陣屋

三日月陣屋の長屋門(復元)

陣屋(じんや)は、日本の近世史において領主の所領の拠点となる場所に置かれた以外の構築物であり多義的な概念である[1]。なお、古代史では宮中など(宮城や京師)を警固する衛士の詰所、中世史では合戦時に兵士が臨時に駐屯する軍営などを陣屋と呼んだ[2]。以下では日本の近世史の用語としての「陣屋」について述べる。

概要[編集]

足守陣屋の小規模な堀と石垣

日本の近世史の「陣屋」の概念は多義的で、主に領主の所領の拠点となる場所に置かれた城郭以外の構築物を様々な形で指す概念となっている[1]。以下のような意味がある。

  1. 江戸幕府が地方支配のために置いた郡代代官などの役所[3] - 江戸初期の関東の代官陣屋などで元禄年間には全国の天領に陣屋が置かれた[2]
  2. 大名のうち家格が国主・城主格でない者[3](無城の小大名や交代寄合)の屋敷[2]
  3. 旗本や代官などの支配地における居所(役宅や屋敷)[2][3]あるいは用水方の普請役の詰所[2]
  4. 大藩の重臣が城下町の外などに設けた居所[2][3]
  5. 藩が飛地を支配するために設けた役所(近世後期に蝦夷地の防備を目的として構築された施設を含む)[2][3]

なお、京都市の「小川家住宅」(国重要文化財)は「二条陣屋」と呼ばれており、江戸時代の町家であるが、西国大名が宿舎として使用したことで知られる[4]

江戸時代には飯野陣屋上総国)、敦賀陣屋越前国)、徳山陣屋(周防国徳山城)が「日本三(大)陣屋」と呼ばれていた[5][6]

構築者[編集]

陣屋は構築者によって幕府の陣屋と大名(諸藩)の陣屋に大別される[1]。幕府の陣屋は、さらに1.直轄領を統括する「代官所」・「代官陣屋」・「陣屋」、2.旗本が所領の拠点とした「陣屋」、3.高禄の交代寄合が所領の拠点とした「陣屋」に分けられる[1]

また、大名(諸藩)の陣屋は、城持ちでない1~3万石程度の小藩が藩領の政治的・軍事的拠点とした場所で、『武鑑』で「城」に対して「在所」と記したものをいう[1]。本藩に対して支藩が独立的な場合には、その支藩の在地にも陣屋が置かれた[1]

幕府は武家諸法度で城の修築について厳しい統制を行った[3]。一般的には、城は複数の曲輪をもつ戦略上の拠点として即応できる常備施設に当たるものをいい、陣屋は単郭を基本とする在地支配のための政庁で、堀、土塁、石垣はあっても戦闘に即応できる施設といえない程度の施設をいった[7]

なお、幕府領や旗本領と、藩領との間で相互交換が行われた飛地領などでは陣屋の転用も行われた[1]

所領構造[編集]

幕府の陣屋は、支配機構の観点から上位に位置する「元陣屋」と下位にある「出張陣屋」に分けられる[1]

また、大名(諸藩)の陣屋の場合、小藩で幕府から城持ちの許可が得られずにその代用とした施設のほか、より大きい藩でも一円的な所領形態や分散的な所領形態のために陣屋が設けられた[1]

外様大名の場合は一円的な所領形態をとる傾向があり、一国一城令のために従来の支城に代えて設置された[1]。しかし、藩によって名称は異なり、仙台藩では「要害」や「所」、岡山藩では「御茶屋」、鹿児島藩では「麓」と呼ばれる構造物が設置されたが、これらは機能的に陣屋とみなすことができる[1]。陣屋にあたる構築物の名称や形態上の違いは、政治経済、軍事、治安維持などの違いから生じるとされるが、形態的にみると周辺に侍屋敷や町屋敷が配置される「小城下町」が形成された[1]

一方、譜代大名の場合は分散的な所領形態をとる傾向があり、要職に就く大名家では本来の所領とは別にまとまった土地を与えられることも多く、城地から離れた飛地に「陣屋」(「役所」や「代官所」と称される場合もあった)が置かれた[1]

なお、城持ちでない大名は本拠に陣屋を構えたが、それとは別に飛地を領有する場合には飛地にも陣屋を置くことがあった[1]

建物が現存する陣屋[編集]

復元された陣屋[編集]

三日月陣屋 長屋門(復元)

遺構が一部残る陣屋[編集]

陣屋の門などの建物の一部や土塁、石垣等が現存することがあり、ほかに廃止後に移築されて建物の一部が現存する場合もある。

北海道地方[編集]

東北地方[編集]

関東地方[編集]

楽山園 小幡陣屋

中部地方[編集]

奥殿陣屋 書院

近畿地方[編集]

柏原陣屋 玄関

中国地方[編集]

四国地方[編集]

西条陣屋 大手門

九州・沖縄地方[編集]

神代陣屋 長屋門

建物・遺構が現存しない陣屋[編集]

樺太[編集]

北海道地方[編集]

東北地方[編集]

福島県[編集]

関東地方[編集]

千葉県[編集]

東京都[編集]

神奈川県[編集]

中部地方[編集]

新潟県[編集]

富山県[編集]

石川県[編集]

  • 七尾陣屋石川県七尾市) - 前田利家の妻の甥の土方雄久が、越中新川郡で1万石を領知し、後に能登国へ移封された。土方雄久は、山崎村(七尾市)に陣屋を設けた。土方雄久から雄重・雄直と続き、4代目の雄隆は、延宝9年(1681年)、自分の領地の一部を弟の雄賀に与え、雄賀はその一部(150石)を次男の長十郎に分け与えた。ところが、雄隆がお家騒動を起こしたため、貞享元年(1684年)、領地を没収されて天領となり、幕府は、下村に代官所を設置し、手代を常置させ直接支配した。

福井県[編集]

  • 松岡館(松岡陣屋、福井県吉田郡永平寺町松岡葵) - 越前国松岡藩の藩庁。50年ほどで廃止。陣屋があった当時は御館(松岡御館)と呼ばれていた。所縁とされる椿の木が残る。
  • 本保出張陣屋(福井県越前市) -享保6年(1721年)江戸幕府の飛騨高山陣屋の出先として築かれた。越前国にある幕府直轄領を管理する天領陣屋。
  • 千福陣屋(福井県越前市) - 越前国南条郡千福村にあった。美濃郡上藩の飛び地管理のための陣屋。
  • 敦賀陣屋(鞠山陣屋、福井県敦賀市) - 越前国敦賀郡にあった。鞠山藩(敦賀藩)の藩庁が置かれた。日本三大陣屋のひとつ。陣屋跡は整地され、民間企業の保養所が建てられていたが現在は更地。私有地につき立ち入りできない。隣接する鞠山神社は藩祖の酒井忠稠を祭る。陣屋大名であり当主は定府であった敦賀藩は、のちに城主格となり、同時に参勤交代の義務が課せられている。

山梨県[編集]

長野県[編集]

静岡県[編集]

  • 下田奉行所(静岡県下田市) - 伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1,000石高の職で役料が1,000俵支給された。当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転した。
  • 三島陣屋(静岡県三島市) - 韮山代官所の業務を補佐する出先機関。
  • 松岡陣屋(静岡県富士市) - 韮山代官所の業務を補佐する出先機関。
  • 小島陣屋(静岡県静岡市清水区) - 小島藩の陣屋。
  • 駿府町奉行所(静岡県静岡市葵区) - 駿府の町政の他、駿河国内の天領の主に公事方を扱った。駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。横内組町奉行大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられたが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組町奉行を廃止した。
  • 紺屋町陣屋(静岡県静岡市葵区)
  • 島田陣屋(静岡県島田市) - 韮山代官が東海道筋川々普請御用を担当した際の業務を補佐した出先機関。寛政6年(1794年)駿府町奉行所に統合され紺屋町陣屋の出張陣屋となり明治に至った。
  • 横内陣屋(静岡県藤枝市) - 岩村藩が駿河国内15か村を統治した陣屋。
  • 相良陣屋(静岡県牧之原市) - 相良藩の陣屋。
  • 堀江陣屋(静岡県浜松市中央区舘山寺町堀江) - 遠江国敷知郡にあった堀江城跡に置かれた。江戸時代の高家大沢氏の陣屋。

愛知県[編集]

寛永15年(1638年)4月27日に伊保藩は廃藩となり、その所領は幕府領となった。

岐阜県[編集]

三重県[編集]

近畿地方[編集]

滋賀県[編集]

京都府[編集]

  • 京都代官所(京都府京都市上京区) - 寛永11年(1635年)、五味豊直が京都の代官奉行に任じられ、二条城の西側に陣屋を設置したために「京都郡代」と呼称されたのが最初と言われる。郡代の職務を、京都町奉行・京都代官・伏見奉行に分割していた。京都所司代の支配下に置かれて京都周辺の天領・皇室領・公家領の支配を行うなど畿内における江戸幕府・朝廷の財政を主として管轄した。
  • 京都町奉行所 - 寛文8年12月8日1669年1月10日)に京都代官から分離する形で設置された。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、東御役所西御役所と呼ばれていた。
  • 伏見奉行所(京都府京都市伏見区) - 伏見城廃城に伴い、元和9年12月(1624年1月)伏見奉行が置かれ、江戸幕府成立期には、畿内近国八か国を総監する上方郡代を兼ねた。最初の奉行小堀政一(遠州)は、寛永9年(1632年)、伏見城南方清水谷の山口駿河守屋敷にあった奉行所と六地蔵西町の小堀遠江守屋敷の居宅を、伏見城西方常磐町の富田信濃守屋敷跡に移転新築。幕末の慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで焼失するまで、江戸時代を通してその屋敷に奉行所が置かれることになる。遠州流茶道の祖・政一により作られた新しい奉行屋敷は、3つの茶室「松翠亭」「転合庵」「成趣庵」や、数奇屋「松翠亭」、伏見城の礎石などを利用した庭園を擁し、自身が茶道師範を務めた3代将軍徳川家光を迎えるなど、政務と茶の湯が深く交わっていた。寛文6年3月(1666年)に改めて伏見奉行が創設されるも、他の遠国奉行とは違い大名か旗本の中でも大名格の者が任命された。元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続き、伏見城の城下にあった伏見町と周辺の8カ村を管轄するほか、宇治川(淀川)にて京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点・伏見港の支配と参勤交代の西国大名の監視、京都御所の警備などにあたった。
  • 綾部陣屋(京都府綾部市) - 綾部藩の陣屋。
  • 山家陣屋(京都府綾部市) - 山家藩の陣屋。
  • 峰山陣屋(京都府京丹後市峰山町) - 峰山藩の陣屋。

奈良県[編集]

大阪府[編集]

兵庫県[編集]

中国地方[編集]

四国地方[編集]

  • 土庄陣屋香川県土庄町) - 小豆島は、元和元年から天領として大坂奉行の支配下にあったが、天保9年(1838年)に西部の六郷(土庄・渕崎・上庄・肥土山・小海・池田)が、津山藩に移され土庄に津山藩の陣屋が置かれ、明治2年の版籍奉還までの間、代官が常駐して行政上の大抵のことはここで処理された。
  • 日和佐陣屋徳島県日和佐町) - 文化4年(1807年)、徳島藩によって築かれた。寛政11年(1799年)、徳島藩によって海部陣屋が築かれ那賀郡と海部郡の郡代所となった。文化4年(1807年)、日和佐陣屋が築かれ、海部より移転し明治まで郡代所として続いた。
  • 海部陣屋(徳島県海部町)- 寛永15年(1638年)、海部城が廃城となると東麓に郡代官所が設けられ「御陣屋」と呼ばれた。その後、寛政11年(1799年)に鞆の御陣屋が新設されたが、文化4年(1807年)には郡代官所が日和佐陣屋に移された。
  • 土佐中村陣屋(高知県四万十市)-土佐藩の支藩である土佐中村藩の陣屋。

九州・沖縄地方[編集]

福岡県[編集]

佐賀県[編集]

長崎県[編集]

大分県[編集]

宮崎県[編集]

鹿児島県[編集]

沖縄県[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 土平博「近世陣屋と町の形態に関する再検討:陸奥国南部を事例として」『奈良大学紀要』第37号、奈良大学、2009年3月、65-83頁、CRID 1520853832215841408ISSN 03892204 
  2. ^ a b c d e f g 植松清志、谷直樹「狭山藩の武家住宅について」『大阪市立大学生活科学部紀要』第45巻、大阪市立大学生活科学部、1997年、71-85頁、CRID 1050282677427730944ISSN 0385-8642 
  3. ^ a b c d e f 土平博「大和国芝村藩の藩領と陣屋形態」『総合研究所所報』第10号、奈良大学総合研究所、2002年、17-29頁、CRID 1520572359406628992ISSN 09192999 
  4. ^ 京町家とその暮らしの文化 - 京都市文化芸術都市推進室、2023年11月19日閲覧。
  5. ^ 千葉県文化財センター『飯野陣屋跡・山崎城発掘調査報告』千葉県教育委員会〈千葉県中近世城跡研究調査報告書 8巻:昭和62年度〉、1988年。doi:10.11501/12241233全国書誌番号:88036529https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/30993 , NDLJP:12241233
  6. ^ 鞠山藩ゆかりの建造物 - 敦賀市、2023年11月19日閲覧。
  7. ^ 宮坂淳一「平成22年度第1回 入門考古学講座 中世城郭の歩き方」 - かながわ考古学財団、2023年11月19日閲覧。
  8. ^ 森下陣屋跡 - Ome.nave 青梅資料館 2021年5月26日閲覧。

関連項目[編集]