高松梅治

高松 梅治(たかまつうめじ、うめはる、明治15年1882年12月〜)とは、日本軍人学者発明家である。無限軌道を発明したことで知られる[1]

略歴[編集]

富山県新川郡新保村(現・富山市栗山)に高松清重の子として生まれる[2][3]。中学のころ井上円了に学び、慶應義塾に入学、明治40年(1907年)に同校法科を卒業[3][4]

巣鴨板橋(白山)間を走る乗合馬車(通称・ガタ馬車)に乗った妊婦がその激しい揺れにより車上流産したを知り、滑らかに回転させるものとして無限軌道の研究を始め、13年の試行錯誤の末、明治44年(1911)に欧米8か国に特許申請し、国内では農商務省の特許を取得した[3][1](発明自体は1899年とする説[5]、1907年ごろとする説あり[6])。同年12月に富山県庁前で試作車の公開実験を行ない[7]、1912年1月に内務省内で試運転を行なった[1]。1913年に東京第一師団で実験して見せた際には、英国大使付武官も参観し、その画期的な発明に驚き、本国イギリスへ急報したという[6]。このほか、近衛師団司令部、陸軍士官学校衆議院大阪市役所など公私数百回の公開実験を行ない、その効力を広く知らしめたが、成功を妬まれ、妨害や中傷、類似品の出現など多くの困難に見舞われた[3]

日本陸軍はこの無限軌道を不採用にしたが、1916年9月、第一次世界大戦の欧州戦線にこの原理を応用したタンク(無限軌道戦車)が登場し、その後日本軍を含めた全世界で採用された[6][8]

年譜[編集]

富山県に生まれる。

富山県立富山高等学校卒。慶應義塾大学卒。

1910年に無限軌道を考案。後にイギリス軍の戦車に採用される。

主な活動[編集]

その他[編集]

時期不詳なるも、高松家は同地の豪農である一方、樺太で水産事業を行っており、漁師が砂浜で水揚げをしている際に、無限軌道の原理となるアイディアを発見し、実用化したものといわれる。また樺太での事業に関係して訴訟が発生するも、弁護士抜きで自身が訴訟を進めたといわれる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 無限軌道発明『新聞集成明治編年史. 第十四卷』林泉社、1940、p519
  2. ^ 富山県富山市栗山 くりやま[リンク切れ]『日本の地名がわかる事典』
  3. ^ a b c d 高松梅治君『代表的人物及事業』時事通信社, 1913
  4. ^ 無限軌道の発明者 塾員高松梅治氏のこと手塚豊『三田評論総目次: 創刊80年記念出版(1898-1978年)』慶應義塾, 1980
  5. ^ 雪上の交通用具『日本の雪上車の步み』細谷昌之、N.I. Polar Research Library, 2001、p6
  6. ^ a b c デザインと継承6 風土と言う名の創造主富山のデザイン情報誌「Offer」39号, 2012.3.30, p2
  7. ^ ふるさと探訪 富山県の近代史 (49)無限軌道[リンク切れ] 北日本新聞、2016年01月28日
  8. ^ 経済戦争の作戦 (二十五) 発明家冷笑者の後悔 p.16 大阪時事新報 1917.3.29-1917.5.25 (大正6)