高階成章

 
高階成章
時代 平安時代中期
生誕 永祚2年(990年
死没 天喜6年2月16日1058年3月13日
別名 欲大弐
官位 正三位大宰大弐
主君 三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
敦成親王春宮蔵人
敦良親王(春宮大進)
親仁親王(春宮権大進)
氏族 高階氏
父母 父:高階業遠、母:修理大夫業平の娘
兄弟 業敏、成行、成章、成佐、成経、円縁
藤原宣孝娘・賢子藤原興方
章行、章親、慶朝、為家、藤原通宗室、藤原通房乳母、藤原伊房
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高階 成章(たかしな の なりあき)は、平安時代中期の公卿春宮亮高階業遠の四男。官位正三位大宰大弐

経歴[編集]

三条朝主殿権助春宮・敦成親王の蔵人を務める。長和5年(1016年)敦成親王が即位後一条天皇)すると、成章は六位蔵人に補せられて式部少丞を兼ね、翌長和6年(1017年巡爵により従五位下筑後権守に叙任された。

寛仁3年(1019年紀伊守に遷り、万寿3年(1026年)治国の功労により従五位上に叙せられる。この間の治安元年(1021年)には平安京の南の東寺近くで、敦明親王(小一条院)の従者から虐待を受けている。成章は従者に頭髪を掴まれて地面に這いつくばらせられ、四方八方からさんざんに蹴飛ばされる暴行を受けた。そのため成章の衣服はボロボロになってしまった。なお成章は敦明親王が紀伊国に所有する荘園に関連してかねてより院から恨みを買っていたという[1]。万寿4年(1027年)春宮・敦良親王の春宮大進に任ぜられる一方で、肥後守太宰大弐九州の地方官を兼ね、長元9年(1036年)敦良親王の即位(後朱雀天皇)に伴って正五位下に昇叙された。

長暦元年(1037年)今度は春宮・親仁親王(のち後冷泉天皇)の春宮権大進に任ぜられ、このころ近江守を兼ねるが、長久3年(1042年従四位下・主殿頭に叙任され、親仁親王の即位を見ないまま春宮権大進を去っている。その後は、長久5年(1044年阿波守、永承4年(1049年伊予守四国地方国司を歴任。また、妻の藤原賢子(のち大弐三位)がかつて親仁親王の乳母を務めていたこともあってか、後冷泉朝にて永承5年(1050年)従四位上、永承6年(1051年正四位下と昇進を続けた。

天喜2年(1054年大宰大弐に任ぜられて再び九州に下向すると、翌天喜3年(1055年)赴任を賞して従三位に叙せられ、高階氏の氏人としては大伯父の高階成忠以来約70年ぶりに公卿に昇進した。天喜6年(1058年)正月に常寧殿造営の功労により正三位に至るが、同年2月6日薨去享年69。

人物[編集]

地方官を歴任して蓄財し欲大弐と呼ばれた[2]。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[3]

官歴[編集]

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜[編集]

妻の藤原賢子(藤原宣孝紫式部の間の娘)は、大弐三位として知られる歌人である。賢子は幼少期の後冷泉天皇乳母を勤めており、天喜2年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに[要出典]賢子は従三位に昇叙し、夫の成章も大宰大弐に就任した。「大弐三位」の名はこの際の夫の官職「大宰大弐」と賢子自身の位階「三位」を合わせたものである。この二人の間に生まれた高階為家は、のちに後冷泉天皇の落胤を養子としている。

脚注[編集]

  1. ^ 『小右記』治安元年11月8日条
  2. ^ 『尊卑分脈』
  3. ^ 『勅撰作者部類』
  4. ^ 『左経記』
  5. ^ 『類聚符宣抄』第3
  6. ^ 『東大寺文書』1-429
  7. ^ 『二条太皇太后宮大弐集』
  8. ^ 『公卿補任』

参考文献[編集]