馬良 (安徽派)
馬良 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1875年(清光緒元年)[1] |
死去: | 1947年(民国36年)[2] 中華民国山東省済南市 |
出身地: | 清直隷省保定府清苑県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 馬良 |
簡体字: | 马良 |
拼音: | Mǎ Liáng |
ラテン字: | Ma Liang |
和名表記: | ば りょう |
発音転記: | マーリャン |
馬 良(ば りょう)は中華民国の軍人。初め北京政府安徽派、後に中華民国臨時政府、南京国民政府に属した。回族。字は子貞。
なお、清末から民国時代にかけて活動した教育家・学者・政治家で、復旦公学(後の復旦大学)初代校長の馬良(馬相伯)とは別人である。
事跡[編集]
北洋武備学堂を卒業。1911年(宣統3年)には北洋第5鎮第9協協統に昇進している。中華民国成立に伴う軍改組後も、そのまま第5師第9旅旅長に留まった。以後、山東第47混成旅旅長、済南鎮守使を歴任している。
1916年(民国5年)6月の袁世凱死後は、段祺瑞率いる安徽派に所属した。1918年(民国7年)、参戦軍第2師師長、辺防軍第2師師長を歴任した。しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で失脚した。1925年(民国14年)に北京政府軍事顧問となる。また、1933年(民国22年)に国民政府の軍事参議院参議となったものの、概して不遇であった。
1937年(民国26年)の日中戦争勃発後、華北が日本軍の手に落ちるとともに、馬良は済南維持会会長として、日本に協力した。1938年(民国27年)4月、中華民国臨時政府の下で署理山東省省長となる。翌年1月に唐仰杜に譲るまでその地位にあった[3]。
汪兆銘(汪精衛)が1940年(民国29年)3月に南京国民政府を樹立すると、華北政務委員会委員に任命された。また、国術教会を組織して自ら会長となる。自らの邸宅に数十名の居候の武術家を置き、道場を設けて後輩の指導にあたっている。
1945年(民国34年)8月の日本敗北後、馬良は漢奸として国民政府に捕えられる。1947年(民国36年)、山東省済南市で獄死した。享年73。
注[編集]
参考文献[編集]
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 鄭仁佳「馬良小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 「唐仰杜」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)内「山東省省情資料庫」
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国臨時政府
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