顕仁皇后

韋妃
南宋の追贈皇后

別称 顕仁皇后
慈寧皇太后
出生 元豊3年10月25日[1]
1080年12月8日
開封府
死去 紹興29年9月20日[1][2]
1159年11月1日
臨安府、慈寧宮
埋葬 永佑陵
配偶者 徽宗
子女 高宗
父親 韋安礼
母親 秦国夫人宋氏
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顕仁皇后(けんじんこうごう)は、北宋徽宗の妃嬪。南宋高宗の母であり、その即位後に皇太后とされた。姓は韋氏

生涯[編集]

韋安礼の娘。初め、丞相の蘇頌の側女を務めたが、夜尿症のため追い出された[3]。その後、端王(後の徽宗)の府邸に入って侍女となった。侍女喬氏(後の貴妃)と姉妹の契りを結んだ。喬氏は徽宗の寵愛を受け、多くの男子を産んだ後で、韋氏を徽宗に推薦した。韋氏は平昌郡君に封ぜられ、趙構(後の高宗)を産んで、修容嬪にいたった。しかし徽宗の寵愛はなく、寂しい生活を送った。

靖康元年(1126年)、軍の侵攻に際し、趙構は自身を使節(人質)に送るよう兄の欽宗に申し出た。これは欽宗を喜ばせ、その褒賞として韋氏に龍徳宮[4]賢妃が授けられた。

靖康の変の際、高宗は都を離れていたためかえって難を逃れたが、韋氏は徽宗や欽宗らと共に金に連行された。高宗が南宋を興して皇帝に即位すると、韋氏は宣和皇后の尊号をもって遙尊された。翌月(金の天会5年(1127年)6月7日)、韋氏は柔福帝姫(高宗の異母妹)などの女性たちと共に洗衣院に下された。韋氏は、容姿は凡庸の上に年を取っていたが、高宗に屈辱を与える目的から、多くの辱めを受けた。その後、金の宗室の完顔宗賢の側室とされ、男子を2人産んだ。

南宋の紹興12年(金の皇統2年、1142年)、金と南宋の間に和議が成立し、韋氏が高宗の許に還された。韋氏は皇太后として敬われ、富貴を享受し、またすでに還暦を過ぎていたがさらに長命を保った。

紹興29年9月庚子(1159年11月1日)、臨安の慈寧宮にて80歳で崩じ、「顕仁」とされた。同年11月、徽宗の永佑陵に合葬された[1]

逸話[編集]

晩年、韋太后は目が見えなくなった。名医の皇甫坦のおかげで片目は持ちこたえたが、片目は失明した。

金史』海陵本紀によると、韋氏が高宗の元へ還される際、欽宗は拝み倒して自身の帰還を依頼するよう懇願し、自身は道士にしてくれればよい(帝位は望まない)といった。韋氏は自身の目にかけて誓いを立てた。しかし帰還後、息子の帝位が動揺すると考え、誓いの言葉を実践しなかった。結局、欽宗は南帰できず、東北の僻地である五国城(現在の黒竜江省ハルビン市依蘭県)で没し[5]、その末裔は紹興31年(1161年7月に金の海陵王に殺害された。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『宋会要輯稿』巻12, 后妃一 顕仁韋皇后の項より。
  2. ^ 『宋史』巻31, 高宗紀八 紹興二十九年九月庚子条による。
  3. ^ 『思陵録』・『南宋相眼』などに蘇頌の孫の記述。蘇頌は韋氏より60歳年上であった。
  4. ^ 太上皇(欽宗に譲位後の徽宗)の宮名。
  5. ^ 『宋史』巻23, 欽宗紀による。

伝記資料[編集]

  • 宋史』巻243 后妃伝下 韋賢妃伝
  • 『靖康稗史箋證』
  • 『三朝北盟会編』
  • 金史