馬籠宿

座標: 北緯35度31分36秒 東経137度34分03秒 / 北緯35.52667度 東経137.56750度 / 35.52667; 137.56750

渓斎英泉木曽海道六十九次・馬籠」
馬籠宿付近の立体視画像(平行法)。赤線が中山道。右上北東が馬籠峠方向。狭い尾根を縦走する中山道両側に石垣を積み上げ、南西端の勾配の大きい地形を桝形に利用している。黄線が馬篭バスストップよりのアクセス道路。航空写真撮影時にはなかった谷底の堰堤上を、現在徒歩でアクセスできるように整備されている。航空写真は1977年撮影国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

馬籠宿(まごめじゅく)は、中山道43番目の宿場(→中山道六十九次)で、木曽11宿の一番南の宿場町である。

かつては長野県木曽郡山口村に属したが、2005年平成17年)2月の山口村の越県合併により岐阜県中津川市に編入された。1895年明治28年)と1915年大正4年)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したが、その後復元され現在の姿となった。

石畳の敷かれた坂に沿う宿場かつ近代を代表する作家の一人である島崎藤村の故郷として知られ、馬籠峠を越えた長野県側の妻籠宿(木曽郡南木曽町)とともに人気があり、多くの観光客が訪れる。石畳の両側にお土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活とを共存させている。ほぼ中間地点に、旧本陣であった藤村記念館島崎藤村生家跡)がある。

歴史[編集]

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人であった。

馬籠は(1215年)当時には「美濃州遠山庄馬籠村」といい、源義仲(木曽義仲)の異母妹・菊姫が源頼朝から領地として賜り、兄の義仲を弔うため法明寺という尼寺で暮らしていたと伝わりその跡地が存在する。長享元年(1487年)頃になると木曽馬籠や恵那郡馬籠といったりするようになるが、妻籠までが信州木曽谷で、馬籠は美濃に属した[1]

沿革[編集]

  • 1871年明治4年)
  • 1872年10月10日(明治5年)、筑摩県第八大区五小区馬籠村となる。
  • 1874年(明治7年)9月7日 - 筑摩郡 馬籠村 と湯舟沢村 が合併し筑摩県筑摩郡神坂村となる。
  • 1876年(明治9年)8月21日 - 筑摩県の信濃国分が長野県に編入されたため長野県筑摩郡神坂村となる。
  • 1879年(明治12年)1月14日 - 西筑摩郡発足により長野県西筑摩郡神坂村発足。
  • 1958年昭和33年)10月14日 - 西筑摩郡神坂村の馬籠・峠・荒町の三集落(旧馬籠村域)が長野県西筑摩郡山口村に編入される(※自治庁(現在は総務省)の裁定による。旧馬籠村域は大字神坂となる。
  • 1968年(昭和43年)5月1日 - 西筑摩郡が木曽郡と改称したため長野県木曽郡山口村神坂となる。
  • 2005年平成17年)2月13日 - 岐阜県中津川市に編入され岐阜県中津川市馬籠となり現在に至る。

交通[編集]

信濃路自然歩道に位置しておりハイキングコースが整備されている(馬籠峠まで2.0kmで徒歩で約60分)[2]

史跡[編集]

脇本陣史料館
藤村記念館

落合宿までの史跡

ゆかりの人々[編集]

  • 島崎藤村 - 馬籠宿の生まれ。代表作のひとつ「夜明け前」は、馬籠宿を舞台にした歴史小説。

参考文献[編集]

隣の宿[編集]

中山道
妻籠宿 - 馬籠宿 - 落合宿

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 島崎藤村『夜明け前』における木曽山林事件の虚実 林業経済史の立場から 西川善介、専修大学社会科学年報第40号、2006
  2. ^ 妻籠宿案内図”. 南木曽町観光協会. 2021年11月11日閲覧。
  3. ^ 『名古屋~馬籠・妻籠線』を新設しました 東濃鉄道 2019年11月23日閲覧

外部リンク[編集]