高槻市立如是小学校

高槻市立如是小学校
地図北緯34度50分11.4秒 東経135度36分20.3秒 / 北緯34.836500度 東経135.605639度 / 34.836500; 135.605639座標: 北緯34度50分11.4秒 東経135度36分20.3秒 / 北緯34.836500度 東経135.605639度 / 34.836500; 135.605639
過去の名称 第三小区五番小学校
津之江小学校
島上郡如是尋常小学校
三島郡如是尋常小学校
三島郡如是尋常高等小学校
三島郡如是国民学校
高槻市如是国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 高槻市
併合学校 島上郡公立五十住小学校
設立年月日 1874年3月5日
創立記念日 3月5日
共学・別学 男女共学
学期 2学期制
学校コード B127210005031 ウィキデータを編集
所在地 569-0827
大阪府高槻市如是町2番3号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

高槻市立如是小学校(たかつきしりつ にょぜしょうがっこう)は、大阪府高槻市如是町にある公立小学校

高槻市の市立小学校としては、最も広い運動場を有している。

沿革[編集]

学制発布に伴い、1874年に当時の島上郡津之江村に設置された小学校を起源としている。町村制実施により津之江・東五百住・西五百住・芝生・庄所の5村が合併して如是村となったことに伴い、如是小学校となった。学校設置の経緯から、町村制に基づく如是村発足後も大字(旧村)によっては別の村の学校に通学していたが、後年になって如是小学校の校区に編入されている。

村名および学校名は、地域を流れる女瀬川(にょぜがわ、現在は「如是川」とも表記する)から、経典の同音の「如是我聞」の字をあてて名付けられている。

1934年9月21日室戸台風の暴風雨により木造校舎が倒壊[1]、児童30名と教員2名が死亡するなどの大きな被害を出した。校内には室戸台風殉難之碑が建立されている。

地域の宅地化により1960年代以降には児童数が急増した。このことに伴い1970年以降、芝生津之江五百住の3小学校を相次いで分離している。

通学区域[編集]

  • 高槻市 如是町、津之江町2・3丁目。
卒業生は基本的に高槻市立如是中学校に進学する。

交通[編集]

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 高潮の阪神沿道で三百人行方不明『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]