高多仏

高多仏(こうたぶつ[1]生没年不詳)は、渤海国の使節の首領[2]

810年5月、帰国を目前にして使節団から脱走して、越前国にとどまり、いわば亡命した。その後、越中国に移されて、史生羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習した[2]。その後、高多仏は帰化して高庭高雄を名乗る[3]

亡命事件について、「このときも越前の官人のなかに、渤海語を解するか、もしくは漢字による筆談の可能であった人物がいたに違いない。意志の疎通のまったく不可能な状態で、使節団からの脱走がありえたとは考えられないからである」とする見解があるが、伊藤英人は、「平安初期の越前と渤海の頻繁な交流を勘案すれば越前の官人中に渤海語を解する者があった可能性は否定できない」とする[3]

脚注[編集]

  1. ^ 古畑徹『渤海国とは何か』吉川弘文館、2017年12月、43頁。ISBN 978-4642058582 
  2. ^ a b 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。 
  3. ^ a b 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、413頁。