたのは、訓練に適した地理にあったからである。以後陸軍と市との数次にわたる共同調査の結果、飛行場の位置は春日台の台地すなわち後の春日町から上野町にかけての約15万坪の畑地と決定された。飛行場建設工事は1936年(昭和11年)2月に開始され、年末の12月1日に開校した。常駐の隊員は50人〜60人程度で、常置の飛行機は20機前後であった。当初配置されていたのは八八式偵察機九一式戦闘機で、その後九四式偵察機が主力となり、これに九五式戦闘機が加わった。訓練科目は、偵察機の射撃訓練や戦闘機の戦闘訓練であった。1937年(昭和12年)になると日中戦争が勃発し、これに伴って軍の指導による民間防空監視隊がいち早く設置された。そして1940年(昭和15年)には海軍が防空監視部隊を銚子に常駐させるようになった。これは教育部隊ではなく、海軍の防空監視という戦時任務を担った部隊であった。この部隊は横須賀鎮守府犬吠望楼と称し、犬吠埼に駐屯した。太平洋戦争開戦後の本土防衛態勢は、1942年(昭和17年)4月18日に本土初空襲を受けてから真剣に考慮されるようになった。この空襲の後参謀本部は、当時最新の兵器であった「電波警戒機乙」と称するレーダー2個を、急遽銚子に配置した。愛宕山に陸軍のレーダー部隊が移駐してきて、地球展望台を中心にして付近にレーダーを設置し、終戦時まで対空監視の任に当たっていた。このレーダー部隊は、秘匿名を筑波隊と称し、本部は東京・赤坂の東部第1792部隊であった。兵舎は愛宕山に3棟設けられた。名洗町と高神町の中間と三宅町の2か所に筑波隊の分屯所があり、そこにもレーダーが置かれていた。さらに高神町と長崎町には、低空で侵入する敵機を捉えるため、聴音機器が2台配置されていた。筑波隊が愛宕山に基地を設けてから、これを擁護するため高神小学校に砲兵部隊が駐屯するようになった。この部隊は北村隊と称する砲兵中隊で、砲2門を有していたが、砲は10糎加農砲であった。北村隊は後に川口方面に移動した。筑波隊が愛宕山に移駐してきた1942年(昭和17年)4月に、海軍もまた愛宕山にレーダー基地を設置した。その中心部の跡は後に郵政省犬吠電波観測所になった。海軍のレーダー基地は横須賀鎮守府犬吠電波探信所と称した。レーダー部隊に続いて1943年(昭和18年)に、三崎町三丁目の旧字船ヶ作に千葉陸軍防空学校銚子分校が開校し、その後千葉陸軍高射学校銚子分校と改称した。高射砲訓練を行う、陸軍では唯一の学校であった。銚子分校が設けられたのは、海岸近くで実弾射撃の教育訓練を行うのに適していたからである。分校には高射砲6門が備えられ、1個大隊約320人の隊員が常駐していた。空襲時には対空戦闘を行う任務と戦力が与えられており、後の空襲時には何機かの敵艦載機を撃墜している。防空関係部隊の配置のほかに、陸軍では下志津陸軍飛行学校銚子分教場を舞台に、電波兵器の研究も行っていた[19]1944年(昭和19年)9月には、新生駅横から銚子港魚市場までの間、市街地を横断する臨港線が竣成した。東京都が鮮魚食糧難打開のため、その資材を提供して敷設したもので、戦後も漁獲物の輸送に非常な役割を果たした[17]

太平洋戦争末期の日本軍の配置と米軍の侵攻予定図

米軍の日本本土進攻を想定したいわゆる本土決戦の準備に、軍部が本格的に取り組み始めたのは、戦局の焦点が中部太平洋に移ってきた1944年(昭和19年)2月以降のことである。米軍上陸地として予想されるところは何か所かあったが、中でも最も重視されたのは関東沿岸と九州南部沿岸であった。関東沿岸は大別すると相模灘九十九里浜鹿島灘の3か所になり、この内九十九里浜が一番重視された。戦後明らかにされた米軍の作戦計画によると、1945年(昭和20年)11月にまず九州南部に上陸し、次いで1946年(昭和21年)3月に九十九里浜と相模湾に上陸する予定となっており、日本側の予測は的中していた。九十九里浜が重視されるとなると、その東端に近いところに位置する銚子も、決戦態勢の一翼を担わなければならなくなった。事実決戦準備の推進に伴って、海岸地帯を始め銚子近傍一帯に、陸軍の防御陣地や海軍の特攻基地が作られることになり、陸海軍部隊が派遣されてきた。そして末期には決戦部隊も移駐してきて、銚子は一段と緊迫した空気に包まれるようになった。最初に設置されたのは郷土防衛隊と通称される特殊な部隊であった。郷土防衛隊は正式には特設警備隊といい、1942年(昭和17年)制定の「陸軍防衛召集規則」によって召集された隊員によって編成された部隊であった。平常はごく少数の常置員がいるだけで、有事の際だけ隊員を召集して部隊を組織した。隊員は既教育の在郷軍人で、部隊が設置された地域の住民ばかりであった。銚子には1944年(昭和19年)2月に中隊が設置された。固有名は特設警備第26中隊といい、任務は銚子・飯岡地区の沿岸警備であった。中隊本部は後飯町の旧本銚子町役場跡に置かれ、隊長と下士官2が常置員になっていた。7月には高神分屯隊と飯岡分屯隊が設けられた。本格的な決戦準備段階に入ってから銚子に移駐してきた陸軍部隊は、沿岸築城の任務を帯びた近衛第3師団であった。銚子の陣地構築に関係したのは第3作業班と第5作業班で、砲台と歩兵の防御陣地を構築することになっていた。砲台は「銚子拠点強化」と「奇襲上陸防止」のための野砲の砲台と、「鹿島灘側射」と「艦船射撃」のための加農砲の砲台であった。築城が開始されると各地区で住民の労働力が動員されたが、銚子でも1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて、多くの学徒や一般市民が陣地構築作業に従事した。第5作業班が銚子で担当した陣地の位置は、植松町の通称不動山と台町の通称荒野台であった。陸軍の築城部隊と前後して、海軍もまた新たに銚子に配置されてきた。その一つは横浜ヨット株式会社銚子工場駐在の監督官と舟艇の回航要員であり、常時50〜60人の兵員の駐在がみられた。もう一つは救難艇の派遣である。干潟に駐屯していた香取海軍航空基地所属で、銚子漁港魚市場付近に繁留されていた。艇には対空射撃用の機銃が装備されており、また繁留池付近の陸上にも機銃が据えられており、空襲時にはいずれも対空射撃を行っている[19]

特攻艇「震洋」

そしてさらには、特攻基地の建設部隊が派遣されてきた。人員としては前者よりこの方がはるかに多数である。この特攻基地は特攻機の基地ではなく特攻艇の基地である。当時の香取郡豊里村には、既に1944年(昭和19年)4月頃から基地建設部隊が移駐してきて、作業を開始していた。基地建設の主たる作業は特攻艇を格納しておく洞窟を掘ることで、陸軍の築城作業とほとんど同じものであった。豊里に移駐してきた部隊は香取海軍航空隊所属の部隊で、佐藤部隊と称し、隊員は整備兵を主体とする約500人の部隊であった。佐藤部隊は豊里小学校や付近の民家に宿営して、県道銚子佐原線(後の国道356号)に沿う下総台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。銚子に基地建設部隊が派遣されてきたのは豊里方面より遅く、1945年(昭和20年)3月下旬であった。この部隊もまた香取海軍航空隊所属の部隊で、豊里の佐藤部隊と同種の部隊であった。部隊名は松宗部隊、隊員は約200人である。松宗部隊は明神小学校に宿営して、弥生町から幸町に至る台地の縁辺に洞窟を掘り進めた。このほか、当時の飯沼小学校、後の後飯町公園内にも掘った。これは特攻艇格納のためのものではなく、特攻要員の居住する濠であった。明神小学校に宿営してこれらの作業をしていたのは松宗部隊の約半数で、残りの半数は外川分遣隊となり、犬吠の暁鶏館に宿営して外川方面で作業をしていた。外川方面の基地は外川四丁目の台地の地下に作られたが、ここは他と違って特攻艇格納庫のほかに火薬庫なども設けられ、かなり複雑な構造になっていた。これらの特攻基地に運ばれたのは、横浜ヨット銚子工場で製作されていた「震洋」であった。豊里や弥生町、幸町の基地では、これを洞窟から利根川に引き出し、河口から太平洋に出て敵艦船に突入する計画であった。外川の基地は目の前が海である[19]

本土決戦準備の最終段階で銚子に進駐してきたのは、米上陸軍を沿岸地帯で撃滅する任務を帯びた陸軍の決戦部隊であった。その兵力およそ5000、主力は歩兵1個連隊で、ほかに砲兵約1000である。この歩兵連隊は第152師団に属する歩兵第437連隊であった。第152師団には護沢という秘匿名が付けられ、歩兵第430連隊は護沢第22603部隊と称した。略して護沢03部隊ともいう。護沢部隊の担任地域は香取郡笹川町付近を要として、北は神栖村神之池南部、南は海上郡飯岡町と旭町の境付近まで広がる扇状の地域であり、銚子が最も重要な地点となった。護沢部隊司令部は海上郡椎柴村猿田に進出すると共に、護沢03部隊を銚子に進出させて銚子地区隊とした。師団司令部の猿田進出は8月早々で、猿田神社神官宅を宿舎とし、神社を中心にして付近に師団各部を配した。護沢03部隊が銚子に進出したのは7月7日であった。連隊本部の位置を県立銚子工業学校に定め、各隊は市内の中学校・小学校・寺院等に分駐した。銚子駐屯時の兵力は約4千であった。またこのほか野砲3個中隊12門、15糎加農砲1個中隊4門、計1000人の砲兵が配置され、隷・指揮下の歩兵・砲兵の総兵力は5000人であった。銚子進駐後の護沢03部隊が開始したのは、部隊の決戦用陣地の構築であった。主たる任務は銚子半島の防衛で、米軍が銚子にも上陸することになった場合、これらの陣地によって決戦を交えることになっていた。また九十九里浜や鹿島灘に上陸の場合は、側面からこれを砲撃することにもなっていた。さらに第52軍は護沢部隊(師団)に対して、米軍が銚子方面に進攻し、利根川を利用して内陸部に進入するおそれが出てきたら、直ちに短時間のうちに河口を閉塞する方法の研究を命じていた[19]

グラマンF6Fヘルキャット

マリアナ基地からのB29が初めて関東地区に飛来したのは、サイパン陥落4か月後の1944年(昭和19年)11月1日であった。以後関東地区や中部地区には、連日のように40機から100機のB29が来襲するようになった。B29が関東地区を空襲するようになってから、銚子上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となった。2月になるとB29ばかりでなく、艦載機までが来襲するようになった。そのことは日本が、太平洋における制海・制空権をほとんど失っていたことを示すものであった。艦載機が関東地区に初めて来襲したのは1945年(昭和20年)2月16日であった。総数は約950機で、機種はグラマンF6FヴォートシコルスキーF4UカーチスSB2CグラマンTBF等であった。日本の海軍には、艦隊を出撃させてこの機動部隊を洋上で制圧するだけの戦力は残されていなかった。これらの艦載機は、午前7時過ぎから午後4時近くまで、7回にわたって来襲した。目標は主として陸海軍の飛行場であった。このうち第1波は鹿島灘・房総半島南端・三浦半島の三方から侵入し、午前8時5分頃まで約50分間にわたり、千葉・茨城両県下の飛行場を攻撃した。銚子にも陸軍の飛行場があったので、第1波の攻撃目標になった。市街地に対しても若干銃撃したが、ほとんど損害はなかった。そして17日にも総数約590機の艦載機が、午前6時42分から同12時40分まで約6時間、4回にわたって関東地区に波状攻撃をかけ、銚子も再び襲撃された。目標はやはり飛行場で、前日と同じように大きな損害はなかった。関東地区防衛の任にあたっていた作戦部隊は敵艦載機迎撃のために出撃し、日本本土の上空で空中戦を展開した。地上の高射部隊も戦った。2日間の総合戦果は撃墜約400機、撃破約百数十機と報告されたが、日本軍もまた100機前後を失った。関東地区に対する米艦載機の攻撃は、この後25日にもあった。時刻は午前7時半過ぎから同10時半頃までで、来襲機数は約600機とみられた。銚子はこの日も目標になった。この日、日本軍の飛行機は出撃せず、応戦したのは高射砲だけであった[19]

B29スーパーフォートレス

B29と艦載機を交えた本土空襲はいよいよ熾烈化してきたが、この頃米軍の戦略爆撃は大きく転換しようとしていた。これまでの爆撃は、軍需工場や軍施設等いわゆる特定の戦略目標を主とし、また爆撃方法も高々度からレーダーあるいは目視で、爆弾を投下することを基本としていた。このような爆撃を改め、木造家屋が密集し、かつまた軍需生産力の一端を構成している中小工場の密集する日本の都市そのものを焼夷弾によって徹底的に焼き尽くせば、国民も戦意を喪失し生産も低下し、はるかに大きな効果をあげることができるだろうと考えた。この新しい戦略爆撃は3月9日の夜初めて実行され、銚子は首都東京と共にその犠牲となった。この夜午後12時近い頃、B29の梯団は房総半島南端から続々と本土上空に侵入し、東京を目指して一路北上した。しかし折から関東地区には風速20メートルから30メートルの強い北風が吹いていたため、各地のレーダーは正常に作動せず、これを迅速的確に捉えることができなかった。そのため10日午前零時8分に突然東京の月島付近に第1弾が投下され、それから数分たった午前零時15分にようやく空襲警報が発令された。この一夜の空襲で、東京は従来の爆撃を何倍も上回る致命的な打撃を被った。銚子が空襲されたのは東京とほぼ同じ頃であった。銚子にとってはB29による初めての本格的な空襲であった。また2月の敵艦載機の空襲は陸軍の飛行場が主たる目標であったが、今度は市民の生活の場である銚子の都市地域そのものが目標にされた。この夜のB29は2000〜3000メートルもしくはそれ以下の高度で銚子に侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であった。この夜投下された焼夷弾は、100ポンド膠化ガソリン弾(M47)14発、500ポンド集束弾 (M69) 59発、500ポンド・マグネシウム爆弾(M76)105発であった。各所に火災が発生し、折からの強風に煽られて燃え広がり、やがて市中心部は火の海となった。B29が銚子を攻撃していた時間は、30分から1時間の間であった。火災は夜が明けるまで続いた。新生二丁目ではいったん消し止めた火が朝になってから再び燃え上がり、さらに陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。空襲に対する唯一の民間防衛組織は警防団であった。銚子市警防団は本部常備消防部ばかりでなく、各分団も出動し、手挽や腕用のポンプで消火に努めた。対岸の波崎町では、天を焦がすような火災に包まれた銚子の大事を見て、救援の手挽ポンプ車2台を揚操漁船に載せて派遣してきた。市中心部を攻撃したB29は、さらに西部農業地帯の四日市場・余山・高野・三宅の各町にも焼夷弾を投下した。また戦後市に編入された船木・椎柴・豊里・豊岡の各村をも襲った。この夜の損害は、焼失戸数1000余戸、死者47人、負傷者163人であった。市内の主な焼失建物は、銚子市役所・銚子勤労動員署・銚子保健所・財団法人済生会銚子診療所・銚子醤油株式会社銚子事務所・ヤマサ醤油株式会社第1工場・宝醤油株式会社・銚子信用組合・県立銚子高等女学校・白幡神社・宝満寺・大慈寺等であった。人的被害のほとんどは大火災によるものであるが、その中には防空壕の中で4、5人の家族や10余人もの家族・隣人らが全滅するという例もあった。また焼夷弾の直撃を受けた者も少なくなかった。駅前通りの商店街は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通す状態となった。罹災後の市役所は三軒町の県立銚子工業学校の校舎に移転、次いで4月1日に興野国民学校講堂に移転した。銚子にはその後しばらくB29は襲ってこなかったが、艦載機の空襲は頻繁になった。空襲警報は連日のように発令され、敵機は思いのままに上空を飛び回った。5月2日には、対岸の波崎町別所方面から水陸両用機が侵入し、本城町を中心に爆弾投下や機銃掃射を行った。出漁中の漁船も海上でしばしば襲われた[19]

艦載機が連日のように銚子に来襲していた最中の、6月10日7月6日に2度にわたって、千葉市がB29に空襲されて焦土と化した。千葉県下では銚子に次ぐ2番目の被災であった。そして7月19日の夜間、銚子は3月の規模をはるかに上回る2度目のB29の大空襲を受け、市街地の主要地域はほとんど壊滅した。B29侵入後わずか3分で電話は不通となり、送電は途絶え、そして30分後にはほとんど全市が猛火に包まれた。来襲機数は91機という多数であった。投下した焼夷弾・爆弾の数量は、M69焼夷弾2988発、破砕性爆弾156発、合計629トンである。M69焼夷弾は1発の親弾から48発の子弾 = ナパーム弾が出てくるため、ナパーム弾の総数は実に14万3424発になる。B29は最初に市街地の南端に当たる下総台地の縁辺に焼夷弾を投下し、次いで西側に、さらに東側に投下した。残る北側は利根川であるため、三方に焼夷弾を落とされた場合、四方を囲まれたのと同然であった。B29はそこへさらに焼夷弾を投下し、爆弾・機銃による攻撃を加えた。馬場町の映画館銚子座は鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物であったので、付近の人々は誰もが安全と思ってそこへ避難した。しかし当時は狭い路地の奥にあったため、周囲の家屋が燃え上がると全く火に包まれ、逃げ出すこともできず全員が焼死した。愛宕町の通称サンメ(三昧)は、畑に囲まれた凹地の中の墓地であったので、付近の住民が多数逃げ込んだ。B29はそれを機銃掃射したので、多数の犠牲者が出た。警防団はこの夜も消防と救護に奮闘した。また銚子が大空襲を受けていることを知った八日市場町と東金町から、消防自動車各1台が救援に駆け付けた。しかしこの夜の被弾地域は広く、投下された焼夷弾の数も膨大であったので、到底これらの消防能力では及ばなかった。そのうえ3月にはなかった爆弾と機銃の攻撃があったので、消火作業は困難を極め、ほとんど燃えるに任せるしかなかった。警防団の中からも何人かの殉職者が出た。一夜明けて20日の朝が訪れると、全市を挙げての救護活動が行われた。負傷者の救護が急務となり、市内の全医師、全医療機関が動員された。この7月空襲の損害は、焼失戸数3950戸、死者278人、負傷者は808人であった。このうち死者の処置については、市の火葬場が焼失したため、3月の空襲で焼失した宝満寺境内に多数の遺体を収容し、合同の火葬に付した。焼失した公共建物その他主要建物は、銚子駅・銚子警察署・銚子測候所・八日市場区裁判所銚子出張所・銚子税務署・千葉県銚子土木出張所・千葉県銚子漁港修築事務所・市立銚子中学校・市立銚子高等女学校・市立銚子国民学校・市立春日国民学校・市立興野国民学校・市立若宮国民学校・市立飯沼国民学校・銚子商工会議所・銚港神社・峯神社・飯沼観音・浄国寺・銚子市警防団本部常備消防部詰所・市立伝染病院・市営火葬場等であった。焼失戸数は当時の市の全戸数の30パーセント強で、市街地の中枢部は全滅状態であった。そのため焼失地域の市民たちは、当時しばしば自分の家の焼け跡から「御前鬼山が見えるようになった」という言い方をした。御前鬼山は標高わずか26メートル余の小さな丘で、焼失前は市街地から御前鬼山が見えることは、建物に遮られてほとんどなかった[19]

玉音放送を告知する新聞記事

B29の2度の空襲で、銚子の街はほとんど廃墟と化した。しかし空襲は依然として止むことがなかった。F6FヘルキャットやP51ムスタングのような戦闘機が連日のように飛来し、横浜ヨットのような軍需工場や愛宕山の軍施設等を銃撃した。そのほか人家や通行人、陣地構築の作業現場、走行中の列車等も目標になった。戦闘機の来襲は、敵機動部隊が絶えず日本近海を遊弋していることを示している。そして8月1日の夜、内浜町を中心にして一部南町や前宿町方面にも及ぶ、B29の3度目の空襲に見舞われた。死者4人、負傷者37人、焼失戸数約350余戸であった。次いで8月5日夜に4度目のB29の空襲があった。負傷者12人、焼失戸数約28戸であった。米軍機の本土空襲は終戦の日の8月15日まで続き、銚子上空から敵機の爆音が消えた日はなかった。8月15日も早朝から艦載機が来襲し、新生駅が銃撃されたり、銚子鉄道の仲ノ町駅に爆弾が投下されたりした。また八幡町のヒゲタ醤油第2工場にも爆弾が2発落とされたが、不発であったので大きな損害はなかった。銚子上空から敵機の爆音が消え去ったのは、終戦を告げる玉音放送がラジオから流れ始めた正午頃であった[19]

太平洋戦争の戦域

1937年(昭和12年)に始まる日中戦争を含めた太平洋戦争は、銚子に有形無形の莫大な損害をもたらした。損害の最たるものは人的損害であり、人的損害の主たるものは、兵力として動員された軍人と、これに準ずる軍属の損害である。軍人・軍属の損害すなわち戦没者に関する資料として、市に保存されているのは「支那事変遺族台帳」全1冊と「遺族台帳」全6冊である。これらの台帳は旧市内に戦没者に関するもので、戦後合併した新市域の戦没者に関する資料としては「戦没者名簿」がある。以上の資料に基づいて本市の戦没者数を集計すると、旧市域1726人、新市域476人、計2202人である。戦没した地域は、北はアリューシャン列島満州から、南はセレベスニューギニアソロモンの諸島に至るまで、太平洋戦争の全地域にわたる。1955年(昭和30年)11月20日、前宿町公園に忠霊塔が完成した。戦没者ばかりでなく、戦災死者も合祀されている。12月17日に除幕式と合同慰霊祭が行われ、以後毎年秋に市主催の戦没者追悼式が行われている。なお終戦時まで御前鬼山にあった忠魂碑は撤去され、忠霊塔のそばに再建された。また、1984年(昭和59年)9月の市議会において市民1480人から提出された請願が採択されたことを受けて、同年9月14日に「非核・平和都市宣言」を行い、以後この宣言趣旨に則って、各種事業を展開している[19]

現代[編集]

昭和後期[編集]

昭和天皇の地方巡幸

1945年(昭和20年)10月になると、ヤマサ醤油株式会社事務所を接収して、米軍が駐屯するようになった。進駐期日は10月11日で、1946年(昭和21年)7月まで駐屯していた。この米軍の任務は、関東各地に残された旧日本軍の爆弾・砲弾を、銚子漁港から海洋に運び出して投棄処理することにあった。投棄作業は横浜海運株式会社が請け負ったが、戦時中の名残りである銚子市勤労報国隊も動員されている。関東各地の爆弾・砲弾は銚子駅から臨港線によって更に漁港に運ばれて、岸壁に集積された。これを徴用漁船に積載し、米軍の指示する海域に投棄した。投棄作業に従事した漁船は銚子・波崎・片貝方面の漁船であった。爆弾類の投棄処理が終わると、米軍は間もなく銚子を去り、以後米軍の駐留は見られなくなった。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなってきた。そして大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。この時代にはまたヤミ商売が盛んに行われた。業者らのこのような経済活動は、違法なヤミを伴うものであったにしても、一面から見れば旺盛な生活力の発揮であり、それが銚子の地域経済を活発にし、戦災復興の大きな原動力となった。銚子の水産物の主要消費市場は市外・県外であり、業者らの活動が多額の新円を市内に流入させることとなり、それが他の業種にも経済効果を波及した。1946年(昭和21年)6月6日7日には、地方巡幸を行っていた昭和天皇が銚子に行幸した。天皇は6日午後銚子駅に到着し、7日にかけて銚子商業学校、銚子造船所、魚市場、犬吠埼灯台、ヤマサ醤油株式会社を視察し、奉迎の人々に親しく声をかけて激励した。銚子市漁業会からは、タイやエビ等の鮮魚を献上した。夜間、天皇は新生駅まで入れた